琥珀色の戯言

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【読書感想】心を揺さぶる語り方―人間国宝に話術を学ぶ ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
「和」の心、「思いやり」としての話術―。著者は講談界初の人間国宝。寄席の世界でも、故・柳家小さん師、桂米朝師についで三人目という伝統話芸の達人。聴衆を語りの世界に引き込んで、笑わせ、泣かせ、感動させる。その心を揺さぶる語りの極意とは?人が人に向けて話をする中で、大切なことは何か?長年の修業により培った確かな技と心を、一般向けに分かりやすく伝授する。


 重要無形文化財保持者(人間国宝)の講談師・一龍斎貞水さんが「話術」について語った本。
 僕が講談に接したのは、小学生の頃に『花王名人劇場』で相撲についての話(雷電という相撲取りの話だったと思います)を聞いたのがはじめてで、「人が話している、しかも落語みたいに笑えるわけでもないのに、けっこう面白いものなんだなあ」と感心した記憶があります。
 とはいえ、それ以降、あまり講談に接する機会もなく、過ごしてきたのです。
 一龍斎貞水さんも、テレビやラジオで、少なくとも一度や二度は観るか聴くかしたのではないかと思うのですが、名前を聞いて「あの人」と顔が浮かんでくることもなく。
 

 「話すのが苦手、とくに、人前で話すのは勘弁してほしい」という僕にとっては、この「人間国宝の『語り』の技術」というのは、たいへん興味深いものでした。

 この本も、すごくリズムを大切にした、「語り」調の文章で、読んでいて心地よいですし。

 これを読んでいて考えさせられたのは、「人前でうまく話す」のを意識する際に、僕などは、どうしても「自分がどう喋るか、どこで抑揚をつけたり、どんなエピソードを入れるか」というような「自分がどうふるまうか」ばかりにこだわってしまっていたな、ということでした。

 講談もそうなんです。寄席の話芸は、高座の上からお客様に向けて、演者が一方的にしゃべっているように思われるかもしれませんが、決してそうじゃありません。
 言葉と言葉のキャッチボール。コミュニケーションというものが基本にあります
 口からの声としては出ていなくても、お客様は心の中でいろいろなことを思っています。
 「今のところ面白かったな。もう少しこの調子で続けてほしい」「ちょっと疲れてきたな」「ここらへんで少し変化がほしい」「今のところ分かりにくかったぞ」……。
 心の中で思っていることは、表情や態度に出ます。目つきが変わったり、口元がゆるんだり、体を動かしたりする。そういう変化を、見るというより、肌で感じ取って、話し方や話の内容を変えていく。そういう要素が、我々の話芸にはあるんです。
 たとえば、『荒木又右衛門』の一席を申しあげるのでも、決まりきった台本があるわけじゃありません。一応の筋は頭の中にありますが、それをお客様次第でいくらでも変えていく。
 チャンバラのところが面白いというお客様が多ければ、それを多めに入れますし、人情話に心を動かされる人が多ければ、その要素を膨らませる。江戸の言葉や武士の作法が知りたい、分かりにくいというお客様が多ければ、その講釈を多めに入れます。
 結果として、同じ『荒木又右衛門』でも、お客様が違えば、中身は随分違ったものになります。
 逆の言い方をすれば、お客様につくっていただいている部分が相当あるんです。


 「よくあんなに長い話を覚えられるな」
 そんなことばかり考えてしまうのですが、講談師や落語家は、覚えたことをただ語るだけではなく、語りながら、現場での観客の反応をみて、臨機応変に対応しているのです。
 これって、すごいことですよね。
 事前に「あなたの興味があるのは、チャンバラですか?」とアンケートをとっているわけではなく、語っている際の身体の反応、しかも、相手はひとりではなく、「全体の空気」みたいなものを読み取っていかなければならない。
 一龍斎貞水さんは、「話芸というのは、コミュニケーションなのだ」と仰っています。
 自分にとって良いパフォーマンスをするだけではなく、相手が求めているものを理解してこそ、「いい話」ができる。
 まあ、そんな離れ業をやってのけるからこその「人間国宝」ではあるのでしょうけど、話すときに「相手の反応を意識する」のは、すごく大事なことなのです。
 もちろん、いきなり「臨機応変に話の内容を変える」のは無理でしょうけど、まずは意識しなければ、変わらない。

 たとえば、前座のくせに名人のようなしゃべり方をする。あるいは、無理やりに今風のしゃべり方をしようとする。そういう講談師が高座に出てくると、途端に場が白けるのが分かります。
 だから我々は、まず「『らしく』しなさい。『ぶる』んじゃないよ」と、必ず言うんです。
 前座は前座えらしくしゃべっているのがいちばんいい。真打ちのようなしゃべり方、名人のようなしゃべり方は、本当に真打ちや名人になってからすればいいんです。
 ところがみんな、らしくないでぶろうとする。入門してまだ三年も経たないような若い講談師が、ちょっと天狗になった途端、天下の大名人になったかのように滔々とやり出す。
 そうすると、昔っからのお客様なんかはよく分かってますからね。最初モゾモゾと小声でしゃべっていて、計算してだんだん声を大きくしていっても、「何をやってるんだ、あの馬鹿やろうは」と。席を立って、廊下に出ていっちゃったりなんかして……。
 だから、そういうのがいちばんダメなんだということを叩き込まれるところから、我々の修行は始まります。まず「『らしく』しなさい。『ぶる』んじゃない」と。


 身の程を知れ、と言われると、反発してしまいそうなのですが、こういうのは、たしかにあるよなあ、と。
 実力がないのは、経験が浅かったり、若ければ、致し方ない。
 それでも、懸命にやっているのが伝わってくれば、拙くても、かえって好感を抱くものです。
 それに対して、内容は伴っていないのに、大物「ぶる」とか、わかっているふりをしているような人は、「なんか感じ悪い」のだよなあ。
 これは僕の心の狭さなのかもしれないけれど、たぶん、多くの人は、僕と同じくらい心が狭いのではないかと思うのです。


 一龍斎貞水さんは、ヨーロッパでも公演をされたのですが、行き先々でスタンディング・オベーションが起こっていたそうです。
 

 私が話をして、それに合わせて字幕をポンと出すという形で芸を披露したんですが、話の内容を十分に理解して評価して下さったのかといえば、そうではなかったと思います。
 
 分かるとしたら、リズム、抑揚、表情、身振り手振り……。そんなことくらいだったんじゃないかと思いますが、それでも、本当に感動して下さっているのが伝わってきました。
 向こうのお客様の心にいちばん響いたのは、まず真剣さだったんじゃないかと思います。うぬぼれて言うわけではありませんが、その一回だけの真剣さではなく、50年間、毎回の高座で、自分なりにお客様と真剣勝負をしてきた。そうして培ってきたものを、今また真剣に披露している。そこに感動して下さったような気がしています。

 内容的には、技術論というよりは、精神論的なものが多いのですが、この人が「語る」と、「またお説教かよ」みたいな気分にはならず、「たしかに、技術よりも人柄、っていうのは、あるかもしれないなあ……」とか、納得してしまうところがあるんですよね。


 僕が人前でうまく話せないのは、「技術」もだけれど「真剣さ」が足りないのかもしれない。
 ラクをして、下準備も十分にせずに、「うまくやろう」というのが、間違いなのだな、と、あらためて考えさせられました。

 一龍斎貞水さんの講談、ぜひ一度は生で聴いてみたいものです。