琥珀色の戯言

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【読書感想】西洋美術史入門・実践編 ☆☆☆☆


西洋美術史入門・実践編 (ちくまプリマー新書)

西洋美術史入門・実践編 (ちくまプリマー新書)

内容(「BOOK」データベースより)
美術品の「物理的側面」と「精神的側面」を鑑賞しその社会性を読み解く、これが美術史の実践です。本書ではエジプト美術から現代絵画まで多くの実践例を紹介。前著『西洋美術史入門』から、もう一歩奥の世界へ誘います。


この本を読む前に、同じ著者による前著『西洋美術史入門』を読んでおくことをおすすめします。

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

(『西洋美術史入門』への僕の感想はこちらです)


 前著のコンセプトは、こんなふうにまとめられています。

 現代であれば、私が皆さんにお伝えしたいことは、こうして文字にすればすんでしまいます。しかし、たとえば昔の西洋世界で本など読めたのは社会のごくごく一部の層にすぎません。では大衆に伝えたいことがあれば何を用いたか――それが絵画だったのです。つまり絵画は、今よりもっと「何かを誰かに伝えるためのもの」という機能を強く持っていました。個人が、ごく私的な趣味のためだけに自由に絵を描くという行為は、ごく近代的なものにすぎません。であれば、私たちがもし過去の社会のことを知りたいと思えば、テレビやラジオの無い時代における最大のメディアだった絵画にあたる必要があるのは当然ですね。


 絵にこめられたメッセージを読みとってはじめて、私たちはその絵が描かれた当時の人々の考え方を理解することができます。つまり美術史とは、美術作品を介して「人間を知る」ことを最終的な目的としており、その作業はひいては「自分自身のことを知る」ことにいつかはつながるでしょう。だからこそ、美術史は哲学の側面を有しています。そのため、たとえば私は勤務している大学で哲学科に所属しています。もちろん、美術”史”というからには歴史学の一部でもあるため、大学によっては史学科に美術史教員が所属しているところも多いです。

 絵画にこめられたメッセージを読みとるための「お約束」を学ぶというのが前著のコンセプトだったのですが、この「実践編」では、もう少し奥深いところの「やや研究者寄りの絵の観かた」が紹介されています。
 僕たちは、有名な作品を写真や画像で観て、「知っている」ような気分になってしまいがちなのですが、写真やテレビが無い時代の芸術家たちは「その場で作品が鑑賞されること」だけを意識すればよかったのです。

 本作品では、作品のど真ん中の真下に視点位置が設定されています。視点位置を示すため、床の中央には真鍮製の円盤が嵌め込まれています。この作品の遠近法が完成するためには、鑑賞者にその円盤の上に立ってもらう必要があります。
 そのかわり、いったん視点位置を外れると、途端に作品の絵画空間は歪みはじめます。この歪みは視点位置から遠ざかるほど強くなり、身廊の端で最大となります。神殿はグニャグニャと曲がり、人体もひきのばされ、まったく変化しない実際の建築構造との境目も判別しやすくなります。
 実際には、鑑賞者はまず正面扉から教会堂に入るので、最初に歪んだ状態を目にします。それから中央に進むにつれて神殿構造が建ち上がり、中央で壮大なイリュージョンができあがります。その過程における驚きも本作品を鑑賞する際の美的体験の一部であり、本作品はつまり、歪んだ状態もその美的側面の一部として機能していると言えるのです。

 この新書の冒頭で紹介されている「サンティーニャツィオ教会の天井画」の魅力を読むと、なんのかんの言っても、現地で「体験」しないと、作品というのはわからないところがあるのだな、と考えさせられます。
 歪んでいる状態から、視点位置に近づくにつれて、作品が整っていく経過や、その場で天井を見上げたときの「奥行」は、写真では再現できないのです。


 この新書のなかでは、何度も「アートとは何か?」についての問いかけがなされています。

「ある名画は、人類が滅亡後にもまだ名画であり続けるか」
 ここまで読んでこられた方には、比較的答えやすい問題に感じられるかもしれません。
「名画」を「かわいらしい一輪の花」などに置き換えても同じです。思考実験には「これだけが正解」というものはありませんが、それでも、ある作品を名画だと判断するのは人間だけなので、人類がいなくなればそう判断する人自体いなくなってしまいます。しかし、名画は物理的になんら変化せずにそこに存在し続けていることもまた真実なのです。よって私たちの美術史の立場では、「物理的にはそのままであり続けるが、精神的には名画と判断する主体を失う」という回答が最もふさわしいものと言えるでしょう。
 結局、美術作品は、それを生み出し、かつ享受する社会があってはじめて成立するものであり、こうした社会性を抜きにしての美術史もまた成立しえないのです。ある作品が生まれたのは、社会的にもそう要請されたからであり、また同地域で同時代を生きた芸術家たちが、色使いや主題選択などにおいて似た傾向を示すのは、とりわけ社会によってそう望まれたからと言うことができます。

 どんな芸術作品にも、生まれた背景や理由がある。
 それを読み解くのも、愉しみかたのひとつ、ということなんですね。
 でも、僕はつい、「人類滅亡後に静かに飾られ続けている『モナリザ』」とかを想像してしまって、それはそれでなんか良いなあ、なんて考えてみたりもするのですけど。
 「意味はよくわからないけれども、なんだかすごい」という感覚でアートに接するほうが、「解釈する」よりも幸せなのではないか、と思うこともありますし。
 

 また、絵画の「修復」についての議論も、非常に興味深いものでした。

 美術史的には、ほぼ同様の文脈における論議の的となった作品があります。イタリア中部の都市ルッカの、サン・マルティーノ大聖堂に残る<ヴォルト・サント>です。「聖なる顔」という意味で、<聖十字架>の名でも知られています。
 この作品については、キリストの磔刑に立ち会ったとされるニコデモ本人が彫ったという伝説があります。後に地中海東沿岸部からイタリア人司教のグァルフレードによってイタリアへと運ばれたのですが、ラ・スぺツィアの海岸で船が座礁してしまいます。その時、ルー二とルッカのふたつの都市の間で所有権が争われ、十字架を載せた牛がどちらへ進むかによって決めることになります。はたして牛が向かったのはルッカの方向だったために、この作品は今日でもルッカにあるというわけです。といっても、伝説が伝えるような一世紀の作品ではなく、様式的には八世紀頃のビザンティン以東地域の作品を、十二世紀頃に模倣した作品だと考えられています。
<ヴォルト・サント>にも修復がおこなわれました。図版はその前とその後の写真です(注:本にはそれぞれの写真が掲載されています)。一見して明らかなように、修復前には本作品は金細工によるきらびやかな王冠やドレス、サンダルなどで飾られていました。しかしそれらは後世に加えられたものだったので、修復の際にすべて取り外されたのです。
 しかし、同じ大聖堂内の、サンタゴスティーノ礼拝堂に残された壁画を見てみましょう。このフレスコ画はアミーコ・アスペルティーニに帰属されており、個人様式に基づく年代特定により、1508年から1509年にかけての作品だと考えられています。ジョルジュ・ヴァザーリの『美術家列伝』でも言及されているように、昔からよく知られた作品です。
 注目すべきは、伝説にあるように牛の背中にくくりつけられた<ヴォルト・サント>が、修復前と同じ、派手な装飾品を付けている点です。これら装飾品が、はやくも十六世紀初頭には<ヴォルト・サント>に付けられていたことがわかります。よって、カマッジョーレの磔刑像と同様に、ルッカの<ヴォルト・サント>も、飾りが無かった当初の姿ではなく、派手な装飾付の姿でそのほとんどの時間を過ごしてきたわけです。アスペルティーニの作品だけではありません。その後、この木像が他の絵画に引用された場合には、必ず王冠や上履きをつけた形で描かれています。多くの絵画に描かれているほどですから、<ヴォルト・サント>といえば、装飾付の姿を誰もが思い浮かべていたはずです。
<ヴォルト・サント>の問題は、修復の基本書である『修復の理論』を著したチェーザレ・ブランディによって、後世加えられたサンダルや王冠こそが時間経過の中で形成された図像伝統となったと指摘され、議論をよびました。ブランディは同書の中で、同作品の歴史的重要性は、持物や装飾品によってこそ長い間裏付けられていたため、それらを撤去することで歴史的推移をすべてキャンセルしリセットをかけるような行為には正当性を見出せないと主張しています。こうした論争を受けて、ブランディの主張後、<ヴォルト・サント>はいったん装飾付の姿で展示されていました。しかし現在、通常は装飾を排した姿で展示され、装飾品は美術館に納められています。この問題に関しては、いまだに誰も最適解を見いだせないでいるのです。

 「修復」といえば「元の姿」=「その作品が完成したときの状態」に戻すこと、だと僕も思っていました。
 後世の人がつけた「余計な装飾品」や「上塗り」は、そぎ落とさなければならない、と。
 日本では、仏像についても「作られた状態を基本として、錆びたり色がくすんできるのも『味』なのだ」と考える人が多いのです。
 それに対して、外国では、ピカピカに塗りなおされている仏像や、極彩色の仏像に、面食らってしまうことがあります。
 ただ、それは「今なお信仰の対象であり続けているから、新鮮な姿にしておく」ということだったりもするのです。
 「美術品」としてみるのならば「つくられたままの姿」がいちばん良いのかもしれないけれども、「実用品」としてみれば、リニューアルしたほうが、見栄えがよくなる。


 この<ヴォルト・サント>についても、装飾された状態で、長期間多くの人に愛されてきたものです。
 歴史的にみれば、装飾されている状態と、されていない状態、どちらが「本物」と言うべきなのでしょうか?
 やはり、製作者が完成させた姿を尊重すべきなのか、それとも、長年、人々が眺めてきたものを重視すべきなのか?
 こういうのは、本当に難しいですね。
 2012年に、スペインの教会で、80代の女性によって「酷すぎる修復が行われたキリスト像」が話題になりましたが、あの話にしても、たとえば「あの女性が神の啓示を受けた」というような「物語」が付加されれば、修復(?)後のほうが「本来の姿」だと考える人もいるはずです。
 ちなみに、あのキリスト像、メディアで話題になり、かなりの人が観に訪れ、復元反対運動なども起こったそうです。
 そこに「歴史」があるために、「修復の基準」を決めることすら、難しくなってしまう。
 その一方で、失われてしまう危険性と隣り合わせだからこそ、アートというのは、魅力を増すのですよね。


 美術館に行くのは好きなのだけれど、絵画をどう観たらいいのか、よくわからない。
 そんな人に、オススメです。
 やっぱり「実物」を観たいなあ、って思いますよね、これを読むと。
 

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