琥珀色の戯言

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【読書感想】ネットが生んだ文化誰もが表現者の時代 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
インターネット時代の新たなカルチャーとは。非リア、炎上、嫌儲、コピーの4つのキーワードでネットの精神風土を解説。日本最大の動画共有サービス「ニコニコ動画」の川上量生が語るネットカルチャーの本質。

 この本、角川学芸出版の『角川インターネット講座』の第4巻として発行されたものです。
 「学芸出版」というだけあって、かなりアカデミックな内容も含まれています。
 ちなみに、川上量生さんは「監修」なので、直接書いておられるのは、全体のうち、30ページ程度の「序章・ネットがつくった文化圏」だけなんですよ。
 でも、各章の執筆者は、川上さんの他に、ばるぼらさん、佐々木俊尚さん、荻上チキさんなど、豪華なメンバーで、この話題を語るのに不足なし、という感じです。
 

 この第4巻では、「非リア、炎上、嫌儲、コピー」の4つのキーワードをもとにして、「ネット民たちの考え方」について語られているのですが、川上さんの項をはじめとして、「学術書」とは思えないような率直な言葉が並んでいるんですよね。
 そもそも、ネットの場合、「炎上」を語る人の大部分が、実際に燃やされたことがある、のだものなあ。


 この本のなかで、いちばん印象的だったのは、川上さんが序章に書いておられる、この文章でした。

 ユーザー視点に立ったインターネットの歴史とは、現実社会に住む人々から分化して、ネットに住むようになった人々の誕生と発展の歴史であり、さらにはインターネットの拡大により、いったんは現実生活の住民から分かれたネット住民が、再び現実社会の住民と交わり、文化的衝突を起こした歴史であるともいえる。
 このことをわかりやすくたとえる方法として、私は「ネット新大陸」という造語をよく使う。「ネット新大陸」とは、現実社会とは別の仮想現実の世界としてインターネットを理解するということである。そうすると、元々われわれが住んでいた現実世界のことは「旧大陸」とでも呼べばいいだろうか。そしてインターネットの発展の歴史とは、現実世界=旧大陸から新しく発見された仮想世界=ネット新大陸へつぎつぎと人々が移住してゆき、人間の勢力圏を拡大していった歴史であると考えるわけである。
 ネット新大陸へは、どんなひとが移住したのだろうか? 早くから移住をしたのは、旧大陸の中でも進歩的な考え方ともった知的エリート、というわけではまったくなかった。むしろ旧大陸になじめない人々が最初のネットへの移住者の中心だった。旧大陸になじめないとは、つまり、現実社会において居場所がない、ということである。そういう人々がネットに居場所をもとめて移住をしてきたのである。彼らをここで「ネット原住民」と呼ぶことにする。一方で、ネット原住民に遅れてネット新大陸に入植してきたひとたちがいる。彼らのほうは「ネット新住民」と呼ぼう。
 ネット原住民とネット新住民とはなにが異なるのか? 決定的な違いは旧大陸との関わり方である。ネット原住民はもはや旧大陸の移住者ではなく、元からネット新大陸に住み着いた人間として振る舞う。ネット原住民は旧大陸で居場所がなかったから、ネット新大陸では生まれ変わった人生を過ごしている。彼らは旧大陸を海の向こうにある自分たちとはまったく無関係な別世界として考えていて、ネット新大陸では旧大陸と違う独自のルールがあると思っている。いわば別の国の住民なのだ。一方で、ネット新住民のほうはネット新大陸を旧大陸の延長で考える。社会制度や人間関係も旧大陸のものをそのまま新大陸にもち込みたがるのが特徴だ。そしてネット原住民のほうは土地私有の概念がなくネット新大陸は巨大な共有地だと考えるが、ネット新住民のほうはSNSに代表されるように自分が生活するネットを境界で区切ろうとする。両者は同じネット新大陸の住民でありながら根本的に価値観が異なり、相容れない。
 まずネット文化を理解するための前提として、現在のネットには先にこの大陸に移住してきた「ネット原住民」とあとから入植してきた「ネット新住民」とがいて、彼らの間に大きな文化の違いが存在することを知っておかなくてはならない。なぜならネット上での軋轢のほとんどは、この古くからいるネット原住民と、それに対して勢力を拡大しつつある新住民の文化的衝突であるとみなせるからだ。


 ああ、こういうことだったのか、と。
 僕も漠然と感じたことが、こんなにうまく言葉にされていることに驚きました。
 ネットの世界には、物理的な「境界」がありません。
 リアルな土地(っていうのもヘンな言葉ですが)のように、限られたスペースではないはずなのです。
 もちろん、容量的な限界はありますが、よほどのことがなければ、容量をめぐっての住民どうしの衝突が起こることはないのです。


 僕も「ネット原住民」側だと思うのですが、この「新住民」へのルサンチマン、みたいなものはよくわかる。
 自分は現実に適応するのが難しいと感じていて、ようやくネットに居場所を確保したのに、ネット上が便利になってきたとたんに、それまでは「ネットばっかりやっているなんて、気持ち悪い」と言っていた人たちが、どんどん流入してきて、「リア充ルール」を押しつけてくる。
 ネットでは、「全体に公開」で書かれたものは、どこから言及されても当然、のはずなのに、「新住民」たちは「なんで仲間じゃないあなたが、私の話に口出ししてくるの? それっておかしい」と考えています。
 僕たちが開拓してきたネットっていうのは、そんな場所じゃないんだよ!
 でも、「垣根」がないだけに、原住民と新住民は、常に一触即発の状態のまま共存し、Twitterでお互いを見ないようにしているのです。
 多くのSNSでは、自分とは違う価値観の人たちって、けっこう見えづらくなっていますしね。


 たしかに、いまのネットの世界で起こっている「衝突」というのは、「地球を出て行って、よその星を開拓した人々」と、「ずっと地球に住んでいて、最近、その星に移住してきた人々」の軋轢みたいなものなのかも。
 なんか『ガンダム』みたいだな……とか思いながら、僕はこれを読んでいました。
 「オレたちが懸命に開拓した星なんだから、こっちへ来るな!」という原住民と、「同じ地球人だったんだから、助け合うのが当然だろ?」という地球からの新たな移民たち。
 ルーツが同じでも、そりゃ、なかなかうまく共存していくのは難しいよ。
 とくに原住民の側にとっては、受け容れ難いと思う。


 まあ、世代的にいえば、原住民のほうが先に死に絶える、ということにはなるのでしょうけど……
 逆にいえば、そういう形で決着がつかないと、わがかまりを解くのは難しいのではないかなあ。
 

 川上さんは、ネット原住民について、こんな身も蓋もないことを仰っています。

 どんなにネットに現実世界が流れ込んでも、リア充勢力が多数派になっても、ネット原住民の影響力が低下することはない。なぜなら、彼らは暇だからだ。会社員が仕事をしている間も、リア充がデートをしている間も、彼らはありあまる時間をもつがゆえに、ずっとネットにへばりついていることができる。豊かな日本を生んだニートの親世代の経済状況が安泰で、ニートが彼らに依存し続けられるうちは、このインターネットの社会構造は変わらない。


 「なぜなら、彼らは暇だからだ」
 こんなこと、川上さんか中川淳一郎さんじゃないと、書けないのではなかろうか。
 それも、「角川学芸出版」で!
 でも、これは事実で、ネットでは、暇で時間をたくさん使える人や、失うものが無い人の「強さ」があるんですよね……


 この本を読んでいると、ネットで起こったこと、起こっていることについて、ある程度「歴史を語れる」くらいの時間が経ったのだなあ、と、ちょっと感慨深くもあるんですよ。
 まだしばらくは、「原住民 vs 新住民」の闘いが続くでしょう。
 戦闘員の数や戦闘能力を考えると、結果は見えている、ような気はしますが、失うものが少ないだけに、原住民だって、そう簡単には引き下がらないと思われます。
「新住民」が優勢になっても、「炎上誘発」のようなゲリラ戦が続くことが予想されます。


 この本を読んでいると、ネットでの人々の行動というのは、僕が考えている以上に、すでに分析・解析されているのだということがわかります。
 「第4章 炎上の構造」では、荻上チキさんが、こう仰っています。

 炎上が論争的な内容である場合は、特定個人との代表議論に持ち込み、他者をギャラリー化するという手段もある。しかし企業などが不祥事で炎上した場合、各個人への批判すべてに対応することが難しい。とはいえ、企業などの対応としては、この10年程度で以下のような対処が定番となっている。それは、公式サイト上に対応ページを開設したうえで、問題発生経緯の調査状況、当事者への処分等の進捗、そして再発防止策等を公表し掲載するというものだ。
 こうした対応がうまくいけば、燃料を奪われた炎が鎮火し、集合行動としての規模が縮小されていく。逆に、対応を誤ると、それ自体が新たな燃料となる。削除対応をして逃亡したりすれば、証拠が残っている以上、逆効果ともなる。結局、テンプレートのような凡庸な謝罪文を早期掲載することにより、鎮火を図ることが近道なのだという認識が広がってきた。炎上そのものが珍しい現象ではなくなった今、企業にとって炎上対策は、コンプライアンスのサブカテゴリーのひとつに過ぎなくなっている。


 企業の「トラブル処理班」にとっては、すでに「ネットでの炎上」というのは、「珍しい現象ではない」とされていて、対応策もテンプレート化されてきているんですね。
 僕のような「原住民」のほうが、かえって「ネットで何かをやっている人へのシンパシー」や「ネットで起こっていることは新しいこと、という錯覚」に囚われてしまっているのかもしれないなあ、と、最近思うようになりました。
 もう、ネットなんて「普通のツール」でしかないのに、昔抱いた「幻想」から、なかなか逃れることができないんですよね。


 ばるぼらさんは、「第1章 日本のネットカルチャー史」のなかで、こんな話をされています。

 ここまでで日本のネット文化の形成の大まかな流れは書いたつもりである。そして、それらすべてを踏まえて、もっとも根源的なネット的行為についてようやく説明する。それは「すべてをネット上で可能にする」ということである。CDは扱いが面倒だからネットで聴けるようにしよう、本は場所をとるからネットで読めるようにしよう、イベントに来ない人向けに動画で配信しよう、ネットで友達と連絡をとろう、ネットで昔の友人と再会しよう……。生活を送るうえでオンラインとオフラインの差を限りなくゼロに近づけ、オフラインとオンラインと同じにしてしまうこと。個人/団体、営利目的/非営利目的、無料/有料などに限らず、これが現在のネットの当面の目標といっていい。


 「すべてをネット上で」
 ああ、確かにそうなんだよなあ、と。
 その一方で、だからこそ、「あえてネットでやらないところに価値がある」という人々も出てきており、どのあたりでバランスがとれるのか、まだまだ見えない状況ではあります。

 
 これまでのネット文化を「総括」するという意味で、そして、今後のネット文化の行く末を占うために、すごく参考になる本ですよ、これ。
 ただ、この本の後半部分に関しては、ちょっと難しいというか、この本のテーマから逸脱しているような気もしました。
 いや、わかりやすければ正しい、とも限らないんだけど、「いかにも論文」って感じの文章は、ネット文体に慣れていると、けっこう辛い。



ニコニコ哲学 川上量生の胸のうち

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