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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】そして、メディアは日本を戦争に導いた ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
軍部の圧力に屈したのではなく、部数拡大のため自ら戦争を煽った新聞。ひとりよがりな正義にとりつかれ、なだれをうって破局へ突き進んだ国民…。昭和の大転換期の真相を明らかにし、時代状況が驚くほど似てきた“現在”に警鐘を鳴らす。


 「昭和史」の大家である、半藤一利さんと保阪正康さんの対談形式の「太平洋戦争とメディア」。
 この対談で、おふたりは、「現在の日本から、当時のメディアを断罪する」のではなく、あの時代を生きていたメディアの人たちは、何を考えて「報道」を行っていたのか?を検証していくのです。
 軍部のいいなりになって、戦争を賛美し、大本営発表をそのまま受け売りしていた新聞や雑誌。
 「圧力」がかかっていたから、仕方がない、と僕は思っていたのですが、大手メディアがこぞって「戦争推進」に向かっていったのは、「軍部からの圧力」が主な原因ではなかったのです。

半藤一利いずれにせよ、日露戦争前には賛成と反対で半々に分かれていた新聞各社が、平民社を別にして、ついに全部、戦争に協力するようになり国家の宣伝役になるわけです。
 その結果、新聞の部数ががんがん伸びるんですよ。
 戦争前の明治36年と戦争が終わって2年目の明治40年で比較すると、『大阪朝日新聞』は11万部から30万部、『東京朝日新聞』は7万3000部から20万部、『大阪毎日新聞』は9万2000部から27万部、『報知新聞』は8万3000部から30万部、『都新聞』は4万5000部から9万5000部と、軒並みすごい伸び率です。
 『万朝報』は10万部が8万部に落ちた後に転向して25万部です。『二六新報』は14万5000部から12万部と減少しているんですが、ここは戦争に反対しないものの余り協力はしなかったんですね。
 数字を見ても信じられないくらいすごい。「冗談だろう」と笑い話になりそうなくらいの伸びです。でも、これは間違いのない事実なんですよ。
 この数字が示しているのは、戦争がいかに新聞の部数を伸ばすかということです。要するに、戦争がいかに儲かるかなんです。ジャーナリズムは日露戦争で、戦争が売り上げを伸ばすことを学んだんですよ。
 これを見れば明らかにわかるのは、ジャーナリズムがどんなに色々ときれいごとを言おうが、いざとなったら完全に国家の宣伝機関になるだろうということなんです。外国の新聞もほとんどがそう、国家と一体になって商売をしている。

 日露戦争で、各新聞は「戦争に協力し、威勢のよい戦勝記事を書けば、売れる」ということを学んだのです。
 それにしても、こんなに売り上げが違うものなのか、と。
 オウム真理教の一連の事件の際、週刊誌は「オウム特需」でかなり部数を伸ばしたのですが、人というのは、戦争や残虐な事件でも、センセーショナルな話題に引き込まれてしまう生き物なんですね。
 自分の国の戦争ともなれば、これ以上の「事件」はありません。
 「戦争に協力した新聞は売り上げを大きく伸ばし、反対した新聞は売れなくなった」
 軍部の「圧力」以前に、この「経営上の判断」で、戦争に協力したメディアは多かったことを半藤さん、保阪さんは指摘しています。
 そもそも、「売れている」ということで、「国民がそれを求めているのだから、戦争に協力して何が悪いんだ」という、理屈も成り立ちますし。
 

半藤:朝日新聞」は自社の70年史で書いています。
「昭和6年以前と以後の朝日新聞には木に竹をついだような矛盾を感じるであろうが、柳条溝の爆発で一挙に臨戦態勢に入るとともに、新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた」とお書きになっていますけれど、違いますね。
 沈黙を余儀なくされたのではなく、商売のために軍部と一緒になって走ったんですよ。
 つまり、ジャーナリズムというのは、基本的にはそういうものでね、歴史を本当には学んでいないんですよ。
 こう言っちゃ身も蓋もないけれど、いまのマスコミだって、売れるから叩く、売れるから持ち上げる、そんなところだと思いますよ。


 では、人々はそんなに戦争が好きかというと、必ずしもそうではないのかもしれません。
 「戦争反対」を叫ぶメディアが「良心」だけでそうしているとも、言いきれない。

保阪:新聞と政府が一体化した時代になると、戦争が起これば新聞はついてくる。背景には売れなければ困るというのがあるわけですね。
 戦後になってからは変わったのかというと、『朝日新聞』が戦後民主主義の論理を書き続けてきたというのも、実はそう書くことで新聞が売れたからだという言い方もできます。
 もし、逆に民主主義を言うことで新聞が売れなかったら、ここまで書き続けて来たのかと考えると、不安なところですね。


 あらためて考えてみると、朝日新聞に代表されるような、日本にとっての「自虐的歴史観」を表に出していったほうが「良心的」だと見なされ、「売れる」時代が戦後続いていたわけです。
 もし朝日新聞が全く売れなかったら、あの方針が続いていたかどうか。
 たぶん、「読者のニーズに合わせて」どこかで方向転換していたはずです。
 そういう意味では、太平洋戦争後の日本というのは「戦争批判がお金になる、稀有な時代」だったのかもしれません。


 この本のなかでは、戦時下でも「国策」に抵抗し、戦争拡大に苦言を呈した硬骨のジャーナリストも紹介されているのですが、それも小さなメディアや個人だからできること、ではあるのです。
 大手メディアになると「自分はよくても、他の社員やその家族が路頭に迷うかも……」と考えると、なかなか「売れなくても、自分の意見を貫く」のは難しい。
 「ジャーナリストが、それで良いのか?」
 僕もそう思いたいのだけれど、現実的には「ジャーナリストだって新聞や雑誌が売れなければ食べていけない」のです。
 「多くのジャーナリストやメディアは、そういうもの」だと、認識しておくべきでしょう。
 

 ここで紹介されている各新聞の部数の伸びをみると、「そりゃ『転ぶ』よなあ」と思いますし、「そんなに違うものなのか……」と驚くばかりなのですけど。


 この対談のなかで、1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終わった日の新聞の話が出てきます。

半藤:本当に真面目な新聞は一紙もなかったのかどうか、調べてやろうと思ったことがあるんです。すると、一紙だけあった。責任を持っている新聞社が皆無だとしたら情けないと思って調べたら、あったんですね。『毎日新聞』の西部本社版です。
 8月15日のその新聞はペラ一枚だけ、表にはポツダム宣言の受諾が載っていて、裏は白紙なんですよ。他の新聞はどこも、表はポツダム宣言受諾、裏は「明日から民主主義」と書いた。実に恥知らずな変わり身の早さです。でも、一紙だけ違ったんですよ、九州地方にだけ配達された新聞なんですがね。裏は全くの白紙。つまり、これまでさんざん戦争に協力してきて、その同じ筆で全く違うことなど書けないということだったんです。
 これが本当のジャーナリズムですよ。筆に対する良心というか誠実さというか、責任を持つという姿勢が現れている。


「明日から民主主義」って、そんな簡単に切り替えられるようなものなのだろうか……
そもそも、これまでさんざん「大本営発表」を受け売りして、国民を煽ってきた新聞が、そんな「明日から梅雨明け」みたいな感じで、よくも書けるものです。
でも、ほとんどの新聞は、「自己批判」をしなかった。


半藤さんは、今の日本を覆っている「空気」について、こう仰っています。

半藤:歴史の教訓という意味では、もう一つ、忘れてはいけないことがあります。昭和初期の日本は貧しかったということです。
 関東大震災に始まって、景気は落ちる一方となり、当時の社会ではろくなものを食わせてもらえない栄養失調の子供が山のようにいたし、貧困から自分の娘を身売りさせる親さえいた。冷害などから東北で大凶作もあった。この時代の日本には貧困感が蔓延していたんです。昭和4年のウォール街の大暴落から始まる世界恐慌で、どの国も貧しい状態に落ち込んでいた時代ですしね。
 実は、世界恐慌の貧困からは、日本はいち早く脱していたんですよ。満州事変を起こしたからです。侵略の陰謀は褒められたことじゃない、大いに恥じるべきだけれど、事実は事実として言えば、これによって日本の貧困は一段落していたんですね。それにもかかわらず、日本人は貧困感を持ち続けた。俺たちは貧しい、苦しいと思い続けたんですよ。そこから、社会全体がおかしくなっていったんです。
 いまの日本にも同じようなことが起こっていますよ。現在の日本は決して貧しくないんです。ところが、国民全体の雰囲気は、貧困で締めつけられているという感じになってしまっている。この点では非常に昭和初期に似ている。国粋主義にまとまりやすい危ない空気に満ちているんです。


「日本を覆う、『貧困感』か……」
 いまの若者たちは「日本はダメになってしまった、不景気がずっと続いている、将来に希望はない」と言われ続けているんですよね……
 そのなかで生きていれば、実情以上の「閉塞感」があるのでしょう。
 その一方で、コンパクトな生活を志向する人も増えているし、いまの日本人だって、そんなにバカじゃない、とも思うのだけれど。
 ただ、「昭和初期に似ている」と感じている人たちがいることは、知っておいて損はなさそうです。
 あの時代の人たちだって、まさか、あんな大きな犠牲をもたらす戦争になるなんて、思ってはいなかったでしょうから。


 この本はメディアの話が主なのですが、メディアがイデオロギーではなく「売れるかどうか」で動くというのは、ある意味、「買う側である市民に選択権がある」のですよね。
 それは、すごく大切なことなのだろうけれど、うまく活かすのは、とても難しいのです。