琥珀色の戯言

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【読書感想】未闘病記 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
2013年2月、突然の高熱と激痛に襲われた作家は膠原病の一種、混合性結合組織病と診断される。不治、希少、専門医にも予測が難しいその病状…劇薬の副作用、周囲からの誤解、深まる孤立感。だが長年苦しんできたこの「持病」ゆえの、生き難さは創作の源だった。それと知らぬままに病と「同行二人」で生き、書き続けた半生をここに―。芥川賞作家のアラ還“教授”と15歳猫の静かな日常、猫は闘病中そして飼い主は難病と判明!!!あとがき「去年は満開の桜を静かに見ていた」書下ろし収録。


うーむ、すごいなこれ……
芥川賞作家・笙野頼子さんの「混合性結合組織病」闘病記なのですが、なんというか、生半端な同情とか哀れみみたいなものは要らん!というような、圧倒的な迫力がある本です。
僕は笙野さんの熱心な読者ではないので、「この人、なんかすごいな……」と、ただただ圧倒されるばかりだったのですが、ファンにとっては、たまらないというか、目が離せない作家なのだろうなあ、笙野さんって。

 二十五歳で、ダブル村上と呼ばれた人々のすぐ後に同じ群像新人賞を得て、著書なしのまま、九年越えた私。「なにもしてない」を群像に発表した時は三十五歳にもなってしまっていた。ただ、佳作ではあるが書き続けていた。そんな十年の間に私の頭を踏んづけて百人近い新人がデビューしすぐ本を出し、先に進んでいった。私は本が出る前に作家論が出て、その後も単著なし、だが新聞の時評も菅野昭正氏はじめ、たまに発表する作品を採り上げてくれた。何ら広告も出ない作家のものを批評してくれたのだ。
 十年目を前に、有り難い親の仕送りをついに断った時、実はあてがなかった。元々働くことはむしろ反対されていた。母が凄い性描写のある流行作家を読まずにまねしろと言ったとき死のうと思ったけれど死に切れなかった。「才能もないのに風呂付きの部屋に住んで」といわれたと言って母は具合悪くなり電話口で泣いていた。言った叔母の事を殺すかわりに小説に小説に書いた。その小説は文芸誌に載った。叔母は私が芥川賞を取ってから会いたがったが、葬式も行かなかった。
 中途半端に働かれても迷惑だと言われる一方で無論持ち込み積年という暮らしも迷惑に決まっている。


作家の思考の流れが、一気に襲いかかってくるような、そんな気分にすらなる文章。
遠慮するわけでも、虚勢を張るわけでもなく、ただ、自分の「執心」みたいなものがさらけ出されているようにも思われます。
だからといって、ただ、ダラダラととりとめもなく書き散らかしているわけでもなく、文章そのものは、すごく引き締まっているんですよね。
読んでいて、文章そのものの密度と、作者の「思考の強さ」に、思わず背筋を正してしまいました。


この本、一読者として読むと、「人というのは、自分のことを、ここまで細かく観察し、記録できるものなのか」と圧倒されてしまいます。
それが病気の症状だと、「すごいけど、これは、読むのがつらいな……」というのも事実。

 最悪の時、つまり冬の寒い日油断していると、ひとつの指の末節は萎びたブドウとを想起させた。
 冬は早朝にも起きて五時間ごとにユベラを塗った。靴下を脱ぐだけで皮膚は白や紫になり、爪先がちりちりし嫌な痛みが走る。一度一本だけ爪のところまで凹んだことがある。触れると先は爪しか当たらない。指の肉がなんか下に垂れていた。普段でも他の指よりそこは柔らかくて元気がない(中身が少ない?)。
 毛細血管が収縮して真っ白になっている日の足は、昔お葬式のときに触れたドライアイス入りの死体ほど冷たい。「死んじゃ駄目、起きなさい」。「人指し指Pの隠居時代だわ」とふざけてみるがちょっと血の気が引く。冷凍庫の中を素手で掃除した時になるような白さと強張り。でもそれは靴下二枚でもカイロ冷えてきたら起こってしまう。
 最初はパニック、カイロにくるんだ足をストーブに近づけて火傷しそうになった。でも今はそんな失敗しない。というか、何をしても普通でなくなる可能性があるので自己管理の権化になっている。


 医者として読むと、笙野さんのさまざまな描写に「患者さんの日常っていうのは、細かくみていくと、こんなにさまざまな「症状」が起こってきているのだなあ、と、あらためて思い知らされました。
 いわゆる「不定愁訴」として一括処理してしまうような訴え(ひとつひとつ解析していく時間も、現実にはなかなか無いので)も、根気よくほどいていけば、こんなふうに、なんらかの病勢を反映しているのかもしれないな、と。
 ところが、現実的には、そこまで対処するのは、なかなか難しい。
 これだけ医学が広範になり、それぞれのジャンルが深化していくと、「医者といっても、自分の専門外のことは、よくわからない」のも事実ですし。

 同病の方のブログを拝読して思ったのだ、軽症難病の方々が病気を職場に隠さざるを得ないケースのその辛さを、自分が病気と知るまでは理解どころか知りもしなかった。私なんか言いまくりでとうとう作品にしているから自営業は有利っ!? でも、病気と判って一年、外面も動作も普通なのに陰でしんどく、辛い。そして元気な時も劇薬の副作用や先の展開も読めない不安を抱えているしかない。また説明しても、実態は周囲にうまく伝わらないというか、あまりに少ないケースで。
「あり得ないでしょ、そんな? 携帯が重くて持てないなんて、ねえそれに今元気そうだよー、まじー? だいたい、あんたふとったじゃん、えーそんな肥満じゃない? 薬の副作用で、コウシケッショウの、チュウシセイヒマンになる、はー? 急にふらふらすんなようぜー、なにー、十万人に何人のコンゴウセイ? 嘘でしょう、だってこの前はコウゲンビョウって言ってたじゃん、高原で酸素不足のびょうきなんでしょうー、ふふーん、なんかちょこちょこ、言っている病の、名がちがうよ、え? 何それ? 合併症? でもこの前言ってたところと痛い箇所も違うよ、はぁ? 移動する痛み? 演技だろ、そんなの、そもそも、どこが悪いのかはっきりしてよ、内臓、骨、全部? だって、ねえ、どうして治らないの、そもそも原因はなんなのよ、どう見ても病人に見えないわよ、嫌ねえ、別に杖ついてるわけでもないのに」となって。
 そう、そう、そういう、通じないという点では多分、おんなじだ。じゃあ、今後。
 私は難病を隠してこのまま書けばいいのか? いや、それは無理だね。だって世界を身体をつまりは自分の内面宇宙を理解するためのど真ん中の補助線をこうして見つけてしまった以上、私、それを純文学作家笙野頼子、無いことにはできない。


 病気の話というよりは、この「純文学作家・笙野頼子」という人の気概、みたいなものに、とにかく圧倒されてしまいますし、「病気と人間」の関係について、考えさせられる作品でもありました。
 「難病を抱えているひと」として情報処理されてしまいがちな一人の人間のなかには、こんなにたくさんの「語り尽くせない言葉」が詰まっているのです。