琥珀色の戯言

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【読書感想】イエス・キリストは実在したのか? ☆☆☆☆


イエス・キリストは実在したのか?

イエス・キリストは実在したのか?

内容紹介
全米騒然の大ベストセラー


救世主(キリスト)としてのイエスは実在しなかった。いたのは、暴力で秩序転覆を図った革命家(ゼロット)としてのイエスだった。


内容(「BOOK」データベースより)
「聖書」はもともと、イエスの死後布教に携わったイエスの使徒たちの手紙や文書を、ひとつに編んだもの。著者は、それぞれの弟子たちの文献、聖書以外の歴史的な史料を比較調査することにより、聖書で、何が捏造され、何が史実から落とされていったかを明らかにしていく。イエスとは実際にはどのような人物だったのか?そしてイエスは何を実際に説いていたのか?そしてそれがどのように変質して、世界宗教へと飛躍していったのか?「聖書」の物語と、実際の史実の差から見えてきたものとは?イスラム教徒による実証研究。


イエス・キリストは実在しなかった!」


この本「イエス・キリストは実在するのか?」を図書館で見かけて、ああ、これは「アポロ11号の月面着陸は特撮だった!」「ナチスホロコーストは実際にはなかった!」というような「トンデモ本」だな、それにしても、「キリストはいなかった!」っていうのは、また風呂敷大きいねえ、と、苦笑してしまったんですよ。


ところが、実際に読んでみると、この本で著者が主張したかったのは「キリストが架空の人物であった」ということではなく、新約聖書に書かれ、多くの人が信仰しているイエス・キリストの人物像は、キリスト教がユダヤ人以外にも広まり、「世界宗教」となっていく過程で、本来のものとは変容していったのだ、ということなんですよね。
けっこう酷い「釣りタイトル」だなこれ。
このほうが売れそうだというのも、わかるのだけど。


新約聖書に書かれているキリストは、「汝の敵を愛せ」という博愛主義者なのですが、実際のイエス・キリストには、「人類全体に向けて」という意識は乏しく、あくまでも「ユダヤ人社会のなかでの救世主」でしかなかったのではないか、と著者は分析しています。
そして、イエス・キリストの「博愛主義者の宗教家」ではなく、「ローマの支配から、ユダヤ人を解放しようとしていた革命家・社会運動家」という面を強調しています。

 キリスト教の起源について20年にわたる厳密な学問的研究の結果、私は今、かつて「イエス・キリスト」に対してそうであったよりもずっと純粋に、心から「ナザレのイエス」の信奉者になっていると自信をもって言うことができる。本書の狙いは、歴史上のイエスについてこの上ない人物像を、私がかつでキリスト教物語を広めようとしていた時と同じ情熱をもって世に広めることである。
 その考察を進める前に、読者に心に留めておいてほしいことがいくつかある。歴史上の人物としてイエスには丹念な検証と濃密な研究調査を重ねたその道の権威者による議論に対して、それと同じくらい多くの反論もあることだ。本書では、「ナザレのイエス」の生涯と伝道活動について、数百年来の議論を繰り返して読者を煩わすよりも、私の20年にわたる新訳聖書と初期キリスト教史の研究に基づき、私が最も正確かつ筋の通った論証と信じる資料をもとに私の物語を構築してみた。イエスの一生についてのさまざまな議論に関心のある読者のために、私の調べたことについては余すところなく述べると同時に、私の解釈に同意しない議論についても、巻末の原注にできるだけ丁寧に付記した。


「分析」という言葉を使いましたが、この本、著者の思い込みで書かれているわけではなく、驚くほど多くの史料にあたり、それらを参照しながら書かれているのです。
 巻末の注釈とか参考文献などが、本の厚さの3分の1くらいを占めており、驚いてしまいました。
 というか、これだけの分量だと、「巻末」じゃないです。
 むしろ、これらの資料編のほうが、自分で調べてみたい人にとっては、価値があるかもしれません。
「ちゃんとした本」なんですよ、本当に。
 だからこそ、逆に「2000年前に存在していたであろう人物について、知りうることの限界」みたいなものが浮き彫りにされるところもあるんですけどね。

ナザレのイエス」について信頼できる厳然たる歴史的事実は、イエスが一世紀の初めにパレスチナではよくあったユダヤ人の社会運動の一つをリードするユダヤ人であったことと、そうした行為のために、ローマ人が彼を十字架に架けたことの二つだけである。この二つの事実だけでは、2000年前に生きていた一人の人物の完全な人物像を再構築することはできない。だが、ローマ帝国側の史的資料はふんだんに残されているおかげで、それを「ナザレのイエス」が生きた激動の時代的背景と重ね合わせて見れば、福音書に語られているイエス像よりももっと正確な歴史上の人物像が浮かび上がってくる。実際、こうした歴史的営為の中から浮かび上がるイエスは、当時のユダヤ人がみなそうであったように、一世紀のパレスチナの宗教的、政治的混迷に巻き込まれずにはいられなかった一人の熱烈な革命家であって、初期キリスト教徒共同体で涵養(かんよう)されたような穏やかな羊飼いのイメージとは程遠い。
 さらに考慮に入れるべきは、十字架刑は、当時のローマ帝国が反政府的煽動罪にだけ適用していた処罰法だったことである。ローマ人が苦しみもだえるイエスの頭の上に掲げた「ユダヤ人の王」と書いた札は、「罪状書き」と呼ばれるもので、一般に考えられているような、風刺的な意味を込めたものではなかった。十字架に架けられた罪人はみな、処刑の原因となった特定の罪状を表す小板を頭上に貼られるのである。ローマ人の目から見たイエスの罪は、自分こそ王者にふさわしい支配者だと主張したこと(つまり反逆罪)で、当時の他のメシア的抱負をもつ者もみな、同罪で処刑された。死んだのはイエス一人だけではなかったのだ。複数の福音書によれば、イエスの両脇に同じように十字架に架けられた男たちにはギリシア語で「レーステース」という小板が掲げられていた。これは、英語ではしばしば(日本語でも)「強盗」という言葉が当てられているが、実際の意味は「暴徒」のことで、ローマ人の通念では暴動の扇動者もしくは反徒を意味する。


 当時は、ユダヤ教の腐敗が進行し、ローマに対する抵抗運動がしばしば起こっていたそうです。
 十字架にかけられて処刑される「反徒」は、珍しい存在ではありませんでした。
 

 また、著者はイエスが起こしたさまざまな「奇跡」について、このように述べています。

 現代人にとって、イエスの癒しと悪魔祓いの話は、控えめに言っても、信じがたいのではないかと思われる。実際、イエスの奇跡をどう考えるかは、歴史家とこうしたものを有難がる人、学者と求道者の間に一番大きな溝をつくる。イエスの奇跡を証明する歴史的証拠は、彼のナザレでの誕生、もしくはゴルゴダの丘での死に関する証拠よりも数多くあると言えば、何となく理不尽に聞こえるかもしれない。イエスの奇跡行為のどれ一つとして、それを裏付ける証拠はないことは確かである。学者がイエスの癒しや悪魔祓いのあれこれの信憑性を判断しようとする試みは、無駄な努力であったことは明らかになっている。イエスが身体の麻痺した者を癒した可能性は高いが、死んだラザロを生き返らせた可能性は低いと論議するのも無意味だ。イエスの奇跡物語は、時間の経過とともに潤色され、キリスト論によって複雑な意味づけが行われているため、どれ一つとして歴史的に検証はできない。何らかの合理的基盤をみつけてイエスの奇跡行為をうまく説明し、神話性を除去しようとする試みも、同じように無意味である。イエスが水上を歩いているように見えたのは、潮の流れが変わったためだったかもしれないし、イエスが悪しき霊を追い出したように思えたのは、その人が実際には癲癇患者だった可能性もある。現代世界の人間がイエスの奇跡行為をどう見るかを論じても、今日的な意義をもたない。推測できるのは、当時の人々がイエスの奇跡をどう見ていたかということだけである。それならば歴史的証拠はある。初期の教会内で、イエスはラビなのか、メシアなのか、神の化身なのかの議論が盛んに行われていながら、彼の信奉者や中傷者の間では、悪魔祓いの祈祷師や奇跡を行う人としてのイエスの役割については、なんの議論も行われてはいなかった。
 外典を含めた福音書すべてが、イエスの奇跡行為を確認しており、初期の「Q資料」も同様である。

 イエスの行った奇跡の一部には魔術的な要素が見られるにもかかわらず、諸福音書にはイエスが魔術を行ったと実際に非難する人は一人も登場しない。イエスの敵、すなわち彼に即刻死刑を執行しようとしていたような人々には格好の非難の種だったかもしれない。だが、イエスがローマ人やユダヤ人権威者の前に立ち、自分の罪状認否を問われた時、彼は民衆の煽動、冒涜、モーセの律法の拒否、10分の1税の支払い拒否、神殿への脅しなど数々の悪行を非難されたが、魔術師であったという非難はその中に含まれていなかった。


 少なくとも「当時の人々は、イエスの『奇跡』を何らかのトリックや、イカサマだと疑ってはいなかった」ということなのです。
 ただ、イエスは当時においても「異質」ではあったのです。

 カファルナウムの人々が、自分たちのまわりで起こっていることを十分理解するのにそれほど時間はかからなかった。イエスがガリラヤ湖畔を歩きまわる最初の悪魔祓いの祈祷師でなかったことは確かだ。一世紀のパレスチナでは、職業的な奇跡行者は、大工や石工などと同じようにれっきとした一つの職業で、しかもはるかに収入がよかった。とりわけガリラヤ湖畔には、わずかな費用で霊媒になってくれるというカリスマ的な夢想家が大勢いた。だが、ガリラヤ人の目から見て、イエスが他の祈祷師や治療師と違うところは、彼が無料でそのサービスを行っているように見えたことである。


「奇跡」そのものよりも、「それを無料でやっていた」ことのほうが、当時の人にとっては「驚くべきこと」だったのです。
 正直、そう言われても、「奇跡」を目の当たりにしたことがない僕にとっては、いまひとつ実感できないところではあるのですが。


 著者は、イエス没後のキリスト教内での主導権争いについても言及しています。
 イエスの弟ヤコブ、そしてペトロらの「イエスと直接の面識のある使徒」たちに対して、パウロは、イエスの死後に信者となっているのです。
 そして、イエスを直接知らないパウロは、キリスト教がユダヤ人のものから、「世界宗教」となっていくための大きな転換をはかっていきます。

 パウロの「キリスト」としてのイエスの描き方は、現代のキリスト教徒には聞き慣れたものかもしれないが――そしてそれゆえに教会の標準的教義にもなっているが、イエスのユダヤ人信奉者にとっては、どう見ても常道をはずれた、まったく奇想天外なものだったであろう。このナザレ人を、神聖で、先在的な、字義通りの神の子に変容させ、その死と復活が、世を裁く責任を持った永遠の存在になるという新しい概念をスタートさせてはいるが、パウロの生きた時代をやや広範に広げて見ても、当時のイエスについて書かれたものを何一つ根拠にしていない。


当時はむしろ「異端」であったはずのパウロの「イエス・キリスト観」は、それがユダヤ人以外にとっては受け入れやすく、布教に有利だったこともあり、次第に「主流」となっていくのです。
イエス・キリストの本当の物語」よりも、パウロを中心とした作者たちによる「イエス・キリストを主人公にした二次創作」のほうが、「真実」として広く受け入れられていきました。
そりゃ、ローマ人にとっては、自分たちが「ユダヤ人の敵」という設定よりも、「博愛主義者のイエス」のほうを、信じたくなりますよね。


ムスリムイスラム教徒)ながらも、イエス・キリストという人物に強く惹かれた著者による「歴史上の一革命家としてのイエス・キリスト」。
これが正解かどうかは、僕にはわかりません。
たぶん、誰にも証明はできない。
それでも、ある種の「偶然と改変」が、世界を動かしてきたのではないかと考えるのは、なかなか楽しい時間ではありました。
キリスト教っていうのは、「時代にあわせて改変され続けている面があるから、生き残っている宗教」でもあるのですよね。