琥珀色の戯言

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【読書感想】決定版 日本のいちばん長い日 ☆☆☆☆


決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
昭和二十年八月六日、広島に原爆投下、そして、ソ連軍の満州侵略と、最早日本の命運は尽きた…。しかるに日本政府は、徹底抗戦を叫ぶ陸軍に引きずられ、先に出されたポツダム宣言に対し判断を決められない。八月十五日をめぐる二十四時間を、綿密な取材と証言を基に再現する、史上最も長い一日を活写したノンフィクション。


 現在(2015年8月15日)、原田眞人監督による再映画化版が公開中の『日本のいちばん長い日』。
 この「昭和20年8月14日から15日にかけて、日本の中枢で起こっていたことを描いたノンフィクション」は、唱和40年に、大宅壮一・編、として世に出たものです。
 このノンフィクションは、後年、実際の著者であり、取材の多くを担当した半藤一利さん名義となり、終戦から70年経っても読みつがれています。
 僕は今回はじめて読んだのですが、文献や資料のみならず、可能なかぎり当事者に会って「あの日」に起こったことを再構成していったというこの本には、ものすごい時間と手間、そして、「歴史」を遺すのだという気概が込められています。
 昭和40年といえば、終戦からまだ20年しか経っていないので、まだ人々の記憶も鮮やかだったでしょうし、存命の関係者も多かったはず。
 今年は、終戦から70年。これが書かれてからでも、50年経っています。


 しかし、「戦争の記憶も鮮やかな20年後」とは言ってみたものの、実際ははたして、どうだったのだろう?
 もちろん、いまからみると「直接関与した人も多いし、記憶も確かだった」と思われるのですが、2015年から20年前といえば、オウム真理教の一連の事件や、阪神・淡路大震災が起こった1995年です。
 いま、オウム事件の関係者にインタビューしたとして、20年前のことを、はっきり覚えているものなのだろうか……
 ただ、この「昭和20年8月15日」に関しては、「特別な日」として覚えている、と言われると、「そうかもしれないな」と納得してしまうところもあるのですけどね。
 実は、この本のなかにも、関係者の証言が食い違っているところがあって、著者は「両論並記」しているのです。
 20年というのは、生々しい記憶を維持するには、けっして短い時間ではない。
 こうして「再現する」ためには、20年が必要だったというのは、わかるんですけどね。
 言えない、言いたくないこと、自分の中だけにとどめておきたい記憶もあっただろうし。

 首相に乞われて、天皇は身体を前に乗り出すような格好で、静かに語りだした。
「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である」
 一瞬、死のような沈黙がきた。天皇は腹の底からしぼり出すような声でつづけた。
「空襲は激化しており、これ以上国民を途端の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先からうけついだ日本という国を子孫につたえることである。いまとなっては、ひとりでも多くの国民に生き残っていてもらって、その人たちに将来ふたたび起ちあがってもらうほか道はない。
 もちろん、忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤にはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」
 降伏は決定された。八月十日午前二時三十分をすぎていた。


 この本では、さまざまな関係者の証言を集めて、昭和二十年八月十四日の午後一時から、翌十五日の正午、ポツダム宣言受諾を天皇陛下の肉声で告げた「玉音放送」までの激動の一日が「再現」されているのです。
 昭和天皇鈴木貫太郎首相、阿南陸軍相などの政権の中枢にいた人から、徹底抗戦を主張し、実力行使にはしった陸軍の若手将校たちから、新聞記者、玉音放送のための準備をしたラジオ局員など、さまざまな人物が登場してきます。
 誰が主役、というわけでも、誰かの視点から、というわけでもなく。
 「降伏」というのは、「それじゃ、降伏します!」と、相手に連絡を入れればおしまい、というわけではなくて、戦争をしている中でも、正式な外交上の手続きを踏み、戦場でたたかっている部隊への伝達などの準備も行ったうえで、すすめていかなければならないんですね。
 関係者の人間ドラマだけでなく、そういう「プロセス」がしっかり記録されているのも、このノンフィクションの魅力です。


 僕にとっていちばん印象的だったのは、陸軍の代表者として、天皇陛下の終戦への「聖断」と「このまま降伏なんて受け入れられない」という若手将校の板挟みになりながら、黙々と天皇の聖断を実現するために行動した阿南陸軍相だったのです。
 これを読むまで、「戦争末期、物資もなく、都市は空襲を受け、広島・長崎に原子爆弾を落とされても、まだ抗戦を主張していた陸軍の人たちは、よっぽどのバカだったんじゃないか?」と僕は思っていました。
 ですが、これを読んでいると、陸軍の参謀たちも「竹槍でB29を落とせる」「奇跡が起きて勝てる」というような幻想に浸っていたわけではなく、「敗戦濃厚なのは認めざるをえないが、せめてどこかで米英に一矢報いて、有利な条件での講和を引き出したい」と考えていたようです。
 まあ、後年からみると、「それも無理だろ」としか言いようがないのですけど。


 ただ、当時は、「米英が日本を占領すれば、天皇は沖縄かどこかに流され、婦女子は犯されて混血される」などという噂が流れており、「そんな目に遭うくらいなら、戦って死ぬ」と考えるのも、無理はないような気もします。
 戦意を昂揚させ、戦争を続けるためには「アメリカ人にもいろんな人がいて、良い人も多いんですけど、やむをえないので戦いましょうね」と言うわけにはいかない。
「鬼畜米英」ということで、敵愾心を煽っていたのですが、いざ戦争を終わらせるとなると、そうやって植えつけてきたイメージが、降伏を躊躇わせることにもなりました。
 いまの時代を生きている僕は「アメリカの占領軍は、そこまで残酷なことはしなかった」ことを知っています。しかしながら、当時の人には、そんな未来があることなんて、予想もつかなかったはず。


 これを読んでいて、いちばん痛感したのは、「ああ、昭和20年8月15日まで、大日本帝国は『負けかた』を知らなかったのだな」ということでした。
 負け前提で戦争をはじめる国はありません。
「本心としては「こりゃかなわんな」という状況は多々ありそうですが、それを表に出すわけにはいかないでしょうし、「勝利条件」はあっても、「敗戦条件」を設定して戦う国というのは聞いたことがありません。
 現実的には厳しい状況でも、これまで失ったものの大きさや、戦後処理への不安から、「負けを認めるタイミング」が、どんどん遅れてしまうのです。
 ましてや、日本軍は、明治維新以来「不敗」だった。
 「あの日」までは。
 さまざまな手続きとか、陸軍内部での混乱とか「うまく負ける」のって、こんなに大変だったのか……


 僕は広島に住んでいたこともあり、原爆による一般市民を含む無差別攻撃は戦争犯罪だと思っています。
 でも、原爆という「絶対的な兵器」の威力を思い知らされなければ、たしかに、日本はもう少し長い間「勝算なき抵抗」を続けていたかもしれません。

 
 それにしても、戦争の末期での「一日」の違いというのは、本当に大きい。

「総理、御前会議をひらくまで、もう二日だけ待っていただくわけにはいきますまいか」
 首相は、陸相がいんぎんに少しも脅迫的でないのに、心から好感をもった。しかし、この申し出を毅然としてことわった。
「時機はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうかあしからず」
 阿南陸相はもう一言なにかいおうとしたが、思い諦めたという表情で、丁寧に敬礼をすると邪魔したことを詫び、部屋を出ていった。同席していた小林堯太元軍医大尉が、首相にいった。
「総理、待てるものなら待ってあげたらどうですか」
 鈴木首相は答えた。
「小林君、それはいかん。今日をはずしたら、ソ連満州、朝鮮、樺太ばかりでなく、北海道にもくるだろう。ドイツ同様に分割される。そうなれば日本の土台を壊してしまう。相手がアメリカであるうちに始末をつけねばならんのです」
 小林軍医はいった。「阿南さんは死にますね」
「ウム、気の毒だが」
 鈴木首相は眼を伏せるようにしていった。


 たしかに、一日遅れれば、新たな原爆投下で何十万人単位の犠牲が出たり、ソ連軍が北海道になだれこんでくるリスクが上がっていきます。
 それを思うと、終戦を急いだ人たちのおかげで、助かった命はある。
 ただ、もっと早く戦争を終わらせていれば(あるいは、戦争をしなければ)、広島や長崎での甚大な犠牲や、日本兵シベリア抑留という事態は、起こらずに済んだ可能性もあります。
 

 ちなみに、終戦の玉音放送直前の8月15日には、こんなこともあったそうです。

 午前十時三十分、大本営は発表した。開戦いらい八百四十六回の最後の大本営発表であった。
「わが航空部隊は八月十三日午後、鹿島灘東方二十五浬(かいり)において航空母艦四隻を基幹とする敵機動部隊の一群を捕捉攻撃し、航空母艦一隻を大破炎上せしめたり」
 国民のなかにはこの発表に奇異なものを感じたものも多かった。朝からラジオは「畏きあたりにおかせられましては、このたび詔書渙発(かんぱつ)させられます……畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午おんみずから御放送あそばされます」と荘重な口調で、予告をいいつづけていたからである。終戦の噂はデマで、徹底抗戦を天皇が訴えるのであろうか、そう考えるものも多かった。

 戦争を終わらせるのも、「一筋縄ではいかなかった」のです。
 しかし、玉音放送の直前にまで、こんな「フェイク」を入れる必要があったのだろうか……


 まさに「日本のいちばん長い日」。
 ただ、僕は昭和天皇や阿南陸相の覚悟、鈴木首相の忍耐に感動しつつも、ずっと、心の片隅に、引っかかるものがありました。
 彼ら、日本の「中枢」にいた人たちは、こうして「歴史」に遺り、語りつがれていく。
 でも、彼らが命じて戦場に送り込み、戦死どころか飢えや病気で、遺骨さえ還ってこなかった人々が、あの戦争では、大勢いたのです。
 「ドラマチックな決断とはかけ離れた、時代に流され、ただ、朽ち果てていくような死」のほうも、語りついでいくべきではないだろうか。
 本当に戦争になれば、大部分の人たちは、「御前会議」になんて縁がないのだから。

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