琥珀色の戯言

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【読書感想】「過剰反応」社会の悪夢 ☆☆☆


「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)

「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)


Kindle版もあります。

「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)

「過剰反応」社会の悪夢 (角川新書)

内容紹介
「不快に思う人もいるのだから自重しろ」−−。いつからか日本は、何をしても「誰からかのネガティブな反応」を心配しなくてはならない国になった。なぜこういう事態になってしまったのか。彼らの精神構造とは。


 ネットに親しんでいる人であれば、ネットが一般的なものになるにつれて、さまざまな「炎上」が繰り広げられるようになっていることも知っているはずです。
 そのなかには「これは叩かれてもしょうがないな」(程度はともかくとして)というのもあれば、「なぜこんなことで、バッシングされなければならないのか?」と疑問に感じるものもあるのです。
 著者は、実例をあげながら、いまの世の中の「過剰反応」っぷりを嘆いています。
 

 ネット上に批判的な投稿をされ、「それはひどい」「許せない」といった批判の声が巻き起こり、企業も店も学校も病院も、致命的なダメージを負うことになりかねない。そのためだれもがクレーム対応に非常に神経質になっている。
 それにしても、なんでそこまでと思わざるを得ない対応が目立つようになった。ジャポニカ学習帳の象徴ともいえる表紙の昆虫写真に対して、「気持ち悪い」というクレームが来るようになり、30年以上も続いた昆虫写真の表紙がとうとう廃止された。家族の温もりを伝えているはずのテレビCMが、それに傷ついたという視聴者のクレームにより放送中止となった。全国各地で子どもの声がうるさいといった保育園へのクレームが相次いでおり、子どもが園庭に出て遊ぶのを制限している保育園もあるという。
 こうした事例をみると、これまではごくふつうに受け入れられてうたことが、なぜか受け入れられない時代になってきたのを感じる。これまでの常識が通用しないのだ。


 ネット上に限らず、接客業の現場でのクレームのつけかたが変わってきたことや、対人関係で、ちょっとしたことでも過剰に反応する人が増えてきたことについても、この新書では言及されています。
 「不謹慎」とか「(自分はだいじょうぶだけれど)その表現で傷つく人がいるはずだ」というような形式での「抗議」も増え、とにかく、「クレームが来ない」ことが優先される世の中になってきているのです。
 僕もサービス業の従事者なのですが、「自分が理解できないのは、あなたが悪い」という姿勢の人が増えているような感覚はあります。
 

 ただ、この新書を読んでいて、「個人情報」とか「ブラック企業」についての著者の考え方は、いま40代の僕からみても、「あまりにも古いというか、時代の変化がわかっていないのではないか」と思うところがありました。
 ということは、僕の感覚も、いまの20代の若者からすれば、「古い」とみなされていて、僕が「過剰反応」だと思っていることは、「そのくらいのことに注意していない発信者のほうが悪い」というのが「普通の感覚」なのかもしれません。

 実際「ブラック企業」という悪評を広められることにより、人材確保に支障が出たり、客足が遠のいたりするケースもあるようだ。
 ネット上の情報には、信憑性が低いものが少なくない。採用面接で嫌な思いをした就活生が企業を中傷するツイートをしたり、上司の態度や会社側の姿勢に不満を持つ社員が内部告発的なツイートをしたりするというのは、よくあることだ。
 感情コントロールがうまくできなかったりストレス耐性が低かったりして、ちょっとしたことでひどく落ち込んだり、カッとなったりする者が、思うような成果が出せなかったときや、期待通りの評価や反応が得られなかったときなどに、憂さを晴らすかのようにネット上に攻撃的な書き込みをすることがある。
 ゆえに、ネット上の苦情や評判には、感情の爆発により相当主観的に歪められたものが非常に多い。それはだれもが知っているはずのことなのだが、実際に書き込まれた悪評をみると、冷静な判断力を失い、影響を受けてしまう人が少なくない。事実無根の可能性が高いと頭で考えても、どうしても気になってしまう。真偽について考えるのも面倒だから、念のために他の会社に応募しよう、他の店に行こう、他の会社のものを買おうというようなことになりがちだ。


 たしかに、ネットで書き込んでいる人のなかには「私怨」絡みだったり、偏った考えを持っていたりする人が少なからずいるのです。
 ネットというのは、「匿名での批判」を行ないやすい場所で、それによる批判する側のリスクは軽微な場合がほとんどなんですよね。
 いざとなったら、「私はそう思ったんだから!」で済むことが多いですし。
 でも、そういう「ネガティブな書き込み」を見た人は、「なんとなく不安だから、これが事実だったらイヤだから」と、影響されずにはいられないのです。
 ネットでの反応に「過剰」になってしまうのは、少なからず「影響力」があるから、なんですよね。


 そして、どこからが過剰反応なのかの線引きも難しい。
 『すき家』のアルバイトの仕事がきつすぎる、という事例は、僕も「これはひどい」と感じました。
 ところが、僕より一世代上くらい、「団塊の世代」と呼ばれる人たちのなかには、「若いうちは、睡眠時間を削って働くくらいでちょうどいいんだ」みたいなことを平然と言う人もいる。
 ただ、こういう人も「悪意」があるわけじゃなくて、それが「常識」になっているというだけのことなのです。
 まあ、仕事っていうのは難しいですよね。


「これをひとりでやれって言うんですか!」
「じゃあ、お前がやらなければ、お客さんが困るんだけど、それでもいいんだな!」


 企業っていうのは、基本的に「その人が稼ぐ金額以下の給料で働かせること」によって成り立っているのですから、限界はあるのでしょうけど……


 『すき家』の件などは、結果的には、問題点を社会に告発し、労働環境が多少は改善されたという意味で、有意義なものだったと僕は考えています。
 その一方で、某芸能人の「女性は高齢になると羊水が腐る」なんていう発言は「あまりに無知」だとは思うし、訂正されるべきだけれど、過剰にバッシングしてもしょうがないような気がするんですよね。
 でも、バッシングされなかったら、「訂正」しなかったかもしれないしなあ……


 「過剰反応」には困ったものだけれど、総じていえば、ネットでの「ゆるやかな相互監視社会」みたいなものは、世の中にとって悪いことばかりではない、とも感じています。
 最近は「過剰反応してみせる困った人」にもみんな慣れてきたような気がしますし。
 そういう人が見つけ出されて、バッシングされることもある。
 もはや誰もが、争いとは無関係なピアニストではいられない。


 その一方で、「正義感というより、娯楽として、ちょっとした隙みたいなものを槍玉にあげたがる人」も少なくないんですけどね。


 こういう「過剰反応」をしやすい人について、著者は以下のように述べています。

 感情反応しやすい人の心理的特徴のひとつとして、認知的複雑性の低さをあげることができる。
 認知の複雑性とは、物事を単純化せずに多面的にみることができることをさす。認知的複雑性が低い人は、物事を単純化するクセがあるのだが、それは一面的にしか見ていないからである。
 たとえば、認知的複雑性の低いタイプは、人に対する評価を極端から極端に変える傾向がある。それまで「いい人だ」とか「気の合う人だ」といって傾倒していた人物に対して、
「あんな人とは思わなかった。見損なった」
などと酷評するようになったりする。
 なぜそんなことになるかと言えば、人間というのものを多面的に見て、複合的に評価するということが苦手だからだ。人間だれにも長所もあれば、短所もある。こちらと合う面もあれば、合わない面もある。どんなに気の合う相手であっても、すべてが同じということはあり得ない。感受性や考え方の違う点や価値観の合わない点などがあるものだ。だが、認知的感受性の低いタイプは、そういった相違点も含めて相手を受け入れるということができない。
 したがって、人に対する評価が一面的になりがちである。「良い人なのか、嫌な人なのか」「味方なのか、敵なのか」というように一面的に判断しようとする。
「ここは合うけど、ここは合わない」「こういうところは好きじゃないけど、こういうところは好きだ」というように多面的に判断し、そのままの相手を受け入れてつき合うということができず、嫌な点や合わない点があるのがわかると、それまでの好意的態度を一変させて批判的になったりする。


 ああ、こういう人って、いるよなあ。
 ネットというのは、生身の人間と直接付き合うのと違って、基本的には「一面だけを見て付き合うことが難しくない」のです。
 それは、メリットでもあり、デメリットでもある。
 いまの世の中では、ネットを介しての付き合いを否定することは難しい。
 でも、ネット上での付き合いばかりしていると、こういう「認知的感受性」は磨かれにくいのです。
 ネット上での心地よい人間関係にばかり浸っていると、そのツケが回ってきます。
 それは、知っておく必要があるんじゃないかな。


 偉そうにこんなことを書いている僕も「友達が少ない」し、ナマの人間関係は苦手なんですけどね。
 だからこそ、これを読んでいる人には、同じ失敗をしないでほしい。
 そういえば、女優の吉田羊さんが、『金スマ』で、「私、友達少ないんです」って言い切っていたのを観て、ちょっと嬉しかったな。
 

 どこからが「過剰反応」であるかというのは大変難しい問題なのですが、「これは過剰なんじゃないか?」「ここまで責める必要はないのでは?」という寛容さが、これからのネット社会では問われると僕は考えています。
 叩きやすいものを叩く、という風潮は、怖い。
 いつも自分が「叩く側」にいられると確信しているというのは、まさに「認知的複雑性の低さ」のあらわれだと思うのです。

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