琥珀色の戯言

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【読書感想】一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
イラク、シリアを進撃中のISISらイスラーム主義勢力は単なる「過激派」「テロリスト」なのか?
彼らの論理、そしてめざしているカリフ制とは何かがわかる、初めての一冊!
ユダヤ教キリスト教イスラーム一神教の謎に迫るスリリングな対談!


ユダヤ教キリスト教イスラームの神は同じ?」
「戒律を重んじるユダヤ教イスラームのコミュニティは驚くほど似ている」
「千年以上にわたって中東ではユダヤ教キリスト教イスラームのルールに則って共存してきた」…
なのにどうして中東の近現代史において「文明の衝突」が生まれているのか?
日本人にはなじみが薄い一神教の基礎知識とそれにまつわる問題と展望を
思想家内田樹氏とイスラーム学者中田考氏がわかりやすく語り合う。
一神教の考え方と謎に迫る対談の決定版!


 内田樹先生と、イスラーム学者・中田考先生の対談本。
 中田考先生は、中東の過激派組織「イスラム国」に北海道大の男子学生が戦闘員として加わろうとしたとされる事件で関係者として名前が挙がり、注目されました。
 この本を読むかぎりでは、「変わった人ではあるけれど、そんなに好戦的ではなさそう」なんですけどね。
 

 この対談本の以前から面識はあったというお二人。
 内容としては、内田先生が中田先生に「イスラームとはどういう宗教で、どんなものの考え方をしているのか」を訊ねる前半部と、中田先生の「カリフ制再興論」を中心とした後半部に分かれます。
 僕が読んだ印象としては、前半部は「イスラームを知る」ための、すごくわかりやすいテキストで、後半部は、まあ、こういうことを考える人もいるんだな、でも、僕には関係ないよな、だったんですよね。
 僕自身、イスラム教徒ではありませんし、その内部のシステムに対してどうこう、というほど深くコミットしてもいませんし。

内田樹まずは中田先生の提唱されている「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」でありますが、これはいったいいかなるものであるのか。
 及ばずながら内田が噛み砕いて申し上げますが、数百年前まで、北アフリカから東南アジアにかけての広大な地域にイスラームという一つの宗教を絆としてつながる共同体が存在しておりました。それが第一次世界大戦オスマントルコ帝国の解体に伴い、ヨーロッパ列強に蚕食され、小国が分立する状態になった。同時に、多くの国々が世俗化し、信仰のかたちも変容していきました。サウジアラビアやイランのように伝統をかたく守り続けている国もあり、トルコのように政教分離して、ヨーロッパ化を目ざしている国もあります。いずれにしても、かつて十何億のムスリムを結びつけていた宗教的な同胞感覚と、互助の精神は衰微してしまった。それを取り戻し、宗教を柱とした有機的な連帯をモロッコからインドネシアまでに広がるイスラーム世界に復活させよう……というのが中田先生のカリフ制再興の構想なのであります。という説明でよろしいでしょうか?


中田考けっこうです。


内田:それにしても、中田先生、なぜ日本でカリフ制について訴えているのか、意味がわからないと言われませんか?


中田:言われます。それはですね。問いが微妙にさかさまでして、日本だからこそ叫んでいるのです。特に中東の国々などはこわもての独裁政権が多いので、うかつに体制を全否定するカリフ制のことなど口走ったら大袈裟ではなく本当に生命が危険です。しかし、日本はイスラームに関しては中立ですから何でも言えるのです。


内田:なるほど。


中田:で、日本をカリフ道の発信地にしようとたくらんでいるわけなのです。


 「日本でなら言える理由」はよくわかるのですが、はたして、これが本当にイスラム教の中枢に影響を与えうるものなのか、と言われると、疑問ではあります。

 
 たぶん、大部分の日本人読者のイスラームへの距離感は、僕と同じくらいだと思うので、中田先生の「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」なんていうのを見ると(これ、僕が適当につくったんじゃなくて、中田先生は本当にこういう主張をされているのです)面食らってしまうと思うのですが、イスラム教徒に改宗している中田先生の体験談には、興味深いものがありました。
 イスラム教徒に接する機会って、僕にはほとんどなかったので。

内田:まずは日本におけるイスラームの歴史と現状について伺うところから始めたいと思います。今日本にムスリムはどのくらいいるのですか。


中田:少ないです。信頼できる統計がないのではっきりしませんが、外国人ムスリムは10万人切っているくらい、日本人は5000人から1万人くらいでしょう。殆どは外国人ムスリムと結婚した女性で、一般の日本人男性で改宗したムスリムは数百人いるかいないかです。


 日本では仏教キリスト教に、そして、いわゆる「新宗教」に比べても、イスラム教に関する情報は少ないので、イスラム教徒との結婚、という理由でもなく「改宗」した日本人男性は、どういう経緯でそうしたのだろう、とは思います。
 でも、5000人から1万人というのは、僕の感覚からすると、けっこういるのだな、と。
 東京に住んでいる人たちには、別の実感があるのかもしれないけれども。

内田:伺っていると、「施しの文化」というのは、「共有する文化」にも近いのかなと思いました。


中田:まったくその通りです。


内田:だいぶ前ですけれど、村上龍がエッセイに書いていた話を覚えています。彼がパリ・ダカールラリーの取材でテレビクルーと一緒にアフリカに行ったんですって。砂漠を旅している時に、ミネラルウォーターのペットボトルにテレビクルーの誰かが自分の名前を書いて置いておいた。そしたら現地人のクルーが「こんなやつと一緒に働けない」とすごく怒ったという。


中田:それは怒ります。先ほども触れましたがイスラーム圏では水は回し飲みですから。


内田:砂漠では水は貴重ですものね。だからこそ私有、占有してはならない。でも、貴重だからこそ独り占めする方が日本人から見ると合理的に思えるわけです。だから、言われた方のクルーは自分のすることがなぜ咎められるのか、意味がわからなかった。自分のものに自分の名前書いて何がいけないの、と。


中田:水だけでなく、分かち合うものは多いです。食事は大きなお皿に盛ってみんなで分けますし。


 こういうのは、どちらが正しいとかいうわけではなくて、「文化の違い」なんですよね。
 このテレビクルーも、別にケチなわけじゃなくて、本当に誰かが「のどが渇いて死にそうな状態」であれば、自分のペットボトルから水をあげると思うのです。
 そもそも、こういう取材ですから、有り余るほどではなくても、ちゃんとみんなが必要とするくらいの水は用意してあったはず。
 にもかかわらず、「独り占めにしようとするようなヤツ」とは一緒にやれない、と考えてしまうのが「文化的背景」なのです。
 こういうのって、「それぞれの分がちゃんとあるから、問題ないだろ」って思いがちなのだけれども。

内田:キリスト教には異端審問というものがありますけれど、イスラームにはそういったものはないのですか? 魔女狩りみたいな。


中田:ありません。異端審問ってのは人の内心に踏み込むものですよね。


内田:はい。


中田:イスラームの場合は、人の内心はわからないと考えるんです。だから干渉しない。イスラームには教義決定機関がそもそもありませんから、キリスト教的意味での正統と異端という概念はありえません。もちろん、さまざまな分派があり、それぞれ自分たちが正しく、他派は間違っていると考えていますが、キリスト教とはかなり違います。


内田:内心はわからない。


中田:わかりません。


内田:健全ですね。


 アメリカ寄り、西欧キリスト教文化寄りでみると、ムスリムというのは「絶対神のためなら、どんな恐ろしいことでもやってしまう、狂信的なところがある人々」のようにイメージされがちなのですが、中田先生の話を読むと、「絶対神がいるからこそ」アバウトなところもあり、他者に対して寛容な面もあるようです。
 イスラム教の過激派を基準にするのは、キリスト教の一部の偏った信者を「ふつうのキリスト教徒」だと思い込むようなものなのです。


 「イスラム教とは、どんな宗教であり、どんな人たちが信仰しているのか」の一端を知ることができる、なかなか興味深い対談でした。
 「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」には、唖然、という感じなんですけどね。

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