琥珀色の戯言

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【読書感想】HHhH (プラハ、1942年) ☆☆☆☆


HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)


Kindle版もあります。

HHhH (プラハ、1942年)

HHhH (プラハ、1942年)

内容紹介
ノーベル賞受賞作家マリオ・バルガス・リョサを驚嘆せしめたゴンクール賞最優秀新人賞受賞作。金髪の野獣と呼ばれたナチのユダヤ人大量虐殺の責任者ハイドリヒと彼の暗殺者である二人の青年をノンフィクション的手法で描き読者を慄然させる傑作。


内容(「BOOK」データベースより)
ユダヤ人大量虐殺の首謀者、金髪の野獣ハイドリヒ。彼を暗殺すべく、二人の青年はプラハに潜入した。ゴンクール賞最優秀新人賞受賞作、リーヴル・ド・ポッシュ読者大賞受賞作。


「第4回(2013年)Twitter文学賞(海外編)」で1位となり、各所で好意的に採り上げられているこの作品なのですが、僕の第一印象としては、「うーむ、なんか小難しそうな本だな、それに、このタイトル、どう読むんだ?『エッチ、エッチ、エッチ、エッチ?』って、どんだけエッチなんだよ!」という感じだったんですよね。
(ちなみに、タイトルの意味は作中で紹介されています。そして、この本の内容は、全然エッチじゃないです)

 
読むの大変そうだな、と思いつつ読み始めたのですが、冒頭から、著者のローラン・ビネさんらしき人が、資料集めの苦労とか、これを書くのに時間がかかりすぎて、彼女と仲違いしているとか、そんな愚痴をこぼしまくってきます。
読んでいて、筒井康隆さんの『筒井順慶』を思い出してしまいました。


こんなに作者が「歴史小説を描く側の事情」みたいなものを饒舌に語るのは、まだ「序章」だからなんだろうな、と思っていたのですが、読んでいくと、作者がところどころに顔を出してくるんですよ。
まるで、「饒舌で露悪主義な司馬遼太郎」のように。
ただし、作者は個々の人物への評価や教訓的なことを述べるのではなくて、「歴史小説って、なんでみんな見てきたような描写、聞いてきたような登場人物の言葉を書くんですかね?」という、創作上の悩みや迷いを書き連ねているのです。

 この場面も、その前の場面も、いかにもそれらしいが、まったくのフィクションだ。ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか! 彼がもっぱらコーヒーしか飲まない男であるかもしれないのにお茶を飲ませたり、コート一着しか着ていなかったかもしれないのに二着重ね着させたり、汽車に乗ったのかもしれないのにバスに乗せたり、朝ではなく、夜に発つ決心をさせたりとか。僕は恥ずかしい。

 下書きの段階では「青の制服にきっちりと身を包んでいる」と僕は書いていた。どういうわけだか、青い色が見えたから。たしかにゲーリングは、写真では明るい青の制服を着ていることが多い。でもその日、青だったかどうかはわからない。白だったかもしれないのだ、たとえば。
 それにまた、この種の細かいことが、この歴史の段階でなお意味を持つのかどうかも、僕にはわからない。


歴史小説好きとしては「あなたの言いたいことはわかるんだけど、それを極限まで突き詰めたら、歴史小説なんて書けないんじゃない?」と首をひねりつつ、ページをめくっていくことになります。


そんなふうに紹介すると、この『HHhH』、「歴史小説を茶化しただけのメタ歴史小説なのか?」と思われるかもしれませんが、読んでいくと、ローラン・ビネさんは、長い時間をかけて徹底式に資料を収集・分析し、取材なども行ったうえで、こういう形式を選択しているのです。
当時の情勢や人物に対しての文章は、きわめて冷静で思索的であり、資料にもとづき、わかっていることは忠実に再現しようとしたうえで、わからないところはわからないとちゃんと書いてあります。
こんなに完璧主義すぎると、何も書けなくなるんじゃないか?と疑問になってしまうのですが、読んでいくうちに、少しずつ感情移入してしまうんですよね。
それも、この物語の主人公であるはずの『ハイドリヒと彼の暗殺者である二人の青年』にではなくて、彼らの姿を見つめ、この作品を書いている「観察者」でしかないはずの、作者に感情移入してしまう。


作品のクライマックス(と言うべきなのか迷いますが)の教会での場面では、時間の経過もグチャグチャになってしまうのです。
これは、なんなんだ?
でもねこの作品をずっと読んできた人なら、「ああ、ローラン・ビネさん、あなたがこんなふうに日付を入れたくなった気持ち、なんかわかるよ。そうだよね、そんなにすぐに終わらせたくないよね」と言いたくなるはずです。


なんというか「歴史小説」というより、「歴史小説家小説」なんですよこれ。
歴史小説的な部分」は、ものすごくしっかりしていますから、作者が饒舌にならなくても、良い歴史小説にはなったと思うのだけれど、結局のところ、ローラン・ビネさんは、そこにとどまるのを、良しとしなかったのです。


字も小さめだし、けっこうなボリュームなのですが、翻訳の上手さと、比較的短い章で区切られているので、「翻訳もの」が苦手な人でも、難解で前衛小説風のタイトルから受けるイメージよりは、ずっと読みやすい作品だと思います。
いちおう、ヒトラーナチスに対する、ある程度の予備知識がある人向けです(というか、「そういう人たちがいて、第二次世界大戦を引き起こし、そのなかで、ユダヤ人の大量虐殺を行った」ということくらい知っていれば、だいじょうぶです)。

 だが、これで終わったわけではない。ヒトラーは、リディツェ村を自分の怒りを解消するための象徴的な見せしめにしようと考えた。ハイドリヒの殺人犯を逮捕し罰することのできない無能な帝国に対する欲求不満は、抑制のきかない全面的なヒステリーを引き起こした。そこで出された命令は、文字どおり、リディツェ村を地図から消し去ってしまうこと。墓地を踏みにじり、果樹園を掘り返し、すべての建物に火をつけ、土地には塩をまいて今後何も生えてこないようにした。村は地獄の熾火と化した。瓦礫を一掃するために何台ものブルドーザーが投入された。どんな痕跡も残さないこと、村がそこにあたことを示すいかなる形跡も消し去ること。
 ヒトラーは帝国に刃向えば、どういう代償を払うことになるかを示そうとして、リディツェを贖罪の生贄にしたのだ。しかし、彼はそこで重大な過ちを犯した。ヒトラーにしても、ナチの幹部にしても、ずいぶん前から節度の感覚を失っていたせいで、見せしめとしてリディツェ村を破壊するという行為が世界的にどんな反響を巻き起こすか、予想することができなかった。それまでのナチも、自分たちの犯罪を必死になって隠そうとはしてこなかったかもしれないが、その気になればこの体制の奥深い本質を大っぴらにしないだけの節度は残されていた。リディツェ村の殲滅によって、ナチス・ドイツの本性を全世界に知らしめることになった。ヒトラーは数日でそのことを理解した。もはや、暴走しているのは親衛隊ではなく、ナチという機構全体がコントロール不能になっている、それが国際世論となった。ソ連の各紙は、今後、世界の人民はリディツェの名を口にして戦うだろうと宣言した。そして、まさにそのとおりになった。

ハイドリヒ暗殺を実行した人たちと、彼らを支援したという理由で虐殺された人たちのことを知ると、「戦争」とか「人間の勇気」とか「支配への抵抗」について、考え込まずにはいられません。
虐殺されたリディツェ村の人たちの大部分は、暗殺者を直接支援したわけでもないのに「見せしめ」にされてしまったのです。
その知らせを聞いた暗殺者たちの心境を思うと、いたたまれなくなります。
自分たちの国を解放するための暗殺だったのに、その国の無実の人たちが、大勢、犠牲になってしまったのだから。
そして、世界というのは、その「何か」が起こった後じゃないと、気づかないんだよね。
被害者たちが、もう、この世界を去ってしまってから、みんなが「彼らの死をムダにするな!」と叫ぶ。


正直、この本の正しい読み方ができているかどうか、僕には自信がないのですが、「少し違った本(そして、面白い本)に挑戦してみたい」という人には、おすすめしてみたい一冊です。