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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】ナチスと精神分析官 ☆☆☆☆


ナチスと精神分析官

ナチスと精神分析官

内容紹介
ナチスの心は本当に病んでいたのか? ニュルンベルク裁判に先立ちゲーリングなど最高幹部を診断した米軍医が見た「悪の正体」とは? 戦後70年間埋もれていた記録を発掘した迫真のノンフィクション! 映画化決定


 この本を最初に手にとったとき、僕は「精神分析によって、ナチスの最高幹部たちの『特異な性格』が明らかにされていた!」というノンフィクションなのかな、と思っていたのです。
 実際に読んでみると、この本は、ゲーリングやヘスという、ニュルンベルクで裁かれたナチスの最高幹部たちの素顔と同じくらい、あるいはそれ以上に、収監先での自由な行動を許され、彼らと身近に接した「精神科医」の物語だったのです。
 

 ケリーはナチのあとを追ってニュルンベルク刑務所へ赴いた。新しい任務は、これから始まる裁判で裁きを受ける、ナチの高官二十二人の精神的健康状態を評価することだった。モンドルフでナチと、とくにゲーリングと過ごしたことで、さまざまな思いが公務としての関心を超えて高まっていた。この捕虜たちには共通する精神的欠陥があるのか? 全員が同じ精神疾患を共有していて、そのせいで第三帝国の非道な行為に関与したのか? ドイツ人たちを相手に仕事をして、自分の心を占める、差し迫った疑問に答えられるのかどうか考えずにはいられなかった。この男たちの心を科学的に研究することで、将来、ナチのような政権の台頭を防ぐのに役立つ、有力な要因を特定できるかもしれない。
 なんとしてもそれを見つけだしたかった。正式許可のないまま、ケリーは捕らわれの身となったナチ指導者たちの脳の奥底を心理学的な面から探究する計画を立てていた。


 アメリカ軍に捕縛された際には、薬物依存で、情緒不安定となり、体重も130㎏になっていた「ナチスのナンバーツー」ヘルマン・ゲーリング
 彼は、拘束されたあと、周囲の人間の努力の甲斐もあって(罰するために心身を健康に保たせる、というのも、ある意味矛盾ではあると思うのですが、それも政治というものなのでしょう)、かつてのナチスの高官としての威厳を取り戻していきます。


 僕が驚いたのは、彼らを分析する側だった、アメリカ軍の優秀な精神科医、ダグラス・ケリー少佐もまた、外側からみれば、ゲーリングと同じようなキャラクターの人物だった、ということでした。
 彼は、仕事中毒で、自分が興味を持ったことに対しては、妥協を許さなかった。
 その一方で、他者の心の痛み、みたいなものについての共感能力が乏しい、エゴイスティックな面を持っていた。
 ナチスの最高幹部たちというのは、精神分析官にとっては、「垂涎の的となる研究対象」でもありました。
 

 ハンナ・アーレントは、ニュルンベルクで裁かれたナチスの高官たちを「命令されたことに従っただけの、凡庸な悪」だと評しました。
 僕も、個人的には、「もし自分が同じ立場だったら、きっと命令には逆らえないだろう」と思うのです。
 しかし、そんな「凡庸なだけの人間」が、はたして、戦争の時代に、名を上げ、出世を遂げて、他者に影響を及ぼすことができる存在になりうるのだろうか?

 何度か話をするうちに、ゲーリングは動物への愛着について語った。多くのハンター同様、彼は自分の獲物を愛していて、ナチス・ドイツの狩猟法や自然保護法を書きなおし、じゅうぶんな理解に基づいて動物を扱うよう求めた。さらに、驚くほど情け深く進歩的な動物実験反対法を提出した。違反者は強制収容所に送られることになった。医師としてのケリーは公衆衛生を守り、命を救うワクチンを開発するという観点から、ドイツの生体解剖反対法の効果を認めなかった。「ドイツは2.5センチ四方あたりのジフテリア菌が世界のどの国よりも多い」と彼は述べた。「ヘルマン・ゲーリングジフテリア菌に対する抗毒素の製造を禁止したおかげで」
 ケリーはゲーリングがほかの種には感情移入するのに、同じ人間である大勢の人には無慈悲だったという事実になかなか折り合いをつけられなかった。この男は捨て犬や捨て猫を守るための法律制定には役割をじゅうぶんに果たしたのに、政敵に対する血みどろの粛清を指揮し、適正な手続きなしに敵を処刑する権利を宣言し、1940年にナチがオランダへ侵攻した際には、ドイツ空軍の司令官としてロッテルダム中心地での一般市民への空爆を許可し、急襲をかけ、非戦闘員を1000人殺し、8万5000人から住居を奪った。「彼は……自分の友だちや、家族のためなら、どんなことでもする。その輪の外にいる、ほかの生き物に対する関心はほとんどないに等しい」と精神科医は診断した。


 この本のなかでも、ゲーリングの愛妻家、子煩悩ぶりには何度も触れられており、家族からも愛されていたようです。
 ここまでくれば、たしかに、「命の重みに対する価値判断が異常」だと僕も思います。
 ただ、「自分の身内と赤の他人の命の重さを、同じように考える人」というのも、それはそれで、「普通じゃない」のですよね……
 じゃあ、どのくらいが「普通」とか「正常」なのか?というのは、案外難しい。
 みんな、自分が「正常」だと信じてはいるけれど。

 ケリーが見たところ、ゲーリングはナチズムを受け入れることで、自分の人生を設計し、出世欲を満たそうとしていた。党への忠誠心はヒトラーのためでも、ドイツのためでも、ましてやいわゆるアーリア人の種を保存すするためでもなかった。彼の目的はヘルマン・ゲーリングの格を上げることにあり、ナチ党に入ったのも日の出の勢いの党の幹部になるためだった。彼の利己心はほかのナルシストと比較しても傑出していた。ゲーリングはケリーがこれまで出会った中でも群を抜いて自己中心的な人物だった。

 ケリーは、ナチの元高官らが前例のない規模の残虐行為をなし、戦争犯罪を犯したのはわかっていた。ドイツ人指導者たち自身も、自分たちが何をして、どういうことんあったのかを知り、驚いていたほどだ。だが人格が正常の範囲内にある人間がナチの暴力を引き起こしたということは、つまりまたあるかもしれない。それがケリーの懸念だった。「ライ博士を例外として、彼らの誰も正気を失っていなかった」と、ケリーは《ニューヨーカー》の記者に語った。ナチの指導者たちは「特別なタイプではなかった」彼はそうも書いている。「彼らの人格パターンが示したのは、社会的に望ましい人間ではなかったかもしれないが、アメリカ[でもどこでも]似たような人間はいるということだ」ということは、心理学的に似た人間によってホロコーストや人類に対する罪が繰りかえされるおそれもある。彼の懸念は、1961年にイスラエルで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判のリポートで”悪の陳腐さ”を指摘したハンナ・アーレントの懸念とは違った。アーレントの主張は、ナチの高官らは上からの命令に従い、そうした命令を型通りの仕事だととらえて、みずからの行動を普通のことだと考えていたというものだ。だがケリーが調査したナチ高官らは、自分たちの政権とその中でのみずからの役割を、人類の進化の道筋によって優遇された特別なものだと見ていた。そうした考えによって、ゲーリングは愛情深い家庭生活を営んでいたにもかかわらず、みずからの権力を満喫するために元同僚を殺し、残忍な命令を下した。


 僕も、「ナチスの最高幹部たちには、ある種の『共通点』があるのだろうか?」という疑問を持っているのですが、実際にナチスの最高幹部たちと接し、インタビューをし、心理テストまで行った2人の精神分析官でさえ、異なる見解を示しているのです。精神科医のダグラス・ケリーは、「彼らは『特別なところ』はなかった」と結論づけ、心理学者のグルタフ・マーク・ギルバートは、「ナチ高官の多くは、罪悪感を感じる能力が限られ、他者を大切にしたり、政治的または道徳的行動基準を大切にしたりできない精神病質者だ」と述べています。
 ただ、そういう人は、いつの時代にもいるのですよね、たぶん。
 そして、「正常」と「異常」の線引きも、簡単なものではない。


 彼らを分析した優秀な精神科医ダグラス・ケリーもまた、ある意味「病んで」いたのです。

 (ケリーの)息子のダグは、病院の新生児室を退院したときからずっと、精神の発達を促す積極的なテクニックを試す実験動物だったのかもしれない。息子はゲーリング、ヘス、ローゼンベルクの代わりに父の実験対象になった。ダグは家ではつねに教育や情報を与えられ、脳発達のための訓練を繰りかえしやらされた。それは彼の息子への課題として行われた。いまだに彼は、ケリーの観察ゲームのプレッシャーと苦痛を覚えている。居間に座っていると、ケリーはダグに周囲をよく見て、できるだけ詳しく覚えるようにと指示する。息子にいったん部屋を出るように命じると、彼は物の位置を少しだけ変える――ときには、コーヒーテーブルの上のペンを少しだけずらすだけということもあった。「どこが違う?」部屋に戻ってきた息子に、ケリーは質問した。このゲームはダグに恐怖とパニック、そしてうまく違いを見つけたときには興奮と満足をもたらした。奇妙な組み合わせの感情だった。
「いつもIQテストをやらされた」と、ダグは言う。


 ケリーは、犯罪心理学精神分析の仕事で高い評価を受けていた一方で、子どもに対して、突然キレるなど、家族に対して厳しくあたってもいたのです。
 まるで、彼が身近に接したゲーリングの何かが乗り移ったかのごとく、同じ死に方をしてしまいます。
 「仕事で、常軌を逸した成功を収める人には、その仕事の正邪にかかわらず、一定の『特質』みたいなものがあるのかもしれないな」
 僕には、そんな気がしました。
 生まれた時代、場所が入れ替わっていたら、ケリーとゲーリングは、逆の立場で出会っていたかもしれません。


 広島や長崎で、市民を原爆で無差別に大量虐殺したのは、ナチスホロコーストとそんなに違わないのではないか、と僕は思うのですが、それを指示し、実行した人たちが、裁かれることはありませんでした。
 むしろ、彼らは「英雄」とされています。
 もちろん、本人たちの内心には「罪の意識」はあったのかもしれませんが。


 でも、そういうのは、すべて仮定や想像の話でしかないのもまた、事実なんですよね。
 「ミイラ取りがミイラになる」というのがありますが、あれから70年が経っても、「人には、人のことがよくわからない」のです。