琥珀色の戯言

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【読書感想】ブラボー: 隠されたビキニ水爆実験の真実 ☆☆☆☆


ブラボー: 隠されたビキニ水爆実験の真実

ブラボー: 隠されたビキニ水爆実験の真実

内容(「BOOK」データベースより)
ブラボーとは「賞讃」の意味であり、一九五四年三月一日、第五福竜丸が被災したビキニ水爆実験のコード名でもある。ヒロシマナガサキ、ビキニ、そしてフクシマ。日本はいまなお、放射能汚染にさらされ続けている。その意味することを日本(人)は深く自らに問う必要がある―水爆実験と遭遇した漁労長・見崎吉男の生涯と言葉を軸に“核に魅入られた”日本を検証し、その人類史的な意味を問う、渾身のノンフィクション。


 この本を読むまで、僕は「第五福竜丸」のことを、「知っている」つもりだったのです。
 でも、リアルタイムでの「あの事件」の伝えられかたと、あの船の責任者であり、ずっと責任を感じ続けてきた男・見崎吉男さんの「その後の人生」をこの本で読むと、実際には何も知らなかったのだな、ということを痛感させられました。
 僕は、あの事件が起きて、日本国内はすぐに団結し、一枚岩で「原水爆反対」を訴え、被害者たちを支援したのだと思い込んでいたのです。
 でも、そうじゃなかった。

 いまから60年前、1954年(昭和29)3月1日未明(日本時間、以下同)。
 中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で、アメリカは水爆実験を行った。ビキニ環礁と、隣接するエニウェトク環礁の二か所を実験場とする、二か月以上にわたる一連の核実験「キャッスル作戦」の第一発目だった。


 この核実験に遭遇してしまったために、第五福竜丸とその乗組員たちの運命は変わってしまったのです。
 著者は、この本のなかで、「その海域で核実験が行われることが、事前通告されていたのか?」を検証しています。
 核実験そのものの道義的な問題はさておき、「わかっていたのに、その海域で操業していた」のならば、第五福竜丸の側にも落ち度はあるでしょう。
 しかしながら、第五福竜丸は、その実験の情報を全く知らなかったし、避難勧告も受けていませんでした。
 もちろん、その海域付近で、それまでに何度か核実験が行われていた事実は知られていたのですが、この水爆実験では、水爆の威力は、アメリカの研究者たちが予測していたものの、約2倍だったそうです。

 見崎の話によれば、アメリカ側は、核実験場に指定されたことを日本政府に伝えたと言い、日本政府は聞いていないと弁明していた。事件後、この問題をメディアも追いかけたが、水掛け論のようになり、結局真相はそれ以上追及されず、うやむやに終わったということだった。


 結局のところ、アメリカ側も、日本側も、自分たちの責任ではない、と言い続け、真相はわからないままです。
 どちらかが、あるいは、どちらもが、事実が明らかにされることを望まなかったのでしょう。
 いずれにしても、第五福竜丸の乗組員たちの責任ではないことは明白です。


 見崎さんは、核実験に遭遇したときの様子を、こんなふうに証言しています。

 その頃、第五福竜丸の軸先はビキニ島の方(西)を向いていた。見崎は左舷(=南側)の甲板にいて天測を行っていた。天測が終わり、右(西側)を向いた。
「ようしうまくいったなと。上機嫌でもって右の方を向いたら、鉢合わせだよ。向きを変えたら(光が)上ってきたもんね。真正面でバーッと。もうそらあ想像を絶する、迫力のある力強い光だよね。あたり一面だもんね。そっちの方向だけじゃないだよね。左を見て右を見て、一回り回ったって、かぶさってくるようなね。第五福竜丸を包んでしまうような光だもんね。すさまじい勢いでもってね。絨毯でもかぶせるようなね。ずーっとかぶさってくるような。すごいだよな。想像もしないし、そんな経験は誰もにゃあわけだよな。

広島・長崎への原爆投下から、まだ10年も経っていませんでした。
「原爆ではないか」と、見崎さんも思っていたのです。
核実験場が近くにあることも知っていた見崎さんは、「被曝」の可能性を考え、他の乗組員を動揺させないように自分の推論を告げないまま、焼津に寄港することにしたのです。
「被曝」の可能性を考え、乗組員たちは、帰港後すぐに地元の病院を受診しています。


 ところが、第五福竜丸が水爆実験に遭遇したことをスクープした読売新聞の記事には、こう書かれていたのです。

 翌16日の朝刊に大きな記事が載った。

「――三月はじめからマーシャル群島で行われているアメリカ原子力委員会の一連の水爆、原爆実験の、その第一日目のさる一日にたまたま日本の漁船がそばにいて、爆発による降灰をうけ、その放射能によって全員火傷をしたまま大して重くも見ず14日帰国。うち二名の船員が東大の精密診断をうけるために、灰をもって上京、清水外科の診断をうけたが、一名は相当の重症として直ちに入院手当をうけることになったが、他の船員は事の重大なのを気づかず、灰のついた服のまま同夜は焼津市内を遊び歩いている。この一日の爆発実験はアメリカの公式発表によってもビキニ環礁で行われたもので、日本漁夫の申立てとも一致しており、しかもこの日の実験では28名の米人と236名の現地人が”ある種の放射能”によって火傷したと報告されているが、いままでの原爆実験ではこの種事故が報告されていないところからみて、あるいは水爆かともみられ、その強力な放射能をもった”死の灰”が国内に持込まれて不用意に運ばれているとすれば危険なことである――」

 記事には大きな横見出しが、「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」と打たれていた。水爆との判断は、この時点ではできていない。サブの見出しとして、「23名が原子病」「一名は東大で重症と診断」「”死の灰”つけ遊びまわる 軽傷の21名」と書かれていた。


 この「遊びまわる21名」というのは誤報でした。
 当時のマスメディアでは、このように、当事者に直接取材することなく、取材者の思い込みで「報道」がなされていることが少なくなかったようです。
 そして、その後も第五福竜丸の乗組員たちの当時の行動や心境について、本人たちが存命で、話を直接聞ける状況だったにもかかわらず、「当時の記事の引用」という形で、さまざまな誤報が伝え続けられていたのです。何十年にもわたって。
 それにしても、この誤報は、あまりにもひどすぎる。
 乗組員たちの名誉は傷つけられ、焼津はパニックに陥りました。
 そして、そのパニックは、日本中に伝播していきました。
見崎さんは、インタビューでの「私は船員さんとは絶対に結婚したくない」という若い女性の言葉をきいて、深く傷ついたそうです。
 マグロをはじめとした海産物は全く売れなくなり、焼津の人たちの苛立ちは、第五福竜丸の船員たちにもぶつけられたのです。
「お前たちが、『あんなこと』をしたからだ」と。
「あんなこと」といっても、彼らは、自分たちの仕事、漁場にいって、漁をしていて、偶然、核実験に遭ってしまっただけなのに……
  見崎さんは、あの事件以来、二度と海に出ることはなかったそうです。
「あれは、自分の責任だったから」と言い続けて……


 第五福竜丸の事件、そして、久保山愛吉無線長の死は、日本の、そして世界の反核兵器、反核実験運動のシンボルとなりました。
 乗組員たちのその後の人生も、偶然遭ってしまった「あの事件」に翻弄され続けたのです。

 翌年の1964年、事件から10年目となる節目の「ビキニデー」で、一つの事件が発生した。
 久保山愛吉の墓のある焼津市の弘徳院で、社会党・総評系と共産党・一部中立系の双方が墓前祭を開くことになったが、時間をめぐって対立。結局午前8時から前者、10時から後者が開くこととなったが、対立する双方の派は、焼津市内に前線本部を設けた。全国から動員された1万人が集まり、その日の朝は、各県からバスがやってきて、焼津駅前はごったがえした。宣伝カーが町を走り回り、空にはヘリも舞って、騒然とした雰囲気となったという。そして、墓前祭では、双方の派がすれ違いざまにヤジを飛ばし合うなど、およそ墓前祭にふさわしくない騒々しいものとなったのだ。
 久保山愛吉の墓前では、久保山の妻すずの参加をめぐって両派が「取り合う」という騒ぎも起き、「暁の決闘」と新聞に書き立てられた。メディアに面白おかしく「見出し」をつけられたこの騒ぎは、市民の気持ちをいっそう遠ざけるものとなった。


 こういうのを読むと、「いったい、何のための『運動』なのだろうか」と唖然としてしまいます。
 結局、被害者は「神輿」のようなものだったのかもしれません。
「こういう運動家たちと、関わりたくない」と一般市民が敬遠するのもわかります。


 見崎さんのその後について、一緒に町内会の役員をつとめたことがあるという人物は、こう証言しています。

「昔、あんたまだ若いんだから、いまのうちにあの事件の真相を本にしたらどうだと言ったことが二、三回あったのですが、いやいや、私なんかとてもとても、と言って笑ってたよね。事件のことは(自分からは)一言も話したことはありませんでした。地元では相当批判されたからね。事件のあと、焼津の町は灯が消えたみたいになったし、マグロは売れないし、その責任を背負ったみたいだね。町の人からも『焼津の町はどうなるだ』とか『若い漁師とは結婚しない』とか『あの人、水爆の見崎さんだよね』とか言われてね。そうとう堪えたと思いますよ。ただ、正直に言えば、私も焼津はどうなるのかと思いましたから。マグロで食べていた町ですからね」


 あれから60年が経って、当時の「被害者たちへの八つ当たりのような負の感情」は、忘れられかけています。
 教科書だけ読むと、被害者たちは、ずっと「聖人」として扱われていたのではないか、と勘違いしてしまうかもしれません。
「運よく、被害に遭わなかった人びと」は、被害者たちのせいにすることによって、心の平衡を保とうとする。
 それが理不尽きわまりないことは、「もし自分がその立場だったら……」と想像してみれば、すぐにわかりそうなものなのに。


 60年経っても、こんなに科学が進歩しても、人間がやっていることは、そんなに変わりはしない。
 でも、だからこそ、第五福竜丸の事件から学ぶべきことは、いま、2014年を生きている人間にも、たくさんあるはずです。

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