琥珀色の戯言

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【読書感想】浪速のロッキーを<捨てた>男 稀代のプロモーター・津田博明の人生 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
大阪・西成の下町から裸一貫で出発して、ボクシング界に一時代を築き上げた男、津田博明。その成功の礎にいたのは、あの赤井英和だった。世界王者という夢を抱いた男達の熱意と思惑、そして「孤独」。


 これは面白かった。
 僕は熱心なボクシングファンというわけでもなく、赤井英和さんといえば、「浪速のロッキー」と呼ばれた現役ボクサー時代よりも、「元ボクサーの強面の俳優」としての印象のほうが強いのです。
 赤井さんの現役のときの試合は、ほとんど観た記憶がありません。
 連続KO記録は、テレビか雑誌で採り上げられているのをみて、知ってはいたのですが。


 この本には、その赤井英和さんが所属していたジムの会長・津田博明さんの人生と、ジムの黎明期に大きく貢献したひとりのボクサーとの関係が、濃密に描かれています。

 日本で最初の日本人ボクサーによるプロボクシングのダブル世界戦を大阪城ホールで挙行したのは津田だった。ふたつの世界戦はいずれも、津田が育てたボクサーが出場する、津田のプロモートによる興行だった。その八年後、津田は難波の大阪府立体育会館で<五大タイトルマッチ>と銘打った興行を開催した。世界タイトルマッチと二つの東洋太平洋タイトルマッチ、二つの日本タイトルマッチで構成される前座試合のない大興行である。<五大タイトルマッチ>もまた、全てのタイトル戦に津田のジムの選手が出場する興行だった。さらに後、世間の耳目をボクシングに集めることになる亀田兄弟を売り出したのも晩年の津田である。津田は公演で教えたボクサーによって成功を手に入れ、ボクシングの世界で知らない者のいないジム会長になった人間だった。


 僕も津田会長の名前くらいは聞いたことがあったのですが、津田会長は若い頃にボクシングジムに「入門」したものの、プロテストを受けることはなく、もちろん、プロボクサーとして試合をすることもなく、練習生から、トレーナー、そして、プロモーターという道を進んで来た人なのだそうです。
 ボクシングジムの会長は、みんな元プロボクサーなんだろう、と思っていたんですよね。
 たとえば、相撲部屋の親方が、みんな元力士であるように。
 ところが、津田会長は、通っていたジムの会長にプロテストをすすめられても、プロボクサーになろうとはしなかったそうです。
 そして、「ボクサーを育てる側」として、天性の才能を発揮するようになっていくのです。
 熱心な指導者であり、多くの若手を育て、人望もあったそうなのですが、津田会長自身がプロとしての経験を持っていなかったため、プロとしての高いレベルでの勝負では、物足りないところもでてきます。

 森岡は、杉本への指導についてこう語っている。
「減量の方法もね、ちゃんと教えてやりました。結局、津田さんはボクシング素人やから、最後は飲まず食わずで体重を落とさせてました。せやけど、それではボクサーは力を出されへん。ある程度、食べて動きながら体重を落としていくように杉本とは話をしました。やり方は選手それぞれに違うんです。せやけど自分自身がどうやって減量しとったのかを、杉本には話してやりました。こういうことは、津田さんには言われへんわな、わしと杉本、ふたりの話です」


 津田会長が、赤井英和というボクサーと出会ったのは、高校のインターハイでのことでした。
 出会った、とはいっても、津田会長が教えていた選手をみて、赤井さんが「この選手を教えた指導者に、自分も教わりたい」と「弟子入り志願」してきたことがきっかけだったのです。


 出会いがそんなふうだったからなのかどうかはわかりませんが、この本を読んでいると、津田会長にとっての赤井さんは「ジムの看板選手であり、「金づる」だけれども、なんとなく感情移入しづらい存在」だったのではないかと思われます。
 そして、赤井英和さんには、弱い相手、やりやすい相手を対戦相手に選んで、連続KO記録で話題をつくり、人気をあげて稼いでいるという批判も少なからずありました。
 それを仕切っていたのは、津田会長だったのです。

 路地で少し立ち話をした。
 そのなかで津田は本山に、ときどき国鉄新大阪駅に電話を入れて、新幹線の車内放送を頼んでいるという話を自慢げに語った。
「プロボクサーの赤井様、いらっしゃいましたら至急、西成区の愛寿ボクシングジムまでお電話をおかけください」
 アナウンスの口上を真似た津田は「赤井は毎日、ジムにおるんですけどね」と言った後でこう続けた。
「新幹線やったら、名前が全国に売れるでしょ。西成でボクシングをやってる赤井という名が」
 大学卒業後大手メーカーに就職して、第一線のサラリーマンとして仕事に邁進していた本山の目に、自転車に乗って路地に佇む津田の姿は、溌剌として見えた。
 このひとは、赤井のために必死なんやなと、本山は思った。

 赤井さんも、津田会長も、まだ無名だった頃は、勝つため、名前を売るためという共通の目的のために、同じ方向を向いて突き進んでいったのです。
 しかしながら、ある時点から、両者のあいだには、埋められない溝ができていきます。
 赤井さんは、現役の終わりの時期の津田会長との関係についての著者の質問に対して、「所属ジムの会長と目を合わせなくなったら、もうどうしようもない」と答えておられます。


 連勝街道を突っ走り、ランキングを駆け上がっていく時期は、赤井さんも、「こうして話題になるのが、世界挑戦のための早道」だと理解はしていたようなのですが、津田会長がなかなか世界タイトルへの挑戦の機会を与えてくれないことに、しだいに苛立ちをつのらせていきます。


 この本で書かれている、「津田会長の内心」は、あくまでもさまざまな取材に基づいた、著者の憶測です。
 読んでいて、いくらなんでも、愛弟子にそんなことを思うだろうか?なんて感じるところもあるんですよね。
 こればっかりは、津田会長が亡くなられている以上、「本心」は誰にもわからないことですけど。


 ジムの会長として、プロモーターとしての「世界タイトルへの挑戦のタイミング」については、とても興味深いものがありました。
 実力があるボクサーに対して、所属ジムの会長は「なるべく早めに世界に挑戦させてやりたい」と考えているのだろうな、と僕は思っていました。
 ところが、この本のなかで、著者は、津田会長が「赤井さんの世界タイトル挑戦に消極的であったこと」をさまざまな証拠を示して暴いていくのです。
 長年ボクシング界をみてきた津田会長は、「赤井英和は、世界チャンピオンに勝てない」と見切っていたのではないか、と著者は推測しています。
 世界タイトルへの挑戦は、長年チャンピオンであり続けられるような、ごく一握りのボクサーにとっては「通過点」ですが、「世界チャンピオンの器ではない選手」にとっては、「引退の花道」であり、「ゴール」なのです。
 二度目のチャンスが与えられる選手は少ないし、タイトルマッチに敗れて「限界」がみえれば、もうあとは「引退」への道しかありません。
「どんどん強い相手、チャンピオンと闘わせればいいのに」と、観客席にいる僕は思うのですが、選手やジムの会長にとって、勝って、世界ランクが上がっていくことは、「その選手の限界に近づいていくこと」でもあります。
 ごく一部の「無敵の天才」を除いては、ボクサーの「選手寿命」というのは、マッチメイク次第。
 どんな相手と、どんな順番で闘っていくかによって、大きく変わっていくのです。


 津田会長は、「浪速のロッキー」赤井英和のおかげで、ジム会長としての「成功」を手にすることができました。
 しかしながら、「どんどん上を目指したい」という赤井さんと、「世界チャンピオンには届かないだろうから、連続KOなどの話題をつくってお金を稼いだり、ジムの知名度を上げたい。それが結局は赤井さんにとっても将来のプラスになるはず」という津田会長の軋轢は、どんどん深まっていくのです。
 赤井さんの「闘争本能」を、津田会長は、受け止めきれなかった。
 これはある意味、自らが「プロボクサー」にはならなかった(なれなかった)津田会長の限界であり、経営者として成功できた要因だったような気もします。


 ジムの会長といえば、『あしたのジョー』の丹下段平を真っ先に思い浮かべてしまう僕にとっては、津田会長の「ビジネスマンっぷり」は好きになれないのですが、のちの亀田兄弟のプロモーションにもみられるように、「話題づくり」によって、スポンサーやテレビ局を引きつけないと、世界チャンピオンに挑戦する機会を得ることが難しいのも事実です。
 津田会長のやり方が、間違っていたとも言えない。


 ただ、「なぜ、実力もあり、ジムの大功労者であった赤井さんのことを、津田会長は立ててあげなかったのだろう?」という疑問は、この本を読んでも、いや、この本を読むといっそう、強くなってくるのです。
 人間同士の「相性」みたいなものだったのか、それとも、「会長」である自分を超える存在になろうとしていた赤井さんへの警戒心から、だったのか。
 もしかしたら、「ボクサーの本能を持った男」に対する、「プロボクサーとして生きる覚悟を持てなかった男」の嫉妬、みたいなものなのかな、とも、考えてしまうのです。

 赤井のラストファイトは無残なKO負けである。
 JBCに残る赤井の選手台帳の(ア)470と刻印された五十音順の整理番号の脇には<引退勧告>の文字が残されている。ちょうど二枚にわたる試合記録の最後の一行は、欄外に記された<7RKO負><リング上で意識不明>という記述だった。
 巷間で語られていた敗戦の遠因は、津田と赤井の金銭を巡る感情の行き違いである。
 その確執の果てに、赤井は無残に負けてリングを去ったのだと。
 人気選手とジム会長のファイトマネーを巡る対立はボクシングの世界では珍しいことではない。ただ、公園で練習をしたという逸話とともに語られていた師弟の間に横たわる金銭という確執の背景には、ひときわ切ない響きが纏わりついていた。
 敗戦のリング上で昏倒して危篤に陥った赤井は死の淵から生還し、奇跡的に肉体の機能をすべて取り戻して、引退から四年後に、実際には訪れなかった自らのカムバックをモチーフにした自伝的映画『どついたるねん』で主役を演じた。それを境に赤井は、本格的に芸能界に飛び出した。その成功を以ても、津田との間に残ったわだかまりは、にわかに打ち消されることはなかったように思われる。東京に転居した後もしばしば大阪へ来る機会に恵まれながら、赤井が古巣のジムを訪ねてくることはなかった。


 お金を、ファイトマネーを巡る対立にしてしまったほうが、みんなわかりやすかったのだろうな、と僕は思います。
 ボクサーとして精一杯生きようとした男と、ジム会長・プロモーターとしての成功をどうしても掴みたかった男。
 これは、結局のところ、お互いが、お互いの領分のなかで、全力を尽くしてしまったからこそ、生まれてしまった「対立」だったのかもしれません。


 丹下段平は、けっこうしあわせな男だったんじゃないかなあ。
 矢吹丈と、最後まで同じ夢をみることができたのだから。