琥珀色の戯言

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【読書感想】第151回芥川賞選評(抄録)


文藝春秋 2014年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2014年 09月号 [雑誌]


Kindle版もあります。
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今月号の「文藝春秋」には、受賞作となった柴崎友香さんの『春の庭』と芥川賞の選評が掲載されています。
恒例の選評の抄録です(各選考委員の敬称は略させていただきます)。

高樹のぶ子
「吾輩ハ猫ニナル」は大変な労作だが、小説のエネルギーが主として翻訳に使われ、異文化言語のかなたから日本を視るという、小説本来の苦労が足りなかった。漢語にふられたルビだけで読み下してみれば、さほど新鮮な発見は無かった。小説の苦労は手法ではなく手法はあとからついてくる。

宮本輝
 今回の候補作五篇は巧みなところといい、足りないところといい、なにもかもほぼ拮抗していて、二回の投票でも決まらず、三回目ではさらに混沌として結論が出ず、四回目でやっと柴崎友香さんが受賞ということになった。
 それぞれ独自の手練さを発揮してはいるものの、小説が終わりに近づくにしたがって、主題そのものから逃げ腰になっていくという歯がゆさを感じた。


(中略)


 柴崎友香さんの「春の庭」が、反対意見もありながらも受賞作となったのは、デビュー作から今作に到るまでの、しつこいまでの主題へのこだわりを、これまでとは異なる目線に変えたことで明晰になったからだと私は思う。

村上龍
(『春の庭』『どろにやいと』『メタモルフォシス』の三作が、受賞の当落線上でせめぎあったのを紹介したあとで)


 わたしは、三作いずれも評価できなかった。『春の庭』には、冒頭に、”「”のような「はじめカギ括弧」に似た「記号」のようなものが文中で示される。「アパートは、上から見ると”「”の形になっているという文章だ。わたしは、その一行で、感情移入がまったくできなくなってしまった。言うまでもないが、描写は、作家にとって、もっとも重要で、ほとんど唯一の武器である。描写によって、作家は読者を虚構の世界に引きずり込む。
 他にも、「記号」のようなものが示される箇所があり、どうしてそんなことをしなければいけなかったのか。わからない。


(中略)


 長い選考会だったが、スリリングではなかった。どの作品からも、切実さが感じられなかった。この「生きづらい社会」で、伝えるべきこと、つまり、翻訳すべき無言の人々の思いが数多くあると思うのだが、どういうわけか、「不要な洗練」「趣味的」という二つの言葉が、全体的な印象として残った。

山田詠美
 この賞の選考委員の中には、先の震災、原発をテーマ、モティーフにした作品を検閲する者がいる。そんなもっともらしい言説があるのを知って呆れるやら、おかしいやら。私たちは、小説の質に言及する仕事しかしない。していない。この先、それ以外をする気もないので、ここでお断りしておく。まったく徒労感とはこのことだ……と、いう訳で。

奥泉光
 しかし、自分が推した作品はこの三作品ではなく、すなわち最初の投票で○を付したのは「吾輩ハ猫ニナル」であった。「日本語を学ぶ中国人を読者に想定した小説」という奇抜な構想に貫かれた一篇は、カタカナをほぼ排し、日本語のルビをふった中国語の言葉が多用されて、その異装の文章には、日本語で読み書くという、日本語国民にとって「自然な」行為を反省の俎上に載せ上げるだけの批評性がある。いまある言語の外へ逸脱していく言葉の運動性には文学の名がふさわしくもある。選考会では、物語内容が物足りないとの声があって、たしかに企みが引き寄せずにはおかぬ虚構の動きがもっとあってよいはずで、その点に弱さはある。が、とにかくこの徹底ぶり(さらなる徹底を!)は評価できると考えた。

小川洋子
 柴崎さんは自分が書くべきものを確かにつかんでいる。それを掌の肉に食い込むまで強く握り締めている。その痛みを決してこちらに見せようとしない柴崎さんの粘り強さに、祝福を贈りたい。

島田雅彦
 私は羽田圭介の『メタモルフォシス』を強く推した。
 

(中略)


 SMという使い古された素材を選んだ時点でアウェイの戦いを強いられ、SMには一家言ある選考委員たちの厳しいチェックに晒されてしまった。

川上弘美
『春の庭』には、不穏さが満ちていて、その不穏さはこの作者の作品にはいつもたゆたっていたものではありますが、たくらみを凝らした見せよう、というものを作者が試してみたことが面白いと思ったのです。ただ、今回はなぜだかわたしは、この作品の文章を読むのを、少し難しく感じることがありました。読みにくい、というのではないのです。読みにくさは小説にとって決して欠点ではないので、そうではなく、難しい、と感じたのです。それがこの作品にとってどういうことなのか、わたし自身も考えてみたく思います。

堀江敏幸
 ラジウム226の半減期は1600年。同時代の人間がすべて消えたあとにもまだ半生を終えていないこの光に、人々の記憶が貯蔵されている。小林エリカさんの「マダム・キュリーと朝食を」は、原発事故後に生まれた「わたし」と光る猫を結びつけて光のトンネルを抜ける清新な発想の一篇だが、出入り口にせっかくの言葉の粒を沈ませるような暈(かさ)が散見された。


今回の候補作が発表されたときの率直な感想は、「ちょっと地味かな……」だったのですが、選評も、良く言えば個々の作品にまんべんなく言及した人が多くて、悪く言えばどの選考委員にも、「熱さ」を感じませんでした。
「受賞作なし」にするほど低レベルではない(+できれば「受賞作なし」は避けたいでしょうしね)けれども、「上手い人が、自分の土俵でそれなりに書いた作品」ばかりで、「問題作」といえば『吾輩ハ猫ニナル』くらい。
その『吾輩ハ猫ニナル』も、形式の新しさを評価する選考委員はいたものの「物語としての弱さ」を指摘する声もあり、受賞対象として議論になった3作にも入ることはできませんでした。


しかし、2010年2月の第142回の芥川賞、『ミート・ザ・ビート』で、山田詠美さんに、

 『ミート・ザ・ビート』


 <大雨が、駅舎の屋根やアスファルトに降り注ぎ、厳かな音を立てている――中略――雨音のシンフォニーに彼は虚脱感さえ覚えた>……あ、ほーんと? 読む側としては、<雨音のシンフォニー>と書いてしまうセンスに虚脱感を覚えましたよ。この作者が「文学的」描写と思い込んでいる箇所は、すべて、おおいなる勘違い。どこぞの編集者に入れ知恵されたのではないかと勘ぐりたくなって来る。全部外すべき。あ、それだと<すべてのものが、無に返>っちゃうか。

と一蹴された羽田圭介さんが、今回は『メタモルフォシス』で、けっこういい線までいったみたいで、文章というのも成長していくのだなあ、なんて、ちょっと感慨深かったです。
島田雅彦さんによると「SMには一家言ある選考委員たちの厳しいチェックに晒されてしまった」そうで、「誰だそれ?」という感じです。いや、何人かは見当がつきますけどね。


今回は、この「SMに一家言」とか、山田詠美さんの選評の冒頭の「震災、原発関連作品を『検閲』している選考委員がいる」とか、ちょっとした暴露大会みたいになっていたのが、読みどころかもしれません。
でも、作品について、あんまり書くことなかったんだろうなあ。


受賞作も、「柴崎友香さんらしい作品で、これまでの実績もあって、ゴール前で頭半分くらい抜けて受賞した」という感じです。
まあ、なんというか、すごく丁寧な小説なんだけれど、読み終えると「だから、何?」って言いたくなりました『春の庭』。
僕みたいに「文章表現の巧みさよりも、ストーリーの面白さ重視」の読み手には、あまり向かないかも。


今回のなかでいちばん興味深かったのは、村上龍さんが、柴崎友香さんの作中の「記号みたいなもの」について言及されていた部分でした。

『春の庭』には、冒頭に、”「”のような「はじめカギ括弧」に似た「記号」のようなものが文中で示される。「アパートは、上から見ると”「”の形になっているという文章だ。わたしは、その一行で、感情移入がまったくできなくなってしまった。言うまでもないが、描写は、作家にとって、もっとも重要で、ほとんど唯一の武器である。描写によって、作家は読者を虚構の世界に引きずり込む。
 他にも、「記号」のようなものが示される箇所があり、どうしてそんなことをしなければいけなかったのか。わからない。


僕も、この”「”を作中でみて、ちょっと違和感があったのですが、「でも、このほうがわかりやすいよね、たしかに」と、ネガティブな感情は抱きませんでした。
(ちなみにこの”「”は、アパートを上からみた形を描写するのに使われています)
考えてみると、「わかりやすくするために、こういう記号とか、図みたいなものを挿入するのって、ライトノベルでは、よく使われている「表現」です。
それを「手抜き」とみるか、「そのほうがわかりやすいんだから合理的」と判断するかというのは、ライトノベル文化への接点の有無、みたいなのもあるんじゃないかな。
柴崎友香さんは1973年生まれですから、黎明期のライトノベルに間に合った世代ですし(僕とちょうど同じくらいの年齢なので)、村上龍さんは1952年生まれですからねえ。
限りなく透明に近いブルー』で、「こんな背徳的な作品が許されるのか?」という批判も受けた龍さんが、いまや「守旧派」的なことも仰っているのです。
しかし、いまの時代の「純文学」って、何なんでしょうね。
「純文学」を書いている人だって、おそらく「純文学しか読まない」なんて人は、ほとんどいないはずですし、既存の形式への挑戦をしている作品が評価されるのに、”「”くらいで「ダメ出し」されることもあるのだよなあ。


正直、「選評フリーク」にとっては、あまり楽しくない回でした。
『春の庭』も、「うまいなあ、とは思ったけど、それに続く感想が出てこない作品」だったんですよね、僕にとっては。