琥珀色の戯言

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【映画感想】STAND BY ME ドラえもん ☆☆☆☆☆


あらすじ
東京の郊外に暮らす運動オンチで勉強もできない少年、のび太。ある日、22世紀から子孫であるセワシドラえもんと一緒にタイムマシンでのび太を訪れる。のび太が作った借金が原因で、セワシのいる代まで迷惑をこうむっていた。そのためセワシは、のび太のために世話係のネコ型ロボット・ドラえもんを連れてきたのだ。こうして、のび太ドラえもんと暮らすことになり……。

参考リンク:映画『STAND BY ME ドラえもん』公式サイト


 2014年28本目の劇場での鑑賞作品。
 お盆休みの昼間の回を、5歳の息子と一緒に観賞。
 2D版。観客は100人くらいでした。なかなかの盛況。


「何が『ドラ泣き』だよ、3Dって、あの説明過多の『三丁目の夕日』の人たちがつくったんだろ? ケッ!」と、40年来のドラえもんファンとしては、斜に構えまくってみはじめたのですが、いかん、泣いた。大泣き。息子よパパの方を見るんじゃない!


僕はこの映画を観て、桑田佳佑さんのある言葉を思い出したんですよ。
レコード会社移籍後に出された、「バラードのベスト版」に対してのコメント。
「オレたち(サザンオールスターズ)は、アルバムの中の、1曲の渾身のバラードを活かすように考え抜いてつくっているのに、そのバラードを集めて商売されたらたまらない」(桑田さんの言葉どおりじゃないと思いますが、こういう趣旨の発言でした)


この『STAND BY ME ドラえもん』って、観終えて、「なんかずるいな」って思ったんですよ。
藤子・F・不二雄先生がつくりあげてきた『ドラえもん』の世界の、特に感動的なシーンばかりを集めて、1本の映画にしてしまっているから。
そもそも、この映画を観て「ドラ泣き」した人たちは、なぜ泣いたのか?
この映画は100分弱のあいだに、ドラえもんのび太の出会いから、『帰ってきたドラえもん』までの「7大エピソード」が網羅されています。
あの、しずかちゃんのお父さんの「のび太くんを信じなさい。のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね」もあるし。
年取ってみると、これがいかに凄いことかよくわかる。
でも、その一方で、「しずかちゃんと結婚する」ために、手段を選ばずけっこう身勝手な作戦を実行したりするのもまた、野比のび太なわけで。
のび太が品行方正じゃないからこそ、『ドラえもん』は面白い。


「ピー助」と「ぼくのおばあちゃん」と「ぞうとおじさん」と……まだまだ感動的なエピソードはたくさんあるんですけどね、うん。
どくさいスイッチ」とか、子供心にけっこうインパクトがありました。
今回は、「のび太としずかちゃんのラブストーリー」がメインに据えられていて、ドラえもんは「のび太を幸せにしないと未来に帰れないので、無理矢理のび太をサポートしはじめる」という設定になっています。
ネットでの感想をみると、この設定に抵抗がある人が多いみたいなんですが、僕は、この映画は「ベスト盤」みたいなものだと思っているし、「まあ、100分に収めるためのアナザーワールド、ってことだよね」と、とりあえず受け入れることにしました。
原作のドラえもんも、使命感に燃えて未来からやってきた、って感じじゃなかったし。
でもまあ、そういう「ドラえもんの動機や、未来に帰らなくてはならない理由を説明しないと気が済まない」のは、山崎監督らしさなのかもしれませんね。


以前読んだ『ベスト・オブ・映画欠席裁判』という本のなかで、映画評論家の町山智浩さんと柳下毅一郎さんが、こんな話をされていました。


ALWAYS 三丁目の夕日』の回より。

ガース(柳下):いや、どうも監督は「全部セリフでわかりやすく説明してやらなきゃ観客にはわからないんだ」と信じてるみたい。だって、子供が自動車に乗せられて去った後、吉岡は少年が書き残した手紙を見つけるんですが、そこには「おじさんといたときがいちばん幸せでした」って書いてあって、それが子供の声で画面にかぶさるんですよ!


ウェイン(町山):そんなもん、金持ちの息子になるのに憂鬱そうな子供の顔を見せるだけで充分だろうが! どうしてセリフで観客の心を無理やり誘導するんだ?


ガース:誘導どころか無理やり手を引っ張って、「ハイ、ここが泣くところです!」って引きずりまわしているみたいなもんです。観客に自主的に考えさせる隙をいっさい与えないんですよ。


ウェイン:最近の小説やマンガもみんな同じだけどね。「悲しい」とか書き手の感情がそのまま書いてある。それこそ夕日や風景に託して言外に語るという和歌や俳句の伝統はどこへ行っちゃったんだ?


まさに、これとおなじ「観客を信頼していないというか、説明過多であることによる不快感」が、この『STAND BY ME ドラえもん』にもみられるのです。
あんな孫悟空の輪っかみたいなものをつけて、リセットしてみせなくても、大部分の観客は、ドラえもんのび太の関係を知っているし、「どうしても帰らなければならなくなった」と言われれば、そういうものだと受け入れて、その後のふたりの「別れ」を見届けようとするはず。
だって、『ドラえもん』なんだからさ。
それでも、「合理的に説明しないと、不親切だ」「ここで泣きなさい、と教えてあげないと、観客はわからない」と、監督は思っているんだよなあ、たぶん。
そして、実際に、そういう映画のほうが、ヒットしている。


ただし、この映画の場合は、まさに『ドラえもんであること』によって、救われている面もあるのです。
いくら説明したがりの監督さんでも、「ドラえもんについて、多くのことをみんなが知っている」のと「エピソードを詰め込んだため、上映時間的に極力余計な演出を省かなくてはならない」という前提のため、『三丁目の夕日』ほど、説明過多にはできなかったのでしょう。


と、文句ばっかり言ってしまったのですが、僕はこの映画に感謝もしているんですよ。


僕は自分が大人になってずっと『ドラえもん』から離れてしまっていたにもかかわらず、「やっぱり、ドラえもん大山のぶ代さんじゃないと!」とか、言い続けていたのです。
最近のテレビのドラえもんを、観ることもないままに。


ところが、最近すっかり『ドラえもん』にハマっている息子と一緒に、いまの『ドラえもん』を観ると、けっこう面白いんですよ。昔よりもテンポが速くなって、次々にいろんなことが起こるし、ドラえもんも、のび太と一緒に積極的に行動し、失敗してダメな姿を見せるようになっているのです。
息子も、本当に楽しんで観ています。


もう、水田わさびさんのドラえもんも「10年」になりました。
ドラえもん』、一時はテレビの視聴率も下がってきて、「打ち切りの危機」も叫ばれていたのです。「映画のために、テレビを続けているようなもの」だという声も耳にしました。


そんなドラえもんも、関係者の創意工夫で、最近また盛り返してきたように見えるのです。
それでも、かなりの頻度で『ミュージックステーションSP』に置き換えられて、息子と僕を嘆かせているのですけど。
昔の藤子・F・不二雄先生らしい『ドラえもん』」に見えることにこだわり、いまの子どもたちを置き去りにして「昔からのファンにとっての『ドラえもん』をつくりつづけた時期」があって、それが、なかなか視聴率や映画の興行成績に結びつかなくて。
そこから、F先生の『想い』を繋げながら、いまの時代の子どもに受け入れられるよう、試行錯誤しつつ変わってきた『ドラえもん』。
F先生、今年で生誕80年。亡くなられてから、もうすぐ18年になります。
もう、F先生だけの作品ではなくなってきているんだよな、と、この映画を観て痛感しました。
少なくとも、18年間も、F先生不在のまま、『ドラえもん』は続いてきた。
それは、「続けてきた人たち」がいたからです。
偉大なF先生と比べられるのは、キツかっただろうなあ。
F先生が不在だからこそ、かえって「変えることが許されない」「そんなのF先生の作品らしくないと言われる」というプレッシャーもあったはずです。


この映画って、「大人向け」なんだと思います。
それも、『ドラえもん』を一度卒業したつもりの大人たち向け。
出てくるのは、それぞれ感動的なエピソードなのだけれども、なにぶんにもこの上映時間に7つのエピソードですから、「名場面を繋ぎ合わせただけ」なんですよね、基本的には。
でも、昔からドラえもんを観てきた大人たちは、このエピソードの間にあった、ドラえもんのび太、しずかちゃん、ジャイアンスネ夫の「長い夏休みのような日常」を、勝手にそれぞれの頭の中で補填していくのです。


『さようならドラえもん』『帰ってきたドラえもん』は、僕が小学生のとき、はじめて「フィクションで泣いた作品」でした。
ボロボロになりながら、ジャイアンに立ち向かい続けていったのび太
ドラえもんが、安心して、未来に帰れるように」
僕に、はじめて、「本物の友情」とか「勇気」を教えてくれたのは、たぶん、野比のび太ドラえもんでした。
今回映画を観ていたら、「どうしても我慢できないことがあったら、この箱を開けなさい」と言われたのび太が、その箱を開ける場面で、「そのくらいでその箱を開けていいのかのび太!これからの人生どうするんだ!閾値低すぎ!」とか、内心思ってしまったんですけどね。
まあ、あそこで開けなきゃ話が先に進まないんだけどさ。


で、『さようなら、ドラえもん』を観ていると、僕は当時住んでいた自分の家のこと、まだ若かった両親のこと、そして、『ドラえもん』で涙が止まらなくなったことを恥ずかしいと思いつつ、やっぱり涙を止めることができなかった自分の姿を、ありありと思い出しました。
当時の家の間取りとか、畳の色とか、机の上の様子とかまで、次々に浮かんできて。
あの、35年くらい前に住んでいた家のことで、いちばん記憶に残っていることのひとつが、あそこで『さようなら、ドラえもん』を読んだこと、なんだよね。


映画としては、「なんかずるいな、これ。いいとこ取りじゃないか」なんですよ。
でも、これを観ていると、「ああ、ドラえもんって、いいなあ。あの時、僕もドラえもんが大好きで、ドラえもんと一緒にいたんだ」ってことを、思いださずにはいられなくなります。


「ひとつの映画」としてみれば、アラは山ほどあると思う。
それでも、僕にとってこれは、「ドラえもんと過ごした日々を振り返るアルバムを眺めるような映画」だったんですよ。
僕は、この映画の物語に涙したというよりは、この映画に出てくるエピソードを読んだ、幼い日の自分と、その周りの人々や風景を思い出して、涙せずにはいられなかったのです。
そして、変わりながらも、大事なところは変わらずにそこにいてくれる『ドラえもん』に会えて、すごく嬉しかった。ドラえもん、きみは、本当に年を取らないねえ。ロボットだから、当たり前か。
僕と同世代、あるいは、もう少し若い作家の小説を読むと(辻村深月さんとか、長嶋有さんとか)、「どこでもドア」とか「四次元ポケット」のようなドラえもんの「ひみつ道具」は、注釈なしで普通に使われている言葉なのです。
どこでもドアそのものはまだこの世に生まれてはいないけれど、ドラえもんは、「どこでもドア」を、僕たちの心に、「共通言語」として植え付けていきました。


ちなみに、5歳の息子の感想は「ちょっと怖かった」でした。
雪山の遭難シーンとか、ジャイアンのび太がやられるところとか、見ちゃいられなかったみたい。
涙どころか、エンドロールのNGシーンが流れ始めると「早く出ようよ!なんでまだ観てるの?」と、催促しまくりです。
あのNGシーンは、「彼らは演技してますよ」ってことなんだから、「ドラえもんの世界観への冒涜」なのかもしれません。
僕も、ちょっとイヤだった。
どうせだったら、過去のテレビアニメや映画の名場面とかをさりげなく流してくれたらいいのに!って、思いながら観ていました。
ただ、「これはあくまでも『外伝』的な作品ですからね」というサインなのかな、というのと、『ドラえもん』のキャラクターがもうすでに国民的に認知されているからこそ、ああいう「お遊び」が成り立つのだろうな、というのもあって。
『必殺仕事人・現代版』みたいなもんだよね。
「そりゃ違うだろ!」とツッコミつつも、「これはこれで」愉しんでしまう、それで良いんじゃないかな。
ドラえもんは「つねに感動的」だから愛されてきたのではなくて、「基本的には面白くて、ときどき圧倒されるほど感動する回がある」から、子供たちに愛され続けてきたのだし。


やっぱり、この映画って、大人のための『ドラえもん』なんですよ。
映画館で観ている子どもと大人の反応を眺めていると、そう感じました。
そして、僕としては、この映画が大ヒットしていることで、「まだまだ、ドラえもんはみんなに愛されているんだ」ということがわかって、本当に嬉しい。
この作品って、ひとつの「賭け」でもあったはずです。
TOYOTAPanasonicに、かなりお金を出してもらっていたとしても、興行的に惨敗すれば「やっぱりドラえもんは、少なくとも大人向けにはダメだな」とみなされていたでしょう。


見たか!ドラえもんは「子どもの頃だけの友達」なんかじゃないぞ!
(って、誰に向かって勝ち誇っているのか、自分でもわからないけれど、とにかくけっこう嬉しい)



以下ネタバレです。


本当にネタバレですので、ドラえもんファンの皆様は、ぜひ劇場でこの映画を観てから読んでください。


この映画のなかで、僕が引っかかっているシーンが、ひとつあります。
それは、しずかちゃんと雪山で助けた未来のび太が、ドラえもんを見つけたときに発した言葉でした。
ドラえもんに会っていく?」と尋ねられたのび太は、こう答えます。
「やめておくよ、ドラえもんは、子どもの頃の友達だから」


うーむ、これって、どう受け止めればいいのだろうか?
ドラえもんは、ずっと、子どもの「通過儀礼」みたいな存在だ、ということなのだろうか。たとえば、アンパンマンのような。
それとも、その後、未来が変わって、「子どもの頃だけの友達じゃない」に変わっていく伏線なのか?


映画的には、そのあと、ドラえもんが未来に帰っていくシーンになるので、後者だったのかもしれませんが。

あるいは、あそこで会うとなると、またややこしい昔話みたいなのを描かなければならなくなると制作側が判断しただけなのか。

この映画そのものは、「ドラえもんが、ずっと友達だったまま大人になってしまった人向け」なんですよ。
にもかかわらず、「ドラえもんは、子どもの頃の友達」と言い切ってしまったのは、「現実に帰れ」ってことなのだろうか?


ここだけは、僕にとって、理解困難だったんですよ。
いずれにしても、僕にとっては、ドラえもんはずっと友達ですけどね。


今回、息子の横でドラえもんを観ていたら、なんだかね、けっこうしんみりしてしまって。
そうだよな、コイツはまだ、『ドラえもん』で泣けるほど、生きていないんだな、って。
いつか、息子も、そして、未来の子どもたちも、ドラえもんを見るのかな。
僕が死んで、この世からいなくなっても、ドラえもんは、ずっと、みんなの想いを乗せて、ここにいる。
ドラえもんが愛される世界は、「幸せ」に、少し近いのだと思う。


僕は、子どもの頃、ドラえもんがいてくれたらな、って思ってた。
でもね、僕は、誰かのドラえもんになろうとすることで、少しだけ大人になったんだ。
それを、『ひまわりの約束』を聞いて、思い出したよ。



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