琥珀色の戯言

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【読書感想】江戸しぐさの正体 ☆☆☆☆


内容紹介
 「江戸しぐさ」とは、現実逃避から生まれた架空の伝統である本書は、「江戸しぐさ」を徹底的に検証したものだ。
 「江戸しぐさ」は、そのネーミングとは裏腹に、一九八〇年代に芝三光という反骨の知識人によって生み出されたものである。そのため、そこで述べられるマナーは、実際の江戸時代の風俗からかけ離れたものとなっている。芝の没後に繰り広げられた越川禮子を中心とする普及活動、桐山勝の助力による「NPO法人設立」を経て、現在では教育現場で道徳教育の教材として用いられるまでになってしまった。
 しかし、「江戸しぐさ」は偽史であり、オカルトであり、現実逃避の産物として生み出されたものである。我々は、偽りを子供たちに教えないためにも、「江戸しぐさ」の正体を見極めねばならないのだ。


 「江戸しぐさ」をご存知でしょうか?

 その昔、旧営団地下鉄の愛称・東京メトロにまだなじめなかった頃、私は上京する毎に、地下鉄の駅に張られた奇妙なポスターに目を奪われた。
 それは、「江戸しぐさ」という題目で鉄道客車内での作法を描いたイラストの数々で、公共広告機構(現ACジャパン)によるマナー啓発CMだった。

 著者は、歴史研究家であり、日本でも数少ない偽史偽書の専門家です。
 「江戸っ子のモラルの高さ」「昔の日本人の素晴らしさ」をアピールし、現代人のマナーに警鐘を鳴らす、「江戸しぐさ」。
 著者は「時代考証」や「『江戸しぐさ』をつくりだし、広めようとしてきた人たちの人生を辿ること」によって、この「江戸しぐさ」を検証し、実際には存在し得なかったものであることを証明していきます。


 僕自身は「江戸しぐさ」に関して、「まあ、それが現代人のマナー改善につながるのであれば、別にちょっとくらい嘘が混じっていても良いんじゃない?」とかいう気持ちもあったんですよ。
 でも、この本を読んでいると、「ちょっと」どころじゃないし、偽の「歴史的事実」が広まることのデメリットについて、あらためて考えさせられました。


 「江戸しぐさ」というのは、「江戸の商人の間では広く共有された行動哲学」だそうなのですが、それが最近まで忘れられていた「こんな理由」が語られているのです。

 「NPO法人江戸しぐさ」の越川禮子氏によると、その原因は、幕末・明治期に薩長勢力が行った「江戸っ子狩り」に求められる。

 江戸っ子を一部の官憲は目の色を変えて追い回した。”江戸っ子狩り”は嵐のように吹き荒れた。摘発の目安は”江戸しぐさ”。ことに女、子どもが狙われた。私たちの目にはふれないが、ベトナムのソンミ村、アメリカネイティブのウーンデッドニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたという話もあながち嘘ではないかもしれない。それらは、史実の記録はおろか、小説にも書かれていないが」(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋」157〜158頁)

 
 この「江戸っ子狩り」の魔手を逃れるため、多くの江戸っ子が地方に逃れて隠れ江戸っ子になったという。その江戸っ子脱出を手引きしたのは幕臣勝海舟で、両国から船を出して武蔵や上総に何万という人を送った。彼らは近くは神奈川、埼玉、遠くは北海道の函館まで逃れて「江戸しぐさ」を伝える江戸講の組織を維持し続けていた。
 また、「江戸しぐさ」はもともと口伝で書き物を残すことを禁じられていた上に、江戸っ子たちが江戸に関する記録を薩長勢力にわたすことをこばんですべて焼き捨ててしまった。そのため「江戸しぐさ」に関するわずかな覚書まで失われたのだという。
 薩長の子孫からしてみれば、濡れ衣もいいところである。また、勝海舟の履歴にもそのような事実はない。


 「虐殺の隠蔽」は、歴史に対する大きな罪だと思いますが、このような「ありもしなかった虐殺を、自分たちの主張のために根拠もなく、捏造してしまうこと」にも、憤りを感じます。
 著者は偽書の専門家として、「偽の古文書などの証拠があれば、使われている紙の年代測定や筆跡の鑑定などで、科学的な証明ができるのだけれど、『具体的な証拠は無い』と開き直られてしまうと、それが嘘であることを証明することも、かえって難しくなる場合がある」と仰っています。
 冷静に考えてみると、「江戸っ子狩り」なんていう虐殺が実際に行われたとすれば、なんらかの資料が残っているはずです。
 江戸に水爆が落ちて、すべてなくなってしまった、というのならともかく。
 こういうのって、「本物らしく見せようと、証拠をつくればつくるほどボロが出る」ものなんですね。
江戸しぐさ」の場合は、「証拠が無いのが証拠だ!」と開き直ってしまったのが、かえって成功しているのです。


江戸しぐさ」を代表する三大しぐさは「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」だそうなのですが、著者は、この3つのすべてに、江戸時代のものとは考え難い、と疑念を呈しています。

 その「傘かしげ」について、『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』(以下『商人道』)では次のように説明される。
 

 雨や風の日、道路ですれ違うとき、相手も自分も傘を外側に傾けて、一瞬、共有の空間をつくり、さっとすれ違う。お互いの体に雨や雪のしずくがかからないようにするとともに、ぶつかって傘を破らないようにする実利的な意味も含んでいた (『商人道』、93頁)


 しかし、これは誤解に基づく創作である。
 浮世絵の題材や歌舞伎の小道具に傘がよく使われること、時代劇などで浪人の内職としてよく傘張りが出てくることから誤解しがちだが、江戸では差して使う和傘(唐傘)の普及は京や大阪に比べて遅れていたのだ。
 江戸時代も末期の天保年間(1830〜1844)頃には江戸でも和傘の普及が進むが、それでも贅沢品という性格が強かった。江戸っ子たちは雨具として、主に頭にかぶる笠や蓑を用いていたのである。
 江戸でも大店の商家では、急な雨の際に客に傘を貸し出すサービスをすることもあったが、これはその傘に入った屋号を目立たせることによる宣伝という意味が大きかった。
 浮世絵や歌舞伎に傘が出てくるのは贅沢品ゆえで、今でいえば雑誌グラビアや映画でブランド品が使われるようなものである。
 また、下級武士の内職に傘張りが好まれたのも、贅沢品に関わるゆえに他の内職に比べて実入りがいいからである。


 したがって、江戸で傘を差したもの同士がすれ違うという状況が、特殊なしぐさを必要とするほど頻繁だったかどうかには疑問がある。
 また、傘かしげは相手も同じ動作をするという暗黙の了解によって成り立っている(そうでなければ、かしげた側が上からの雨と相手の傘からの雨を同時にかぶることになる)。それなら一方が立ち止まって道を譲るなり、傘をかしげるのではなくすぼめるなりしてぶつかるのを避けた方が賢明である。
 そして、和傘はスプリングが入った洋傘に比べ、すぼめたまま手で固定するのが楽な構造になっているのだ。


 なるほど。
 こうして時代考証をきちんと行ってみると、「傘かしげ」なんておかしいよな、というのが見えてきます。
 江戸では、差して使う傘、そのものが普及していなかった、という歴史的事実。
 傘かしげという行為そのものが、お互いの了解を必要とする成立難易度が高いもので、もっと合理的な方法もありますよね。
 僕としては、「江戸時代にも、広告目的で傘を貸し出すようなマーケティング戦略があった」というのも、驚きではあるのですけど。

 
 著者は、このように、歴史的な事実を積み重ねて、「江戸しぐさ」が、実際に江戸時代に生活していた人たちにとっては、ありえない、または非常に不合理なものであることを紹介しています。
 そして、「江戸しぐさ」が主張されはじめた時期などから、西洋のマナーや、戦後の高度成長期の「自己啓発ブーム」の影響が強いのではないか、と指摘しているのです。


 こんなふうに、歴史的根拠に乏しいというか、歴史の捏造ですらある「江戸しぐさ」。
 しかしながら、こういう「いい話」の矛盾というのは、なかなか指摘されにくいというのも事実です。


「じゃあ、その嘘で、誰が傷つくんだ?」
「そういうエピソードで、現代人のモラルが向上するのであれば、フィクションでも良いじゃないか」


 実は、僕自身にも、そんなふうに思ってしまうところがあって。
 少なくとも、これは「悪い嘘」じゃないのでは……とか、つい考えてしまうのです。


 著者は、こう書いています。

 また、「江戸しぐさ」についても、私がツイッター上で「江戸しぐさ」批判を始めた時には、おかしな話がまぎれこんでいるからといって「江戸しぐさ」の存在まで否定するのは早計という意見がみられた。
 そういった信奉者に共通しているのは「(嘘を交えているとしても)すべてが嘘とはいいきれない」という論法である。
 それらの例で否定されているのは、伝来されていた内容以上に、伝来の経緯に関する証言や証拠なのである。その伝来の経緯が嘘だった以上、その内容だけは本当ということはまずありえない。それはさしずめ、土台が崩れているのに、その上にある建物は無事だと言っているようなものである。真実を知りたいのなら、伝来の経緯がまっとうな他の情報源を探すべきだろう。
 それではなぜ、そのような無理を押してまで信じるべき根拠が失われている話に固執する人がいるのか。それは、その人が内容に共感し、いったんは信じ込んでしまったからである。
 つまり彼らは、真実を求めるより、自分の思い込みを守ることの方を選んでしまったわけである。


 この文章の最後「真実より、自分の思い込みを守るほうを選んでしまった人」という言葉は、僕にとっては本当に「刺さる」ものでした。
 そうなんですよね、僕がこういうのを「別に悪いことを言っているのではないんだから……」と許容してしまうのは「それをいったんは信じ込んでしまった自分を守りたいから」なのです。
 そして、「いい話だから、僕は許す」という思考回路が出来上がってしまったら、おそらく、その「許容範囲」はどんどん広がっていって、「自分にとって都合の良いことは、どんな嘘でも信じる人間」になってしまいかねません。
 結局のところ、そういう「自己正当化の暴走」を食い止めるためには、「それが事実かどうか」を、ひとつの境界にするしか無いのだと思うのです。

 

 さて、私は2013年の春頃から、「江戸しぐさ」の成立に関する調査状況をツイッターに上げ続けてきた。その初期の頃に寄せられた意見に次のような大意のものがあった。

 江戸しぐさがフィクションだったとしても、モラルが低下している現代ではそれに基づいて道徳を教える意義がある。モラルハザードファシズム台頭の引き金にもなりかねない。


 しかし、フィクションを現実にあった事柄として教えるのは、結局虚偽である。虚偽に基づいて道徳が説けるものだろうか。教え子がその虚偽に気づいたなら、虚偽に支えられた道徳もまた軽んじられるのが落ちだろう。
 また、虚偽によって人々を自分の主張に誘導するというのは、ファシストがよく行う手口である。「江戸しぐさ」の実在は虚偽だと知りつつ、自分の考える道徳に教え子を誘導するのに便利だから使うというのは、ファシズムに抗するどころか教師がファシストに近づく第一歩になりかねない。
 そもそも、教育の場で教師が堂々と嘘をつくこと自体、深刻なモラルハザードなのである。虚偽を根拠に道徳が説けるわけはない。


 本当に、そう思います。
 ただ、僕はこの本を詠みながら、考え込んでしまったところもあるのです。
 

 なぜ、こんなふうに「(偽の)江戸時代の習慣」がもてはやされているのだろうか?
 「道徳教育」を行いたいのであれば、「雨の日で傘を持っているときには、お互いに道を譲り合いましょう」「相手が濡れないように気をつけましょう」とか「公共交通機関の座席は、なるべく詰めて多くの人がすわれるようにしましょう」って、「現代人としてのマナー」を、そのまま教えれば良いんじゃない? 


 でも、これを書いていて、わかったような気がします。
 いま、子どもたちが目のあたりにしている「2014年の大人のマナー」が目も当てられないものだから、「江戸時代の日本人」に理想を投影するしか、ないんだよね……
 

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