琥珀色の戯言

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【読書感想】辞書になった男 ケンボー先生と山田先生 ☆☆☆☆☆


内容紹介
2013年にNHKBSで放映され、ATP賞最優秀賞(情報・バラエティ部門)に輝いた、『ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男』がついに書籍化!
辞書は小説よりも奇なり。 これはことばに人生を捧げた二人の男の物語です。
三省堂国語辞典』と『新明解国語辞典』を知っていますか? 両方合わせて累計三千万部の国民的ベストセラーです。お世話になった人、なっている人も多いでしょう。
でも、この二冊を書いた見坊豪紀(ひでとし)と山田忠雄のことはほとんど知られていません。この二人、実は東大の同期生。元々は二人で一冊の辞書を作っていました。
その名は『明解国語辞典』。
戦時中に出されたその辞書は字引の世界に新たな新風を吹き込みました。
戦後も二人の協力関係は続きますが、次第に己の理想を追求して別々の道を歩みはじめ、見坊は『三省堂国語辞典』を、山田は『新明解国語辞典』(赤瀬川原平さんの『新解さんの謎』でブームとなった辞書です)をほぼ一人で書き上げることになりました。
一冊の画期的な辞書を作った二人の人生が、やがて戦後辞書史に燦然と輝く二冊の辞書を生みだすことになったのです。
しかし――。『新明解』が出された一九七二年一月九日。 ついに二人は訣別のときを迎えます。以後、二人は会うことはありませんでした。
一冊の辞書がなぜ二つに分かれたのか? 二人はなぜ決別したのか? 二人の人生をたどりながら、昭和辞書史最大の謎に迫ります。
ディレクターが番組では割愛したエピソード、取材秘話、放映後に明らかになった新事実などを盛り込んで、書き下ろした傑作ノンフィクションです。


日本の辞書の「雛型」をつくりあげた、二人の巨星、見坊豪紀(ひでとし)と山田忠雄
この二人は、東大の同級生であり、途中まで、同じ辞書をつくってきた「仲間」だったのです。
最初は、見坊先生が編集の責任者で、山田先生は、「手伝い」を頼まれて、辞書編纂の世界に入っていったのです。
ある時点まで、ふたりは協力しあいながら、ひとつの辞書をつくっていたのですが、お互いの個性の違いと、出版社側の事情もあり、袂を分つことになるのです。


僕はこの本を読んでいて、「辞書」には、ここまで編纂者の「個性」とか「主張」みたいなものが込められていたのか、と驚かされました。

 まず、山田先生が記した独特な語釈で知られる『新明解国語辞典』の中で、最も有名な語釈と言えば、第三版に登場した【恋愛】が挙げられる。

れんあい【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。  (『新明解』三版)

「合体したい」。日本を代表する国語辞書に、本当にそう書かれていた。
 これは、『新明解』がどのような国語辞書であるかを知る人にはたいへんよく知られた語釈だ。しかし、実際に今では入手すら困難な『新明解』第三版(昭和56(1981)年刊)を手にし、自らの手で【恋愛】ということばを引き、本当に国語辞書にそう書かれていたことを目にしたら、驚きを隠せないはずだ。
 淡々と”正しい意味”を教えてくれるはずの国語辞書が突如、「恋愛=合体論」を語る。
 暴論とも言うべきその解説を、何度も目で追う。


この【恋愛】の語釈、見坊先生が編纂した『三省堂国語辞典』(『三国』)では、こう書かれているそうです。

れんあい【恋愛】男女の間の、恋いしたう愛情(に、恋いしたう愛情がはたらくこと)。恋  (『三国』三版)

こちらは、いかにも「辞書のことばの解説」という感じですよね。
この「個性」が話題になったこともあり、『新明解』は現在「日本一売れた辞書」になっているそうです。


著者は、『新明解』と『三国』それぞれの特徴について、こう説明しています。

 また、【恋愛】の項で述べたように、語釈の書き方にも両者の違いがはっきりと表れている。
『新明解』は「主観的」で、時に「長文・詳細」解説が見られる。
『三国』は「客観的」で、「短文・簡潔」解説が貫かれている。
 実は、こうした二冊の辞書の違いは、後に詳しく述べる山田忠雄見坊豪紀という辞書編纂者の言語観や世界観など、「個性」の違いとそのまま重なるのである。
 国語辞書は人の手によって作られる。その作り手の「人格」が、自ずと辞書の文面にも浮かび上がってくるのだ。


 僕個人としては「合体」は、面白いとは思うけど、辞書の語釈としてはいかがなものか、と思うのですよね。
 ただまあ、語釈そのものに関しては、それぞれの主張もあるだろうし、「他の辞書との差別化をはかる」ことや、「辞書を引くことそのものを楽しんでもらう」という意味では、『新明解』の個性的な語釈には意味があるのもわかります。
 この本を読んでいくと、山田先生の語釈には、あまりにも個人的な主観が入りすぎているのではないか、とも思うんですけどね。

はくとう【白桃】果汁が多く、おいしい。 (『新明解』四版)
はまぐり【蛤】食べる貝として、最も普通で、おいしい。  (『新明解』三版)
あこうだい【あこう鯛】顔は赤鬼のようだが、うまい。  (『新明解』三版)


ちなみに、『三国』では、

はくとう【白桃】実の肉がうす黄色のモモ。しろもも。  (『三国』三版)
あこうだい【赤魚鯛】タイに似た、細長いさかな。  (『三国』三版)

というような記述になっています。
語釈で「おいしい」「うまい」と味について熱く語る『新明解』と、「これぞ辞書」という感じの『三国』。
たしかに、面白いんですけどねえ『新明解』。


さらに『新明解』には、こんな語釈も。

ぼんじん【凡人】自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。(マイホーム主義者から脱することの出来ない大多数の庶民の意にも用いられる。  (『新明解』三版)

どうぶつえん【動物園】生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。  (『新明解』四版)


さすがに、この「どうぶつえん」には、抗議が殺到し、語釈が差し替えとなったそうです。
この語釈は「一面の真実」ではあるのかもしれませんが、辞書があまりにも編者の思想を語りすぎるというのは、やはり、好ましからざることなのでしょう。
「辞書は、正しいことばの意味を知るために引くもの」ですしね。


このように、個性的な語釈を書き続けた山田忠雄先生に対して(とはいえ、個性的なものばかりが話題になってしまっている面もあり、『新明解』も、大部分は「普通の語釈」なんですけどね)、見坊先生は、「データ収集の鬼」というか、「ことばの用例を集めること」にドップリとはまってしまうのです。
それはもちろん「ことばが実際に使われている例を集めることによって、そのルーツや意味、重要性を判断する」という重要な仕事ではあります。
ただ、見坊先生の場合は、その収集への執念が、あまりにも強かったのです。

 現在、八王子の資料室に保管されている145万例のカードを眺めながら、現『三国』編者の飯間浩明さんは、自分とケンボー先生の”圧倒的な量の違い”を語り始めた。
「自分はどのくらいことばを集められるか、と思って用例採集を始めたんです。私の場合、1ヵ月間、最大頑張って400個くらい。一年間で4000から5000語のことばを採集していることがわかりました。計算すると10年で4万から5万語。20年で10万語になる。大体、そこらへんで力尽きると思います。仮に、その想定の倍ぐらい頑張ったとしても、生涯で20万語くらいにしかならない。それだけ集めても到底及ばないんです。145万例なんて、もう、これは……水準を超えてる。しかも、たった30年で145万例も集めたんです。これは人間ワザじゃない。見坊先生はもはや”神”です。辞書に魂を売った人です」

 これはもう、すごいとしか言いようがありません。
 この本のなかには、見坊先生のご家族への取材も紹介されているのですが、見坊先生は「本当に一日中、用例採集をしつづけていた」そうです。奥様が、一緒に出かけるのを嫌がるほど。
 しかしながら、その「用例採集」にハマってしまったがゆえに、肝心の「辞書を改訂する」という仕事が滞ってしまうことにもなりました。
 用例集めは、キリがない仕事ではあるでしょうし。
 そこにも、見坊先生と山田先生の軋轢の要因があったのです。

 これまで見てきたように、『三国』と『新明解』では、収録語数もほぼ同程度の小型国語辞典でありながら、全く正反対の個性を備えている。
「客観」と「主観」、「短文」と「長文」、「現代的」と「規範的」。
 編集方針から記述方式、辞書作りの哲学に至るまで、まるで性格が異なる。
 しかし、すでに述べたが、驚くことにこの二つの辞書の起源をたどると、三省堂からかつて刊行されていた一冊の辞書に突き当たる。
 二つの辞書の源流は、戦中の昭和18(1943)年に出版された『明解国語辞典』、概して『明国』である。
 似ても似つかない姉妹辞書が、同じ親から誕生していたのだ。
 この『明国』を作り上げたのは、昭和14(1939)年に東大を卒業したばかりの二人の若き国語学者だった。その二人とは誰あろう、見坊豪紀山田忠雄にほかならない。
 二人は理想の国語辞書を目指し、協力する良き友であった。
 しかし、一つの大きな源流は、”ある時点”から二つに枝分かれし、徐々に流れを速め、その後再び交わることはなかった。
 ケンボー先生と山田先生。二人の編集者に一体、何があったのか。
 わずかな手がかりを頼りに、40年前に起こった事の真相に迫ろうと歩みを進めた。
 だが、闇は深く、なかなか光明を見出せずにいた。肉声テープが残されていたものの、すでに二人は多くを語らず、世を去っていた。それ以上、もはや二人の心情を探る手立ては残されていないかに思われた。
 しかし、ある日突然、思いもよらない重要な証拠にぶち当たった。
 それは、二人が作り上げた辞書の記述に刻まれた「ことば」だった。
”昭和辞書史の謎”を解く鍵は、まさに【時点】ということばの用例に隠されていた。


じてん【時点】「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった」  (『新明解』四版)


「一月九日」。妙に具体的な”謎の日付”が書かれていた。
 これは、山田先生が晩年に刊行した『新明解』第四版に新たに加えられた用例だった。
 ここに書かれている、判明していなかった「その事実」とは、何のことなのか。
 意味深な記述で、他に比べてどこか異質な、奇妙な印象を与える用例だった。


この「一月九日」に、いったい何が起こったのか?
盟友だったはずのふたりは、なぜ、袂を分かつことになったのか?
著者は、綿密な取材で、その謎に迫っていきます。
その結果、見えてきたものは……


興味を持たれた方は、ぜひ、「真相」をこの本で、たしかめてみてください。
それは悲劇ではありましたが、ふたりが決別したからこそ、日本に、この二つの個性的な辞書が生まれた、とも言えるのです。


そうそう、この本を読んでいて、僕は長年信じていたことが覆されてしまったんですよね。
僕には、辞書=金田一京助先生、というイメージがありました。

『明国』の表紙にも、背表紙にも、「見坊豪紀』という名は一言も書かれていなかった。ただ、「文学博士 金田一京助編」という文字だけが大きく書かれていた。
 生前のケンボー先生や山田先生にインタビューを行った評論家の武藤康史さんは、後世のためにもこの問題の真実を明らかにしておくべきだと考えていた。
「『明解国語辞典』は、金田一京助編とあるが、本当はすべて見坊先生が書いた辞書だった」
 国文科出身の武藤さんは、長年、辞書界にはびこる”名義貸し”の噂をたびたび耳にしていた。
「国語辞書は一般的に、”名目上だけ”の監修者や共著者であるケースがたくさんあって、インタビューでそういうこともはっきりした」

 この件に関しては、金田一京助先生の息子さんの金田一春彦先生も、はっきり証言されているそうです。
「(京助先生は、辞書の原稿を)一行も書きません。そういうこと向きませんよ、あの人は。二、三枚読むと、もう飽きちゃうんです」
 金田一京助先生の「本職」はアイヌ語研究を中心とした言語学で、すばらしい仕事もたくさんされているのですが、「名義貸し」の辞書のほうで、有名になってしまったのです。
 それも、金田一先生が「自分の名前を入れろ」とゴリ押ししていたというわけではなく、「辞書といえば、金田一京助」というブランドになってしまったがために、出版社側も事実は承知していながら、名前を外すわけにはいかなかったようです。


 考えてみれば当たり前のことなのですが、「辞書って、人間によって作られているんだなあ」と、あらためて思い知らされますし、そのことに、せつなさと愛おしさも感じてしまう本です。
 最近はネット検索ばかりで、ほとんど辞書を引かなくなった僕ですが、一冊くらいは紙の辞書を手元に置いておこうかな、と思っています。

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