琥珀色の戯言

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【読書感想】ハジの多い人生 ☆☆☆☆


ハジの多い人生

ハジの多い人生

内容(「BOOK」データベースより)
文化系WEB女子改めハジッコ女子・岡田育の自伝的エッセイ集。デジタルコンテンツプラットフォーム「cakes」の人気連載がついに書籍化!!


Kindle版もあります。

ハジの多い人生

ハジの多い人生


岡田育さんのエッセイ、ずっと楽しみに読んでいます。
僕のような土着系オヤジには縁のない、お洒落な文科系女子の世界って、こんな感じなのかなあ、などと思いつつ。
その岡田さんのエッセイが本にまとめられたのがこれ。
「cakes」で連載されていたもので、ネットでけっこう話題になった岡田さんの結婚についての話は、この本には出てきません。
というか、ここに書かれている範囲には、まったく「結婚しそうな感じ」が無いんだよなあ。
いや、「結婚しそうな感じ」って、どんな感じかと問われると、困ってしまうのですけど、なんとなく。


「自伝的エッセイ」を銘打たれているだけあって、「本当に手がかからない子供だった」という物心ついたときの話から、周りが女性ばかりの環境で「男役」として生きたことへの感慨など、読んだだけで、「女の半生」を伴走してきたような気分に、少しだけなります。
そして、岡田さんがこれほどまでに「自分のことを、ちゃんと記憶している」ことに、圧倒されてしまうのです。

 ところで、日本語圏ウェブの世界では、ある一人の賢くて小さな女の子がTwitterを使い、彼女自身の言葉でユニークな意見を全世界発信するときに、一人前の個人として扱われる機会より、バッシングされる頻度のほうが、ずっと高かったりする。曰く、「子供のくせに社会を知ったふうに、不特定多数の前で大人のような口をきく」「子供はもっと子供らしく振る舞うべきだ」「あんなマセガキは、将来ろくな大人にならない」……6歳から満員電車に乗っていた私に言わせれば、笑止千万である。
 子供たちは、ほんの僅かな新しい体験から、じつに多くのことを吸収し、学び、みずからの糧として、成長していく。彼ら彼女らは、ものを考えていないのではない。言葉にしていないのでもない。じっと見聞きして、頭の中で整理整頓し、あらゆる事象を自分自身の思考として体得していく。泣き声を言葉に換えるのが他よりも早い乳幼児がいれば、思考を発信するスキルの習得が他よりも早い児童もいる。それだけの話だ。
 彼女が大人びているのではない。大人が子供じみているのだ。大人が子供じみたことを言うのは、かつて自分が子供だったことを、子供だったとき(彼女と同じように!)じっと見聞きし頭の中で考えていたことを、すっかり忘れてしまっているからだ。


ある有名な女性作家が「作家になるために必要な資質は?」と問われて、「過去、とくに子どもの頃の記憶を、失わずに持ちつづけていることだ」と語っていました。
岡田さんのエッセイには、まさにその「子どもの頃、悩んでいたこと、傷ついていたことを当時セーブしたものが、今、そのままロードされ、目の前に供されているような空気感」があるのです。


大部分の人は、大人になっていく課程で、いろんなことを忘れて、無かったことにしてしまう。
あるいは、自分が「子どもらしい子ども」だったと、無意識に記憶を改変してしまう。
そして、「いまの若い者は……」と居酒屋で愚痴をこぼす。
みんな、自分が子どもだった頃は「子どもは子どもらしくしろ!」って言う大人が、大嫌いだったはずなんですよ。
ところが、そんな大人に「ならぬつもりが、なっていた」(by 千昌夫)。


岡田さんは、忘れていない。
でも、それを「トラウマ」として、みんなの前で振り回すわけでもない。
自分自身さえ、軽く突き放し、どこか他人事のように、「報告」しているのです。

 私には恋愛感情というものが、よくわからない。「一緒にごはん食べる回数が増えるほど、相手に情が移る」と言われたほうが、まだしっくりくる。食う、寝る、遊ぶ、というけれど、誰かと二人で一緒に何かをして、情が移る……「情伝導率」が圧倒的に高いのは、寝るより遊ぶより、「食う」だよなぁと思う。恋人に限らず、友達や仕事の同僚でも、そうだ。美味い飯を食った幸福な体験に限らず、不味い飯を食ったひどい体験だってそうなのだ。
 昔の恋人や好きだった人が今どこで何してようが知ったこっちゃないのだが、ふと思い出すときには「ちゃんとごはん食べてるのかしら、誰かと」ということばかりが気にかかる。私は家でまったく料理をしない、とくに、他人を我が家に招いて手料理を振る舞うといったことはおそらく人生で一度も経験がないので、「食べる」といえばほとんど外食の意味なのだけど。ともすれば、かつて「私を家に一人ほっといて、他の誰かとごはんを食べてるなんて!」などと胸をいためていたあの頃よりも、彼らにとって何者でもなくなった今のほうがはるかに、静かに深く、気にかかる。


「自分には恋愛感情というものが、よくわからない」ということが「わかってしまった」人は、いまの世の中では、けっこう生きづらいのではないかと思うのです。
それがわかっているようにふるまうこと、恋愛に興味があると他者にアピールすることが「コミュニケーション」だとみなされがちだから。
でも、インターネット時代になって、より多くの人に向かって、「広く浅く」声を届けられるようになると「実は私もそうなんです」という人が、けっこういることもわかってきます。

 こういう人生になったことを、恥じてはいない。とはいえ、特別に誇らしくも思ってはいない。マジョリティに属することで満たされたことはない。マイノリティに属すことで消え入りそうに感じることもない。「恥の多い生涯を送って来ました」は太宰治人間失格』の書き出しだが、それを言うなら「ハジの多い人生を送っています」である。感慨もなくただ事実として、現在進行形として、「中心」ではなく「周縁」、それだけのことだ。


ただ、それだけのこと、なんですよね。
でも、「それだけのこと」を、こうやって、文章にして、「表現」したくなるのは、なぜなんだろう?
本当に「それだけ」なら、淡々と日常生活を続ければ良いのではないか。


岡田さんほど「自分の人生を、突き放している」一方で、「自分の人生を、興味深く観察し、記録している」人って、あんまりいないんじゃないかな。
だから、このエッセイ集は、面白い。
だけど、岡田さんがいる場所は「ハジ」っていっても、「メインステージの周縁」なんだろうな、とも、少しだけ思うのです。

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