琥珀色の戯言

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【読書感想】偉人は死ぬのも楽じゃない ☆☆☆


偉人は死ぬのも楽じゃない

偉人は死ぬのも楽じゃない

内容(「BOOK」データベースより)
ベートーヴェンは、体液を抜かれ、蒸し風呂に入れられて死んでいった!?ツタンカーメンからアインシュタインまで、医学が未発達な時代に、世界の偉人たちはどんな最期を遂げたのか?驚きいっぱいの異色偉人伝!


歴史上の「偉人」たちの生涯、とくにその「死の間際に、どんな治療を行われたのか」について書かれた、ちょっと悪趣味な、だからこそ興味深い本でした。
ツタンカーメン王から、アインシュタインまで、数々の偉人が登場してきます(残念ながら日本人は出てきません)。
これ、アメリカの作家が、ヤングアダルト向けに「若い世代に歴史に興味を持ってもらいたい」という動機で書いたものだそうですが、これらの歴史上の人物に行われた「治療」の数々を読むと、とりあえず、「いまの時代に生まれて、幸運だった」と思わずにはいられなくなるはずです。


 アメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンの最期。

 1799年12月14日の朝、ワシントンは体が猛烈に熱くて目を覚まし、息苦しさにあえいだ。マーサ(ワシントンの妻)と秘書のトビアス・リアはすぐさま医者を呼びにやる。もっともそれは言葉でいうほど簡単ではない。なにしろ電話が登場するのは75年ほど先、家の前に車が停まっているようになるのは100年先のことである。医者を呼びにやるには誰かが馬に飛びのり、クレイク医師が住むアレキサンドリアまで13キロ近い砂利道を駆けていかねばならない。
 ワシントンが息をしやすくなるようにと、リアは糖蜜に酢とバターを混ぜて飲ませる。気つけ薬も布にしみこませて首に巻いた。効かない。ワシントンの状態は刻々と悪くなっていく。
 リアは農園の監督をしているローリンズ氏に手助けを求める。ふたりはワシントンに指示されるまま、誰もが当然と思うことをした。先のとがった両刃のナイフをとり出し、ワシントンの腕を深々と切りつけ、血を流させて鉢に受けたのである。こうして0.2リットルばかり血液を抜きとった。
 これは瀉血と呼ばれ、病気の治療法として古くから用いられている。悪い血が溜まって体のなかによどんだら、外に出してやる必要があると信じられていたためだ。ただし、見落とされている点がある。ひとつ、これをやると痛いこと。ふたつ、患者の気分がよけいに悪くなることだ。そこに長らく誰も気づかなかったらしく、20世紀の初めになってようやく医者は瀉血をやめた。
 数時間後にクレイク医師が駆けつけたとき、ワシントンはひと息吸うのもやっとという様子だった。クレイクは進んだ医学を身につけていたので、ツチハンミョウの治療を試すことにする。ツチハンミョウというのは強い毒を持つ甲虫であり、それを乾かして粉にしたものをワシントンの首に塗った。こうすると首一面に血ぶくれのようなものができるので、そこから血を抜くわけである。


(中略)


 まるで目の見えない三匹の鼠が迷路に入り、同じ袋小路に何度も何度も突きあたるように、医者たちは瀉血をくり返し、ワシントンの体から2.4リットルほどの血を抜いた。成人男性の体内には5.7リットルくらいしか血液がない。ただでさえワシントンは明け方から少しずつ窒息していたようなものなのに、酸素を運ぶ血液をこれだけ大量に奪うのはとてつもない誤りだった。
 医師たちはさらに過酷な治療を試す。甘汞(かんこう)と呼ばれる下剤(塩化水銀)を与え、吐酒石(酒石酸アンモニルカリウム)で嘔吐を促したのである。このふたつにより、ワシントンの腹のなかのものはひとつ残らず一直線に最寄りの出口を求めた。もちろん1799年にトイレなどというものはないので、上からにせよ下からにせよ急を要するものはベッド脇の容器に出すしかない。
 日が沈むころ、ワシントンの体のなかは空になっていた。医師たちに懇願する。「もう構わないでくれ。静かに逝かせてほしい。長くはないから」。
 だが三人は諦めない。ツチハンミョウをさらに何度か試みたあと、小麦ふすまの湿布で両足を覆いつくして、体に残された液体の最後の一滴を吸いとった。
 その日、1799年12月14日の夜にワシントンは冷たくなる。67歳だった。


 ちなみに、瀉血というのは、現在でも慢性肝炎の治療に使われることがあります(瀉血によって、肝臓の酵素(ASTとかALT)の異常値が改善されるというデータも存在します)。
 だから、一概に「血を抜くなんて異常だ」ということもないのですが、このときワシントンが罹患していたのは、現在では「喉頭蓋炎」と考えられており、瀉血は意味がないどころか、かえって体力を消耗させ、本人を苦しめる結果になりました。
 ただ、これらの「治療」って、今の時代からみれば、「拷問」のようにさえ思われるのですが、当時としては「医者にかかることさえできない人も少なくないなかで、最新鋭の治療を三人の医師によって行われた」のですよね。
 このとき、ワシントンは引退して農園で生活していたのですが、「偉人」だったからこそ、これだけの「手厚い治療」を受けることになったのです。
 それは、本人にとっては、まさに「余計なお世話」だったかもしれませんが……
「もう構わないでくれ」という言葉は、本当に痛々しい……


 いまの医療に携わる人間としては、「昔はひどかったよね」で片付けられないところもあるんですよ。
 医学というのは日々進歩しており、少なくとも、200年前よりは「マシになっている」はずです。
 でも、100年後の人からみたら、いま、僕たちがやっている医療も「ツチハンミョウの治療」のように見える可能性は十分あります。いや、たぶんそうなのだろうし、そうであってほしい、と思うところもあるのです。


 それにしても、この本に書かれている、偉人たちの「持病」の話には、読んでいて沈鬱な気分になってきます。
 昔(といっても数百年前)は、現代以上に「長生きする」=「さまざなま持病に苦しめられる」ということでもあったのです。
 「それでも地球は動く」という天動説で知られるガリレオ・ガリレイの体調についても、こんなふうに書かれています。

 天体ならぬガリレオの体のなかでも何かが動いていた。腎結石である。石が尿の通り道をゆっくりと下りてくる痛さたるや、下腹部で小惑星が燃えているかのようだった。何がいけなかったかといえば、葡萄酒ばかり飲んで水を飲まないことである。そのころは水より葡萄酒のほうが安全だと考えられていた。さらには、燃える隕石が足先や膝にも現れる。こちらのほうは痛風のせいだ。手の指は変形し、節くれてねじれたかぎ爪のようになり、手の皮がむける。こればかりはどれだけ頭がよくても関係がない。風味づけとして葡萄酒に入っている鉛が毒であることも、葡萄酒の大樽に使われている金属から鉛がしみ出していることも、ガリレオは知らなかった。鉛入りの葡萄酒を大量に飲みつづける。おかげで頭痛がし、貧血にもなり、歯が腐った。
 太陽を中心にした宇宙について『二大世界体系にかんする対話』という本にまとめているときには、動くのもやっとという状態になっていた。下腹部の弱くなった筋肉のつなぎ目には穴があき、そこから腸が飛びでている。ヘルニアだ。穴をふさぐため、脱腸帯という重い鉄製の器具を毎日つけなくてはいけない。光に目を向ければ、必ずまわりに大きな丸いもやのようなものがかかり、そのもやのうしろにある物は何ひとつ見えなかった。これは目の炎症と、今でいう緑内障のせいである。


 こんな状態で、ガリレオは、研究を続けていたのです。
 地動説で異端審問にかけられたのは、69歳のときでした。
 終身刑の判決が出たのですが、ガリレオの体調をみて、別荘での自宅軟禁に切り替えられたそうです。


 それぞれの章の終わりには、当時の治療や、偉人たちについての「トリビア的なもの」が紹介されており、それもなかなか興味深いものでした。
 マリー・アントワネットの章より。

ギロチン
 ギロチンは首を斬るための道具であり、考案者であるフランス人のギロチン(フランス語読みではギロタン)博士にちなんで名づけられた。
・初執行……1792年4月25日
・最終執行……1977年9月10日

 僕が生まれた後にも、ギロチンが使われたことがあったのか……


 病気や治療法の詳細にこだわりがなく、偉人・有名人のさまざまな「死に方」を知りたいということであれば、山田風太郎さんの『人間臨終図鑑』という名著がありますので、そちらのほうもオススメしておきます。


 死ぬっていうのは、誰にとってもラクじゃない。
 そして、「死」というのは、ものすごく不平等であり、平等でもあるなあ、と考えさせられます。
 ……と、僕が人ごとのように書けるのは、いつまでなんだろうね……



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