琥珀色の戯言

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【読書感想】H.I.S.澤田秀雄の「稼ぐ観光」経営学 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
創業以来一八年間、巨額の赤字だった長崎「ハウステンボス」をわずか一年で黒字化したエイチ・アイ・エス(H.I.S.)会長の澤田秀雄H.I.S.を年商五〇〇〇億円の大手旅行会社に育て上げ、新興航空会社スカイマークの設立、証券会社の買収などで、常に動向を注視されるベンチャーの旗手は、いかに地方都市で「観光」ビジネスを進化させ、活性化させたのか。ハウステンボス再建に惜しみなく注ぎ込まれた独自の経営手法、組織管理のノウハウを、日本経済新聞長崎支局長が徹底取材。地方の成長と直結した企業再生の要諦を読み解く!


 僕はずっと九州北部に住んでいるので、「ハウステンボス』は、ディズニーランドよりも、はるかに身近な存在だったのです。
 オープンした年に最初に訪れたときには、「こんな大規模なオランダ風の街を、こんな田舎につくるなんて、正気なのか?」と半ば驚き、半ば興奮したものです。
 1992年に開園したハウステンボスには、家から近いこともあって、年に1回くらいは行っていました。
 当時、大学のある教授が、ハウステンボスに別荘を購入したという話をきいて、「いいなあ!」と思ったんですよね。
 オランダの街並みと、港。豪華なホテルなどのリゾート施設。
 そこには「上流階級っぽい雰囲気」があったのです。


 ところが、開園後しばらくして、バブル景気が崩壊したあとのハウステンボス関連のニュースは、暗いものばかりでした。
 施設がマンネリ化し、伸び悩む入場者数。累積する赤字。
 途中、野村ホールディングス傘下の会社に経営権を移し、立て直しをはかりましたが、うまくいく気配もなく。
 遊びに行っても、とくにすることもなくて、ボーッとして花火を見て帰るだけ。
 僕にとっては、JRA日本中央競馬会)の場外馬券売り場・WINS佐世保ができたことくらいが「朗報」でした。


 年々、老朽化が目立つようになった、人の住んでいない別荘群を横目で眺め、園内の店もアトラクションもなくなった空き地をみるたびに、「ああ、ハウステンボスも、もうそんなに長くもたないだろうなあ……」と思っていたのです。
 そういえば、あのフジテレビの『逃走中』の舞台になったこともありました。
 入場者が少ない時期で、閑散としていたから、こんなふうに使われるのだろうな……と、思いながら観ていたっけ……


 当時は、訪問するときも、「これが最後かもしれないな……」と思っていましたし、「もしこのハウステンボスが廃墟になったら、世界有数のスケールだろうな!」とか、ちょっと黒い期待を抱いてもいたのです。


 率直なところ、ハウステンボスって、「バブルが生んだ過剰投資の典型例」みたいなもので、こんなものが周辺人口の少ないところにあっても、採算が取れるわけがないだろう、と。
 ハウステンボスへの初期投資額は2200億円。
 あのディズニーランドが1800億円だったそうですから、「商圏は首都圏の20分の1」の佐世保に造られるには、あまりにも壮大すぎました。
 むしろ、よくここまで、維持してきたものだな、とさえ感じていました。


 ところが、H.I.S.澤田秀雄会長が再建に取り組んだら、「奇跡」が起こったのです。
 新聞で「ハウステンボスが黒字に」というのを見たときには、「信じられない!」と思いました。
 もちろん、公的な支援や、これまでの負債の軽減などの措置がとられた効果はあるのですが、それにしても、18年間連続赤字だったものが、わずか1年で黒字化されるとは。
 あの「廃墟に一直線」にみえた、ハウステンボスが!

 澤田秀雄のビジネス人生は文字通り、旅である。子供の頃から未知の場所に行くことが好きだった青年は、工業高校を卒業後に大学進学も、就職する道も選ばず、「新しい世界を見ないことには、自分の人生は決められない」と思い立ち、旧西ドイツに留学した。ヨーロッパの交通の要衝であるドイツを拠点にすれば、どこに行くにも便利という理由からである。留学先の町で小遣い稼ぎ気分で始めた日本人旅行者向けのナイトツアーが当たり、日本では海外旅行がまだまだ高嶺の花だった時代に世界50ヵ国以上を巡り歩いた。

 澤田秀雄は、日本有数の旅行会社エイチ・アイ・エス(H.I.S.)グループの総帥であり、航空会社スカイマークの創業者であり、新興国モンゴル最大の民間銀行の会長であり、東京交響楽団の理事長として音楽をこよなく愛する文化人である。

 この本によると、山崎豊子さん原作で、映画化もされた『沈まぬ太陽』にも、澤田さんをモデルにした人物が登場するそうで、1951年生まれの澤田さんが、若い頃から旅行業界の風雲児として活躍されていたことがうかがえます。

 そして澤田が今、ビジネス人生の集大成として取り組んでいるのが長崎県佐世保市にある大型テーマパーク「ハウステンボス」の再生である。1992年にオープンしてから18年間、一度も黒字になったことがない不振企業の再建を乞われ、見事に復活させた。2014年6月にH.I.S.が発表した2013年11月〜2014年4月期の連結決算は多くの投資家の度肝を抜いた。連結営業利益の6割を子会社のハウステンボス一社でたたき出し、円安で収益が悪化した親会社の旅行事業の不振を補ったからである。格安航空券販売を看板に大手の一角にのし上がったH.I.S.の事業構造まで変貌させる存在になったのである。


 この新書は、澤田会長がハウステンボス支援に乗り出すまでのプロセスと、実際に、どうやって「経営改善」を成し遂げたのか、を描いています。
 また、ハウステンボスが、神近さんというひとりの理想を追った人による「新しいスタイルの都市計画」として作られたものだったことも紹介されています。
 当時の僕には、バブルの勢いで『やっちまった』ようにしか、見えなかったのだけれど、あの壮大な施設に「未来への希望」を抱いていた人たちがいたのです。


 澤田会長は「地元企業優遇を捨て、使えない古参社員を突き放し、『オランダの街並みを再現する』というコンセプトから離れる」ことによって、ハウステンボスを「蘇らせた」のです。
 それは、開業時の「ハウステンボスの理想」とか「ハウステンボスらしさ」を切り捨てることでもありました。

 娯楽路線を強化し、「オランダの静かな街並み」という創業以来の基本コンセプトを捨てた澤田。「脱オランダ」路線を印象づけたのが2013年3月に実施したエリア名称変更である。2011年9月期、2012年9月期と二期連続で黒字を確保したのを受け、澤田は歴代の経営者が手をつけない「聖域」だったエリア表示にメスを入れた。ハウステンボスではオランダの国造りを手本にした出自を守り、園内のエリアには「ユトレヒト」「ビネンスタッド」「ブルーケレン」などオランダの都市名や固有名詞を付けた。江戸の鎖国時代に長崎に憧れ、蘭学オランダ語を通じて日本に入ってきたヨーロッパの学問や文化)を学んだ当時のエリート層ならいざしらず、現代の多くの日本人にはオランダ語は耳なじみのない外国語である。
 園内の表示板は「スリラーシティ」「アートガーデン」など、日本人にも分かりやすい英語表記の看板に変わり、エリアの特徴や性格がイメージできるようになった。古くからのリピーター客からは「脱オランダ路線もここまで極まったか」とため息がもれたが、この見直しは来園者からおおむね好意的に受け止められた。
 オランダという原点を否定した澤田の決断の背景には、単なる「外国もどき」では全国の観光地競争に勝ち残れないという認識があった。


 僕も、『ドラクエ展』を観に行きながら、「これ、オランダと関係ないよね……」と思っていたのですが、旅行のプロである澤田社長にとっては、「オランダというコンセプトに縛られるよりも、とにかく楽しいものをどんどん取り入れていくことが、生き残る道」でした。
 いまの世の中であれば、「本物のオランダに行くことだって、そんなに難しくはない」のだから、よくできたイミテーションのニーズには限界があると判断したのです。


 そういえば、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパンも、「映画のアトラクションへのこだわり」を捨てて、モンスターハンターのアトラクションなどを採用しながら、経営を改善していったんですよね。

 澤田は着任早々、社員に「1.2倍速く働く」ことを指示した。それまで1時間かかっていた仕事なら45分、5つの手間がかかっていた作業なら一つ減らして4つに、と全ての仕事に敏速性と確実性を求めた。
 仕事の効率を上げるために澤田が取り組んだのは、社員の意識改革だった。本社部門のあるオフィスでは間仕切りの役目を果たしていた壁を取り払い、企画、営業、管理部門といった本社部門がワンフロアで仕事をするようにした。外の施設にいた本社部門の50人もメインオフィスに呼び寄せた。一気に人口密度は二倍になり、100人もの大部隊がワンフロアで働くようになった。皆が同じオフィスで顔を見ながら仕事をするのだから当然、コミュニケーションも良くなった。
 この時、プロパー社員たちを驚かせたのが、澤田が組織に一切手を付けなかったことである。H.I.S.の手練れの部下たちとともにハウステンボスに乗り込んだ澤田だが、当初は組織図や幹部の顔ぶれをほとんど変えなかった。「組織図が以前と変わらないのに、皆のテーブルを一ヵ所に集め、壁を取り払ったことで仕事のやり方が劇的に変わった。これが本当の意味の組織改革なのだと思った」。ある中堅社員は当時の驚きをこう証言する。
 澤田は社長室を廃し、自ら本部フロアの中心に陣取って幹部や若手社員との面談を繰り返した。トップが即断即決するのだから、書類作りや会議の資料作りで時間を奪われることは大幅に減る。前オーナーの野村時代に二週間かかっていた意思決定が提案したその日のうちに完了することも珍しくなくなった。園内のスピーカーが壊れたら即修理に回し、夏の猛暑対策とあれば、翌週には霧のミストシャワーが現場のアトラクション施設に届いた。
 澤田はオフィスにいない時は電動自転車で園内をこまめに周り、「あの目地が崩れている」「歩道にくぼみがある」など細かく社員に改善を指示する。「後ろを振り返ると常に社長がいる」と現場の社員に言わしめるほど園内をくまなく回り、スピード感を共有してもらうよう心がけた。

 社員からすれば、こういう人が社長だと、けっこうキツイんじゃないかな、とは思うのです。
 でも、こういう人だったからこそ、ハウステンボスは、危地を脱することができたし、社員たちも、仕事を失わずにすみました。
 社長にここまでやられては、自分たちもやらないわけにはいかないだろうしね。
 そして、澤田会長は「特別なこと」をやっているわけではないのです。
 無理難題を押しつけたわけではなく、「大変にはなるけれど、誰でもやればできるくらいの努力」を積み重ねて、状況を改善していったのです。
 精神論に頼るのではなく、具体的な方針を示しながら。


 僕個人としては、「こんな人の下でハードワークを要求されるのはムリだな」と思うのですが、こういう人が、「カリスマ経営者」なのだなあ、と。

 
 あのハウステンボスを黒字にしたのは「魔法」などではなかったということが、よくわかる新書です。

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