- 作者: 中森明夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/03/14
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
人間のもっとも強い力は「さみしさ」だ。スティーブ・ジョブズ、ウォルト・ディズニー、坂本龍馬、山口百恵や酒井法子…世界を変える偉人やスターは、みんな猛烈なさみしさの持ち主だった。彼らは精神的「飢え」をいかにして生きる力に変えていったのか。自身の喪失体験をもさらけ出して人生の原動力を示した筆者の新境地。さみしくても大丈夫、ではない。さみしいから、大丈夫!なのだ。
「だって、さみしかったんだもの……」
僕はずっと、こんな「浮気した人の言葉」を見るたびに、「何だそれ?」と憤っていたのです。
家庭内暴力とか相手の浮気とか借金とか、そういうものが理由であれば、納得するのにやぶさかではないけれど、こんなの「理由」にはならないではないか、と。
そもそも、いい大人が「寂しい」なんてみっともない。
それでも、おや? と思うことがありました。
四十代も後半にさしかかる頃だったかな。妙にため息をつくことが多くなった。
別段、大した理由があるわけではない。
気がつくと、あ〜あ、とため息をついているんです。
仕事の合間に、ちょっと出かけた折などに、あるいは日常のほんのつかの間、ふとため息をついている。
なんだろう、これは?
心のどこかに隙間のようなものがあって、スースーする。
胸にポッカリと穴があいたようで、気が抜けるというのか、なんだか頼りない感じ。
昨今、大流行らしい「鬱」といった、決してそんな大げさなものじゃない。
ちょっとした虚脱感。欠落感、漠然とした不安のようなもの。
そう形容したほうが近いかもしれない。
ある時、ふと気がつきました。
ああ、俺はもしかして……。
さみしいんじゃないか?
愕然としました。
青天の霹靂と言っていいでしょう。
そんなバカな!
まさか、この俺がさみしいなんて!?
……でも、自分が40歳を過ぎてみると、なんというか、この「どこにも行き場がないような感じ」って、わかるような気がしてきたんですよね。
中森さんは、やや自虐的に「客観的には、妻も子供もおらず、結婚も同棲もしたことがない50代の独り者なんて、さみしくて当然です。自分自身では、普段はまったくそんなこと意識しないけれど」と仰っています。
でも、そういうのって、「客観的にみた状況」とは、また別物なのかもしれません。
僕は40代で、家族はいるし、浮気しているわけでもない。子供もかわいい。
僕が「さみしい」のは、おかしい。
にもかかわらず、そういう感情がわき上がってくることが、あるのです。
「さみしさ」って、怖い。
生きるっていうのは、「めんどくさい」「さみしい」との終わりなき葛藤なのではないか、そんなことも考えてしまいます。
死んでしまえば、めんどくさくも、さみしくもなくなるんだろうけど。
この新書、「寂しさの力」というタイトルですが、半分くらいは中森明夫さんの自伝です。
パーティーが始まり、家族ごとにテーブル席に着いて、司会者が名前を呼ぶと、一家が立ち上がります。
「中森ライオン!」
すると家長が高々と両手を挙げて「ウォーーーッ!」とライオンの雄叫びを上げる。その瞬間、会場中が拍手です。
お笑い草でした。
ライオンズクラブの制帽をかぶって、高々と両手を挙げて、得意満面で「ウォーーーッ!」と雄叫びを上げる田舎の中年男――それが幼い日の私の脳裏に焼きついた”成功者としての父”でした。
中森さんのお父さんが「ライオンズクラブ」で活動している姿の描写などは、僕にとっても、自分の父親の姿をみているようで、胸の奥がキリキリしました。
僕の父親もやっていたんですよ、ライオンズクラブ。
最初は「西武ライオンズのファンクラブなのか?」と思い込んでいました。
なんで父親はあんな「これみよがしに、自分を大きくみせるような活動」をやっていたのだろう?
ああ、でも、僕も今はなんとなくわかる。
あれはあれで、父親なりの「さみしさ」への抵抗だったような気がするのです。
僕がこうしてブログを書くのも「さみしさ」から、なのかもしれない。というか、たぶんそうだ。
中森さんは、ウォルト・ディズニーやスティーブ・ジョブズの例をあげておられますが、たしかに「さみしさ」は、人に何かをさせようとします。
それは、「偉業」になったり、「迷惑行為」になったり、「あの人はなんであんなことをやるのかわからない、とるに足りないこと」になったりするのだけれど。
アイドル評論家、ベストセラー作家というような「陽」の部分しか知らなかった中森さんの「陰」の部分を知ると、「だからこそ、アイドルに惹かれていったのかな」などと考えてしまいます。
中森さん自身が対話してきたアイドルの話も紹介されていて、読んでいると、「そんな一面があったのか」と、せつない気分にもなるんですよね。
強烈な陽射しは、濃い影をともなう。
酒井法子さんについて、サンミュージックの相澤秀禎会長・正久社長に取材したときの話は、この新書のなかでも、とくに印象的でした。
複雑な家庭に育った者が芸能人になる――酒井法子こそその代表と言っていいでしょう。
デビュー当時、私が接した笑顔の少女にふいに射した暗い影。その由縁が彼女の生い立ちを知って、ようやくわかったような気がしました。
「中森さん、実は法子のことで一つ不思議なことがあるんですよ」
相澤秀禎会長が身を乗り出します。
「あの子は幼い頃に母親に捨てられ、里子に出された。二人の継母を転々とした。父親はヤクザだったという。相当につらかったと思うんです。でも、そのつらさをまったく出さない。自分を捨てた母親も、父親のことも、絶対に悪く言わないんです」
正久社長がそれを受けます。
「あの子は人の悪口を言わない……いや、言えないんですよ」
――一度もですか?
「ええ、法子が誰かの悪口を言うのを聞いたことがない」
初めて耳にする話でした。
「僕は、法子が中学・高校の時に彼女の家庭教師までやったぐらいですから、あの子のことはよくわかっているつもりです」
正久氏は続けます。
「彼女は自分が生きていくためには、まず”いい子”に見られなければならない、と非常に深く思っているんですよ。常に目の前の相手を気にして、その人に気に入られるように全力でがんばるというか」
――つまり、それは”いい子”を演じるわけですか?
「いや、演じるんじゃない。その……本能的にというか」
本能的? 私は耳を疑いました。すると、それはなんと悲しい……いや、さみしい”本能”なんでしょう。
周囲や目の前の相手に気に入られなければ、生きてはいけない――そんな幼い日の彼女の苛酷な環境が目に浮かびます。
酒井法子さんは、「ファンやスタッフの受けも、すごくよかった」そうです。
僕は、「アイドルなんて、表ではあんなふうにニコニコしているけれど、楽屋ではタバコをふかし、マネージャーにジュースとか買いにいかせ、気持ち悪いファンを罵倒しているんだろうなあ」と思い込んでいました。
それはそれで「偏見」ではあるんですけどね。
酒井法子さんに関しては、アイドル時代、「なんだかつくりものっぽい感じ」を持っていました。
でも、この話を読むと、そんなふうに”いい子”を続けてきたというのは、それはそれで大変だったのだろうな、と。
本人にとっては、それが「自然なこと」になっていたのかもしれませんが。
そんなふうに”いい子”をずっと演じてきたはずなのに、あんな事件を起こしてしまったのはなぜなのか?
相澤会長・社長との会話のなかから、中森さんは、ある考察をしています。
それは、僕にも納得できるものではあったけれど、もし、本当にそうだとするならば、酒井法子さん自身にとっての「人生」とは、いったい、何なのだろうか?
(その内容について興味がある方は、この新書を手にとってみてください)
また、1991年、松任谷由実さんの全盛期に行ったインタビューでの、こんなやりとりも紹介されています。
「私の歌が売れなくなるとしたら、まあたとえば株価が暴落する時、日本経済がダメになる頃かもしれないわね」
冗談っぽくそう言うと、ユーミンは笑いました。時あたかも、それは爛熟したバブル経済が今にもはじけようとするその頃でしたが……。
「スターの条件って何だと思いますか?」
私が問うと、ふいにユーミンの笑いが止んだ。どこか遠くを見るような表情です。
「そうね……孤独だってことかした。ほら、人気ってのは人の気なのよ。孤独がきっとそれを引きつけるのよね」
そう口にした時、実にさみしそうでした。そう、彼女自身が。
ああ、この人は孤独なんだ。だから、スターだ。だからこそ、人気者なんだな。はっきりとわかりました。
しかし、私はそのくだりをインタビュー原稿から削除しました。なぜでしょう?
自信満々の女王の内にある孤独な少女――その姿を見たようで、これではユーミン神話を傷つけてしまう、そう思ったのかもしれません。
40年以上生きてきて、僕はこんなことを考えるようになりました。
「みんなに同じように優しくしようとすると、結局、誰に対しても優しくしていることにはならない」
万人を愛そう、愛されようと思えば思うほど、人は「孤独」になっていくのかもしれません。
マイケル・ジャクソンさんや高倉健さんの伝記を読むと、「スター」であること、あろうとすることのせつなさを感じずにはいられないのです。
星って、みんなに見えるけれど、誰も手の届かないところにあるものだから。
「さみしさ」は、悪いものじゃない、はず。
さみしいから、人間なのかもしれない。
できれば、その「寂しさの力」を、他人の迷惑にならないように、使いたいものです。
そんなに簡単に、できることじゃないのだろうけど。