琥珀色の戯言

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【読書感想】学習院 ☆☆☆☆


学習院 (文春新書)

学習院 (文春新書)


Kindle版もあります。

学習院 (文春新書)

学習院 (文春新書)

内容紹介
日本近代の変化と歩みは、「学習院」という学校の変遷と密接に関わっている。
そもそも華族の学校として誕生した学習院だが、しだいに非華族の学生・生徒が増え、さらには軍人養成学校の色彩を帯びてくる。東條英機もその一人だ。
一方で、主立った皇族もここで学ぶが、皇太子時代の今上陛下が学習院を卒業していないのは、意外と知られていない。公務多忙のため単位不足だったからだが、卒業扱いにしようとする院内の風潮に真っ向から反対したのは、あの清水幾太郎だった。
吉田茂三島由紀夫近衛文麿志賀直哉朝吹登水子など、学習院に縁の深い、皇族・華族・軍人・文化人の逸話にも触れる歴史読物。


 「学習院」といえば「皇室御用達」というイメージが僕には強かったのです。
 「良家の子女」でないと、入ってはいけない、そんな感じ。
 最近では、秋篠宮佳子さまがやめてしまった大学、というようなことを、つい考えてしまうのですが。


 この新書を読んでいくと、学習院に通っていたのは、創設時から華族だけではなかったそうです。
 学習院は「華族明治維新時に爵位を授けられた、皇室や公家、大名家などの人々)のための教育」を担う学校として、明治10年(1877年)に設立されたのですが、

 実は華族の学校であるはずの学習院には、開校当時からかなりの数の非華族の生徒が在籍した。明治10年12月現在の数だけをあげると、男子、女子中学には非華族はいないが、男子小学は120名の生徒中35名、女子小学は56名中15名が非華族である。そして彼らは当初は1ヵ月50銭、のちには1円の授業料を払うように決められていた。全部ではないとはいえ学校運営費を負担しているのは華族たちである。非華族も授業料タダというわけにはいかない。

 ただ、この非華族の授業料も当時の水準としては、安いほうだったとのことです。
 学校側は、華族出身者に限定してしまうよりも、外部からの刺激があったほうが、競争によって学生の能力が高まるのではないかと考えて、積極的に「非華族」を入学させていたのです。
 「非華族」とはいっても、役人や実業家などの社会的地位や財産を持っている家の子弟たちではあったのですが、それでも、「華族組」との心理的障壁みたいなものについて述べている卒業生もいます。


 これを読んでいて意外だったのは、「お坊ちゃん、お嬢さまの学校」というイメージがある学習院は、その歴史のなかで、長い期間「軍人になることが推奨されていた学校だった」ということでした。
 明治時代の「国民皆兵」がはじまった時代には、華族たちは「ノブレス・オブリージュ」として、軍務に就いて国民の規範となるべきだ、と考えられていたのです。
 実際のところは、軍人として活躍した人もいる一方で、軍務には興味が持てなかった人も多かったようですけど。
 三島由紀夫さんや吉村昭さん、有島武郎さんなどの作家のほうが、僕にとっての「学習院出身者」のイメージに近いんですよね。
 また、女性の教育についても、当時としてはかなり積極的だったのです。
 ただし、最初の頃の学習院は、途中で別の学校に進学したり、女性の場合は結婚の時期がいまよりずっと早かったりしたこともあり、中退者がかなりたくさんいました。


 この新書のなかでは、「華族の教育のための学校」であることと、「だからこそ、硬派でなければならない」という学習院の葛藤の歴史が描かれています。
 戦前の学習院の院長には軍人出身者が多く、乃木希典さんも、日露戦争後に「英雄」として院長に就任されています。
 「生真面目な軍人」だった乃木さんは、教育者としてはまったくの素人で、良家の子女の学校として、比較的自由な校風だった学習院で「うまくやっていく」のは、なかなか大変だったと思われます。
 「乃木流」を浸透させるために、こんなことまでやっていたのだとか。

 乃木は生徒たちに生きた豚を殺すようなこともさせた。剣道の寒稽古がおわったあとに連れてこられた一頭の豚に、初等科の幼い生徒にまで日本刀で斬りつけるように命じたのである。かわいそうな豚は、非力な生徒たちが何度も振り下ろす刀でズタズタにされ、絶命したあとは豚汁となった。斬らされた初等科生の一人は、「彼の時の院長の温顔、今も猶、歴々として眼前に見るが如し」と回想しているが(『乃木院長記念録』)、この話を三太夫や御付女中が子供たちから聞いたら卒倒したに違いない。


 クラスで豚を飼育し、「いのちの教育」を行おうとした先生の話が最近もありましたが、この乃木将軍の話、いま読むと「ひどいなあ」という感じがします。とはいえ、ここに記されている乃木さんの表情からすると、そういうのが「度胸をつける」ことであり、教育的な効果があると考えられていた時代もあったのでしょう。
 非力な生徒に斬られると、なかなか致命傷にはならないでしょうから、豚は苦しかったでしょうね……

 
 この本を読んでいていちばん驚いたのは、今上天皇学習院大学を「中退」されたということでした。

 今上天皇(以下、明仁親王、あるいは皇太子とする)は、進学した学習院大学を卒業することができなかった。父昭和天皇、祖父大正天皇学習院を中退しているが、それはとくに設けられた「御学問所」などで帝王学を修めるためであった。しかし、明仁親王はそうではなかった。取得単位が不足しているとの理由で、中退を余儀なくされたのである。
 明仁親王が高等科から学習院大学政経学部に進学したのは昭和27年4月。そして教養課程1年を終えた28年3月、天皇の名代としてエリザベス二世の戴冠式に参列するため米国を経由して英国に渡った。戴冠式は6月2日におこなわれ、親王はさらに欧州各国を回って10月に帰国したが、親王の不在中に、教授たちの間から、「皇太子は3年に進級できない」という声が上がったのだ。
 学生が教養課程二年間で取らなければならない単位は最少でも52だが、親王は一年生のときに約20単位しか取得していない。となると、帰国してからの短い期間で30単位以上を取ることが必要だが、それはとうてい不可能で、したがって3年には進級させるわけにはいかない――これが教授たちの主張だった。
 無論、親王の半年以上の外遊、休学が単位不足をもたらすことは、安倍(当時の学習院院長)たちにも分かっていた。しかし、天皇の名代としての戴冠式参列はいわば「公務」である。さらに親王には普通の授業以外に、単独での講義もおこなわれていた。それも合わせれば何とかなるというのが、安倍たちの判断だった。ところが、一部の教授や学生たちは、いかなる理由があるにせよ皇太子だけを特別扱いするのはおかしいと、それに強硬に反対した。そこには、もはや学習院は昔の学習院ではないはずだという思いがあったのはいうまでもない。


 さまざまな議論がなされたのち、「特例」は認められず、明仁親王は2年で中退し、以後、聴講生として学ぶこととなりました。
 ちなみに「卒業式には卒業生ではなく来賓として参列し、壇上から祝辞も述べた」そうです。
 いまの僕の価値観からすれば、「サボっていて単位を取れなかったわけじゃない、というか、日本を代表しての公務だったのだから、そのくらい融通をきかせても良いのでは?」なのですが、太平洋戦争で負けたあとの日本の皇室に対する空気をうかがわせる話ではあります。
 同時に、その時代の大学関係者の矜持も伝わってきて、結局、どうするべきだったのかな、と考え込んでしまいます。
 まあ、今上天皇への、現在の国民の気持ちが、過去に学習院大学を中退したことで変わることもないでしょう。
 秋篠宮佳子さまの学習院大学中退に、僕は驚いてしまったのですが、こういう歴史をみると、そんなに大げさに考えなくて良いことなのかもしれません。
 
 皇室関係者が学習院に通って、そのまま卒業するのが一般的になったのは、むしろ、太平洋戦争後からとのことだそうですし。
 近年は「皇族の学習院離れ」が多くみられるようになり、若い皇族が学習院大学以外に進学するのは、けっして珍しいことではなくなっているのです。

 そしてこのような変化をもっとも象徴する出来事が、秋篠宮家の悠仁親王学習院幼稚園ではなくお茶の水女子大学附属幼稚園に入園し、そのまま同大附属小学校に進学したことだったのはいうまでもないだろう。現行の皇室典範が維持され、将来にわたって男性しか天皇となることが認められないとしたら、悠仁親王は数十年後にはかならず皇位に就く。そういう立場にある皇族から学習院がいわば「袖にされた」ことに、意外の念をもらす学習院関係者もいたという。しかし、それが公然たる不満の声となることはなかった。

 学習院としては、秋篠宮佳子さまが中退し、国際基督教大学に行ってしまわれたことよりも、悠仁親王お茶の水大学附属幼稚園を選んだことのほうが、深刻な問題だったのではないかと思われます。
 「皇室向け」であったはずの学習院は、いま、大きな転機を迎えているのです。
 

 「自分には縁のない世界のこと」だからこそ、興味も出てくる「学習院」。
 いまの時代なら、行こうと思えば、それなりの学力があれば行ける学校なんですけどね。

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