琥珀色の戯言

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【読書感想】九年前の祈り ☆☆☆☆


九年前の祈り

九年前の祈り


Kindle版もあります。

九年前の祈り

九年前の祈り

内容(「BOOK」データベースより)
三十五歳になるシングルマザーのさなえは、幼い息子の希敏をつれてこの海辺の小さな集落に戻ってきた。何かのスイッチが入ると引きちぎられたミミズのようにのたうちまわり大騒ぎする息子を持て余しながら、さなえが懐かしく思い出したのは、九年前の「みっちゃん姉」の言葉だった。表題作「九年前の祈り」他、四作を収録。


 第152回芥川賞受賞作。
 『文藝春秋』で表題作を読んだだけなので、それ以外の作品についての感想のみです。
 これを読み始める前に、『文藝春秋』で、著者の小野正嗣さんの「受賞者インタビュー」を読んだんですよね。
 大分の田舎町で、お父さんやお兄さんは肉体労働をしているなか、突然変異的に東大に入って大学院まで進み、フランスに留学もしていた小野さん。
 小野さんは、自分のルーツである、大分の海辺の町をモチーフにしてきており、この作品の背景には、若くして昨年亡くなられたお兄さんの存在があったと仰っています。
 

 陽気さと健康の権化のようなジャック・カローと並んで立ったフレデリックはどこか神経質で気弱に見えた。のちに希敏(けびん)が受け継ぐ大きな目には、メランコリックな光が宿されていた。そういうところに惹かれたのかもしれない。どこにも自分の場所を見つけ出せず、なんとなく周囲に引け目を感じて居心地が悪そうな人をさなえは好きになりがちだった。


「誰かのカッコいいところを見て好きになるのではなく、カッコ悪いところに惹かれてしまう」ことって、無いですか?
 僕自身、これまで、他者のカッコいいところを見ると、コンプレックスを刺激されてしまって自分とは遠く感じてしまい、失敗やカッコ悪いところにシンパシーを感じてしまう人生だったんですよね。
 だから、この主人公には、けっこう共感してしまって。
 うまくいっていると、うまくいっていることそのものに、不安になってしまうこともある。


 この作品を読んでいて感じたのは、「なんだか、久々に読みやすい芥川賞受賞作だな」ということでした。
 文体も、内容も、「普通に読める」のって、けっこう久々ではなかろうか。
 現在と、以前カナダに旅行したときのことが交互に出てきて、時間が行ったり来たりはするのですが、『abさんご』や『道化師の蝶』『穴』などの冒険的な受賞作群に比べると、良くも悪くも「普通の小説」なのです。
 ものすごく変な人も出てこないし、社会問題を積極的に採り上げているわけでもない。
 「おそらく発達障害」という子どもは出てくるのですが、その言葉は作中には出てこず、また、「みっちゃん姉」という人物についても、「ほのめかし」みたいな存在なのです。
 『ゴドーを待ちながら』なのだろうか、これは。


 「何かが起こりそうな予感もなく、何も起こらない小説」なのですが、だからこそ、この小説は美しい。
 ネットなどでは、「天下国家のことを、ついつい訳知り顔で語りたくなってしまう」のですが、その一方で自分の身近なことについては、「ただ、祈るしかない」自分がいて。
 そういうギャップは、僕の中にもあるのです。


 これは僕の勝手な「読み」なのですが、小野さん(著者)は、海辺の田舎町から、突然変異的に生まれた、「東大卒のインテリ」なわけですよ。
 それで、小説家として、故郷のことを作品にしている。
 でも、小野さんの中には「かけがえのない故郷」への愛着と同時に、「故郷の人々にとっては、『郷土の誇り』であるのと同時に『異物』である自分」への複雑な感情があるのではなかろうか。


 この作品の主題は「それでも、世の中には、『祈るしかない』状況もあるのだ」という、無垢な祈り手への共感だと僕は読みました。
 その一方で、「市井の人々の祈り」を、「無垢な、聖なるもの」と認識し、賞賛するというのは、「一段上からみている人間」の感覚ではないか、とも思うのです。
 小野さんは、たぶん、「そういう立場で、故郷と、そこにいる人々を見てしまう自分」のイヤらしさ、みたいなものを自覚していて、それでも、もう「同じ目線」を持つことができないのも知っている。
 もしかしたら、こうやって書くことそのものが、「贖罪」みたいなものなのかもしれません。
 それって、「罪」じゃないんだよね。でも、「故郷に対する反感と後ろめたさ」みたいなものは、そう簡単に消えるものじゃない。
 

 これが「作品への感想」かというと、ちょっと違うかな、と思いますし、そもそも、小野さんの受賞者インタビューを読まなかったら、「中途半端なシングルマザー+発達障害小説」だと切り捨てていたような気もするのですけど。

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