琥珀色の戯言

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【読書感想】芥川賞の謎を解く 全選評完全読破 ☆☆☆☆


内容(「BOOK」データベースより)
芥川賞80年、知られざる選考会の裏側。全選評を読破した文芸記者が、その舞台裏、謎に包まれた選考会に迫る!


 文芸記者である著者が、芥川賞の第1回からの1400以上の「選評」を読み、その歴史を概説した新書です。
 僕もここ数年来、芥川賞発表の時期になると、『文藝春秋』を購入して「選評」を読むのを楽しみにしているのですが、1400以上となると、気が遠くなりそうです。
 いくら文芸記者とはいえ、大変だっただろうなあ、と。


 本当は、もっともっと書くネタはたくさんありそうなのですが、個々の回や受賞作家・候補作家についてのエピソードは抑えめにして、第1回からの「傾向」を掴みやすいようにした好著だと思います。

 
 これを読むと、選考委員たちが、「本気で」選考している様子が、伝わってくるんですよね。
 選評のなかには「この若い作家の作品が『読めていない』のではなかろうか?」と思うようなベテラン作家のものもあるのですが、少なくとも、この本のなかで紹介されている選考委員たちは、「芥川賞の意味」みたいなものを、大変重く受けとめて選考しているようです。

「第150回芥川賞発表記念大特集」をした『文藝春秋』平成26年3月号の「作家の本音大座談会」で、小川(洋子)さんは語っている。「私は(芥川賞)選考会が終わるとたいていまっすぐホテルに戻って、それから外に出て近くの公園をグルグルと何周も歩き回って、高ぶった気持ちを落ち着けるんです。自分が推した作品が通らなかった日は、足の裏に血豆ができるくらい回ったこともありました。そして、落ち着いたら、その日のうちに選評を書くんです」。
 選評とは、単なる作品の批評ではない。作家が自らの文学観と読みの力をかけて、他の委員である作家と議論し、真剣勝負した戦いの報告でもある。


 これを読んでいると、ほとんどの受賞作、後世「名作」とされたり、受賞作家が大成したものであっても、「満場一致」で授賞、というケースがほとんどないことがわかります。
 いろんな作家がいて、それぞれの価値観がある。
 選考会は、それをぶつけあう場、なのです。
 選評がよくネタにされていた(僕もしてました)石原慎太郎さんの選考委員としてのコメントをあらためて振り返ってみると、石原さんというのは、あえて若い世代に対して、「悪役」としてふるまっていたのかもしれないな、とも感じるのです(その一方で、それは好意的な解釈のしすぎて、単なるやつあたりみたいなものじゃないか、という見解も否定できないのですが)。
 ただ、円城塔さんの『道化師の蝶』とかを、いきなり読んで「評価」しろと言われても、困るよねそれは。
 「作家」というのは、「評論家じゃない」のも事実だし。


 この本のなかに、川端康成さんが昭和7年11月に書いた「『純文学はかくあらねばならぬ』という題について」というエッセイの一部が紹介されています。

 純文学と大衆文学とをくらべてみる時、「どうあってもいい。」のが純文学であって、「かくあらねばならぬ。」のが大衆文学ではないのだろうか。つまり、純文学の場合では、「かくあらねばならぬ。」ことの条件が、作家自身のうちにある。大衆文学の場合では、その条件が、作家以外の他人のうちにある。

 ああ、「純文学」って、そういうものなのだな、と。
 「読者へのサービス精神」よりも、「自分の内なる声」に誠実なのが、純文学。
 とはいえ、文字にして他者に読ませるためには、最低限の約束みたいなものがあるのも事実です。


 芥川賞でよく話題になるのは、「なぜ、芥川賞は、村上春樹吉本ばななに授賞しそこねたのか?」ということです。
 僕もそれについては、守旧的な選考委員のせいだ、と考えていたのですが、この本で、村上春樹さんに対する選考委員の選評(といっても、スルーしている委員が多かったようですが)を読むと、少なくとも『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』の段階では「外国文学の読み過ぎで書いたような、ハイカラでバタくさい作だが……」なんていう感想を持たれていたのも、致し方ないのかな、という気もします。
 逆に、「当時の芥川賞の選考委員に絶賛されるようなタイプの作品・作家ではなかったから、未来の村上春樹は『世界的な作家』になれた」と考えるべきなのかもしれません。
 とはいえ、歴史をたどってみると、けっこういろんな作家を拾い上げてきてもいるのです。
 あまりにも有名な賞になりすぎたため、選考も「政治力」みたいなものが左右されるのではないかと思い込みがちだけれど、選考委員はけっこう、真っ当に選考をしているのではないかと。
 それでも、「なぜこの作品?」という回もあるのですが。

 国民が注目したのは、第130回(平成15年下半期)で、金原ひとみ蛇にピアス」、綿矢りさ蹴りたい背中」がダブル受賞した時だ。授賞決定時には綿矢は19歳、金原は20歳。それまで最年少だった石原慎太郎大江健三郎丸山健二平野啓一郎の23歳の記録を更新した若い女性二人のダブル受賞は、新聞の一面で大きく扱われ、受賞パーティの際には、二人に殺到するマスコミから彼女たちを守るため、ガードマンをつけるなど厳戒態勢だった。
 ただし、選評を見る限り、興奮は全くといってよいほどない。村上龍は<これは余談だが、選考会の翌日、若い女性二人の受賞で出版不況が好転するのでは、というような不毛な新聞記事が目についた。当たり前のことだが現在の出版不況は構造的なもので若い作家二人の登場でどうにかなるものではない>と、至極冷静に書いている。次に掲げる河野多惠子の選評を含めて、もちろん、「女性らしさ」とか「お嬢さん」といった言葉は登場しない。

 非常に若い両作家が、非常に若い人物を描きながら若さの衒いや顕示がなく、視力は勁(つよ)い。省略ということを弁(わきま)え、夫々の特性に適った表現力に富む文章がまた好もしい。


 しかし、「厳格・公正」である一方で、「前回の候補作では酷い言われようだった人なのに、今回はなんか急に好感度がアップしているな……」とか感じることがあるのも事実なんですよね、ずっと選評を読んでいると。

 マイナーの私小説は、芥川賞では、思い出したように評価される。昭和35年下半期の第44回で<清純な私小説であり、これだけ汚れのない作品になると、却って新しくさえ見える>と井上靖に評価された受賞作、三浦哲郎の「忍ぶ川」がそうだった。

 
 第146回(平成23年下半期)の受賞作となった、田中慎弥さんの『共喰い』とか、「なぜ、いまこの時代に、こんなレトロな私小説が選ばれたんだ……?」って思ったものなあ。
 選考の「風向き」みたいなものって、本当に、蓋を開けてみないと、よくわからないところがあるんですよね。
 それもまた、芥川賞の面白さなのでしょうけど。


 著者は「あとがき」で、こう述べています。

 芥川賞の事件は、候補作品とその選評が「新しい文学」という未踏の目標を求めて目には見えない格闘をすることによって生まれるのだと思う。


 文学にとっての「新しさ」とは何か?
 そういう「得体の知れないもの」を求め続けているからこそ、芥川賞というのは面白いのかもしれません。
 まあでも、読む側としては、「これは新しいのか、わかりづらく書かれているだけなのか、どっちだ?」とか言いたくなることもあるんですよね。
 

 有名人が受賞すると、「話題作り」と叩かれ、無名作家だと「地味だ」と盛り上がらない。
 それもまた、芥川賞