琥珀色の戯言

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【読書感想】ルポ 居所不明児童: 消えた子どもたち ☆☆☆☆


ルポ 居所不明児童: 消えた子どもたち (ちくま新書)

ルポ 居所不明児童: 消えた子どもたち (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
二〇一四年春、北関東で当時一七歳の少年による強盗殺人事件が起きた。少年は一一歳から学校に通えず、一家で各所を転々としながらホームレス生活をつづける「居所不明児童」だった…。虐待、貧困、家庭崩壊などが原因で、ある日突然行方がわからなくなる子どもたち。半世紀のあいだに、累計二万四〇〇〇人もの小中学生が学校や地域から「消えて」いる。なぜ子どもの所在が不明になるのか。どうして行政は無策なのか。子どもを救う有効な手立てはあるのか。社会問題化しつつある「消えた子ども」の実態を追う驚愕のレポート。


 日本は、中学校まで「義務教育」の国です。
 しかしながら、実際には「学校に通っていない子どもたち」が、少なからず存在しているのです。
 学校に所属していながら、実際には行っていないという「不登校」ですらない子どもたち。
 どこにも所属せず、存在すら認識されていない、「消えた」子どもたち。

 突然いなくなった児童の背景に、一家で夜逃げという可能性があることは考えられた。ならば、その子どもは今どうしているのだろう、私は素直な疑問を覚えた。
「いなくなった子どもの行方はわからないんですか」
「ええ、さっぱり。どこでどうしているのかなぁ」
「捜さなくていいんですか。学校で無理なら警察に届けるとか、児童相談所に連絡して調査してもらうとか」
「校長から教育委員会には連絡していると思います。ただ、捜すって言ったって、それはどう考えても無理でしょう。警察や児童相談所に頼むとか、そんな大げさなことはできませんよ。仮に夜逃げとするなら、捜すことでかえって相手は困るでしょうし、親にとっては迷惑な話かもしれません」
 淡々と話す教師が、私はショックだった。元気に通学していた子どもがある日突然いなくなったというのに、学校はまるで捜そうとせず、教師も他人事のようだ。たとえ親が「捜してほしくない」と思っていたとしても、それと子どもの保護とは別の問題ではないのか。
 教師に率直な思いをぶつけたが、相手は困惑した顔で「そんなこと、私個人に言われても困ります」、憮然と話を打ち切った。

 このやりとりを読んで、どう思われたでしょうか?
 子どもに無関心な教師に、失望しましたか?


 僕はどちらかというと、「そんなこと個人に言われても困る」という教師に同情してしまったんですよね。
 「取材者」という立場で、現場の人間の「至らないところ」を責めるのは簡単なことです。
 でも、学校の先生は、このひとりの生徒にだけ構っているわけにはいかないし、警察や行政のような大きな力もない。
 もちろん、子どものことを心配していないわけではないでしょうけど、取材しにきた人の正義感の「捌け口」にされてかわいそうだな、と思いました。
 実際、いずれかの両親からのDVを避けるためにシェルターに入ったとか、借金で夜逃げした、という場合には、「捜されても困る」のは間違いないでしょうし。
 「ちゃんと学校に来ている子ども」あるいは、「不登校の子ども」をケアするだけで目一杯なのに、「行方不明者の所在確認の責任」まで要求するのは、あまりにも酷ではないだろうか。

 各自治体での精査の結果、2014年5月1日時点で2908人いた不明者は、10月30日時点で141人と激減した。当初の不明者から除外された2767人のうち、約4割の子どもが海外に出国したことが判明、残りの約6割は母子保健や児童福祉機関等との情報交換によって居場所が判明している。
 所在不明とされた141人の年齢別の内訳は、就学前(0歳から6歳)が61人、小学生・40人、中学生・27人、義務教育期間を終えた子どもが13人となっている。
 こうした結果を見ると、実際の不明者はそれほど多くない。むしろ「わずか」といった印象を受ける。実際に「所在不明の子どもが大幅に減った」と報じたメディアも少なくなかった。
 むろん多くの子どもの所在確認ができたのは非常に喜ばしいことだが、ここにも落とし穴がある。
 前述した文部科学省の学校基本調査と同様に、厚生労働省の調査でも「住民票が削除された子ども」は対象になっていない。つまり、「住所不定」になり、教育や医療、福祉から遠ざけられた子どもについては、なんら実態把握されていないのだ。

 この結果については、「国や役所が本気になりさえすれば、こんなに『所在不明者』は少なくなるのか……」という驚きと、それなら、なぜいままでそれを放置していたのか、という疑問を感じます。
 でも、「本当に大きな問題を抱えている子ども」については、把握のしようがない、というのが現実なのです。
 それこそ、全国民にGPSでも埋め込まないかぎり、難しいかもしれません。


 この新書を読んでいて、僕は「無力感」におそわれてしまいました。
 困窮した状況の子どもに対して、学校、そして行政も指をくわえて放置しているわけではないのです。
 むしろ、「親がいない、あるいは、親が養育することを完全に放棄してしまっている場合」のほうが、動きやすいのではないか、とも感じます。


 著者は、この新書の前半で、「亮太(仮名)」という17歳の少年が祖父母を殺害した事件の経緯について詳述しています。

参考リンク:祖父母殺害の少年に懲役15年―ネグレクト母親から「殺してでもカネ借りてこい」(J-CASTテレビウォッチ)


 僕もこのニュースは観た記憶があったのですが、「17歳にもなって、こんなことをする子どももひどいけど、『殺してでもカネ借りてこい』なんていう親って何だよ」とちょっと憤ったあと、すっかり忘れてしまっていました。
 まあ、僕に何かできるというわけでもないしなあ、って。


 にもかかわらず、この本で、17歳の少年が犯行に至るまでの経緯を追っていくと、涙が止まらなくなってしまって。

 亮太の話に戻ろう。W町に住民登録を残したまま、2008年早々、一家は再びF市へと舞い戻った。W町の旅館ではろくに働きもせず、夜逃げ同然だった母親と達男(母親の交際相手)にはむろんカネがない。せめてF市に住民票を移動くらいのことをしていれば、なんらかの公的支援に結びついたかもしれない。
 だが、二人は自らの責任で生活を立て直そうとはせず、亮太に「金策」を命じた。
「母と達男さんがストーリーを作るんです。たとえば親戚のおばさんに電車代を貸してほしいと頼むとか、お小遣いをくれるようお願いするとか、そういうストーリーができたら、実行役は僕なんです。おカネを貸してと頼むのはおとなより子どものほうがいいから、おまえがやれと。本当に数えきれないくらい何回も、親戚のところにおカネを借りに行かされました」
 亮太の言葉を裏づける証言は、裁判の中でも繰り返し出ている。たとえば証人出廷した父方の親戚は、「亮太に頼まれ、300回くらいはおカネを振り込みました。総額にして4、500万円になります」と語っている。

 とはいえ、嘘で固めた無心が重なれば親戚のほうも不信を募らせる。金策がうまくいかないと達男は亮太を殴り、足蹴にした。
 母親は「(相手を)殺してでもカネを借りて来い」と罵倒する。「おまえは働けないんだから、人を騙してカネを持ってくるしかないよ」と、どれほど罵られたかわからない。
 二人の虐待は恐ろしかった。それでも亮太は、誰かに「助けて」が言えない。助けを求めたくても心が凍りつき、うまく言葉にして伝えられないのだ。

 公判中、これら親族の言葉を受けて、裁判長は異例とも言える発言をした。
「決してあなたを責めるわけではないですが、周囲にこれだけおとながそろっていて、誰か少年を助けられなかったのですか」と。


 裁判長は、この世の中に生きている「おとな」のひとりとして、こう嘆かずにはいられなかったのだろうと思います。
 親族は、その場しのぎの「助け」はしていた。
 それが、親族としての限界だったのでしょう。
 それは、お金で問題を先送りにしていただけ、ではあったのです。
 でも、同じような状況に遭遇したら、自らリスクをおかしてこんな親たちに「これじゃダメだ」と積極的に関わっていこうとする人って、どのくらいいるだろうか?


 この母親も、達男という男も、本当に「どうしようもない」。
 でも、子どもにとっては、唯一の「お母さん」であり、客観的にみてどんなひどい目に遭わされていたとしても、「母親の言うことを聞かなければならない」あるいは「見捨てられない」のです。
 母親も、それがわかっていて、子どもを「利用」している。


 外からみれば、「なんてひどい親なんだ。こんな親から引き離さなくては」と思う。
 しかしながら、当事者は「これは自分たちの問題なんだから、他人がとやかく言わないでくれ」と主張する。
 この家族は、一度、行政の尽力で生活保護を受給し、定住先もみつかり、最低限の生活はできるようになったそうです。
 ところが、母親は「こんな息苦しい生活は嫌だ」「お金の援助がなくても、好きなことができるほうがいい」と、自ら生活保護を打ち切り、行政のサポートから離れてしまった。
 こういう親に対して、行政は、どうすれば良いのだろう?
 子どもがそれを望まなくても、子どもだけを無理やり引きはがすことができるのだろうか?
「お金がないと子どもがかわいそうだから、パチンコやギャンブルに使ってもいいから」と、「援助」するべき?


「親には親の人生がある」「育児を押しつけられて、人生を楽しめなくなるのは、おかしい」
 それは、確かに「正しい」のだと思うよ。
 でも、子どもというのは、経緯がどうあれ、一度生まれてきてしまえば、大人になるまでは、自分の力でけでは生きていけない存在で、誰かが手をつないでいなければならないのです。


 もし、子どもにリセットボタンがついていたら、それを押せばいい?
 でも、そんなものはついていないし、そもそも、いちど「命」を持ってしまった存在を、誰かの都合で消すなんてことは許されない。


 僕も親になってはじめて「実感」したのですが、「つねに誰かが傍にいなければならない存在」というのは、ものすごく「重い」のです。
 もちろん、世の中のたくさんの人のなかには、子育てにまつわるすべてを「幸福」だと感じる人だっているのかもしれないけれど、大部分の人は、そうではないと思う。
 落ち着いて、ひと息つけたところでようやくいままでのことを総括して、「でも、子どもがいて良かった」と、感じるくらいのものではないだろうか。


 シングルマザー、シングルファザーの場合は、単純に考えて、負担は2倍になるわけだから、「なりふりかまっていられない」のもわかります。
 子どもは、「みんなが好き勝手にやっていて、勝手に育つ」ものじゃない。
 親が「自分やりたいことを最優先にして」生きようとした結果、幼い子どもが家に閉じ込められて、餓死するというような悲劇が起こるのです。


 子育てのネガティブな面ばかりを語るのはアンフェアだし、僕自身も総じていえば「子どもがいる人生を経験してみると、子どもがいない人生に戻りたくない」とは思っているのですが。

 トイレから出て、亮太は祖母を台所へおびき寄せた。延長コードで首を絞め、台所にあった包丁で背中を突き刺して殺害する。つづいて祖父の背中を包丁で刺し、殺害した。
 みずからの取った行動に激しく動揺した亮太は、何も盗らずに母親が待機する公園へと向かう。祖父母を殺害してしまったことを告げると、母親は「本当に死んでいるの。死んでなかったら通報されるよ。カネは持ってきたの」と尋ねた。
 亮太が何も盗らなかったことを知ると、「バッグのありか」を教え、カネを盗ってくるよう指示した。バッグの中に現金やキャッシュカードが入っていることを知っていたのだ。
 亮太は祖父母宅へと引き返し、言われたとおり室内を物色する。現金8万円とキャッシュカードを奪い、公園で待つ母親に届けた。その後、母子はカードを使って2万8000円を引き出している。


 ニュースやワイドショーでは、「ひどい親」の話が、次から次へと報じられていきます。
 でも、「関わらなかった大人」には、責任は無いのだろうか?

 ある裁判では、浮気三昧で妻に生活費さえ渡さず、離婚後には我が子の養育費を払うどころかカネを無心していた父親が、子どもを虐待死させた元妻をこう糾弾した。
「自分と別れても、ちゃんと子育てしてくれると思ったのに、こんなに酷い形で子どもを殺されました。元妻は鬼畜です。殺人鬼です。絶対死刑になるべきです。私は元妻が刑務所を出て社会に戻ってくるようなことは絶対許しません。見つけたらタダじゃおきません。必ず死刑にしてください。
 何もしなかった人は、何もしなかったからこそ罪とは遠い場所にいる。そうして、実際に罪を犯した人を責め、殺された我が子を思って憎しみを露わにする。
 むろん何もできなかったという苦しみ、計り知れない悲しみはあるだろう。だが、傍聴席の私は、こうした糾弾に思わず耳をふさぎたくなってしまう。

 こんな「父親」だっているのです。
 虐待した母親に問題はあるのはもちろんだけれども、この父親は、どうしてこんなふうに他人の責任にしてしまえるのだろう。
 こんなふうに切り離してしまわないと、この父親だって「やってられない」からなのかもしれません。
 でも、それで本当に「許される」のだろうか。
 この父親が裁判で罪を問われることはないのだとしても。
 

 17歳の少年の事件をみると、「こんな親に関わってまで、亮太を『なんとかする』のは、よほどの覚悟と勇気がないとできないだろうな……」とも感じます。


 「誰か少年を助けられなかったのですか」と、みんなが思う。
 でも、みんな、「自分以外の誰か」に助けてほしかったから、結局、誰も少年を助けなかった。


 「社会」にできることには、限界があるのではないか、と僕は考えずにはいられません。
 昔イスラエルで「社会実験」として行われたような「子どもたちを実の親から引き離し、集団で社会が育てる」というようなシステムにならないかぎりは、「親」や「親族」が、まずしっかりしなくては、どうしようもない(ちなみに、この「実験」は失敗し、多くの子どもが精神的なトラブルを抱えてしまったそうです)。
 それが、「自分らしく生きる」ことに反してしまうのだとしても、最低限の束縛は、受け入れなければならないのでしょう。


 社会が「親」や「保護者」に求めていることの重さについて考えると、いまの世の中で子どもを生んで育てるというのは、「割が合わない」と感じる人が多いのもわかるし、少子化もむべなるかな、という気もするんですよね。
 生むべきではなかった夫婦が、生んでしまった悲劇のほうが、「少子化」よりも、個別の事例としてはつらい。
 でも、生んでみないとわからない、というのもまた、事実なんだよなあ。

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