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【読書感想】「知覧」の誕生―特攻の記憶はいかに創られてきたのか ☆☆☆☆


「知覧」の誕生―特攻の記憶はいかに創られてきたのか

「知覧」の誕生―特攻の記憶はいかに創られてきたのか

内容(「BOOK」データベースより)
毎年数十万の人びとが訪れる「特攻の聖地」知覧。戦争体験の風化が叫ばれる中、なぜ、人は知覧へと引き寄せられるのか。知覧が特攻戦跡として戦後「発見」され、いまなお訪問者を増加させているプロセスを、メディア、観光、ジェンダーなどの視点から考える、まったく新しい戦後論。


 大学時代、僕も知覧を訪れて、特攻隊として出撃していった若者たちの遺書を目のあたりにしました。
 僕自身は、ただひたすら圧倒されて、声も出なかったのですが、一緒に行った先輩たちの多く(それも、ふだんは泣いている姿なんて想像もできないような人たち)が、大粒の涙を隠そうともしていなかったのが、いまでも記憶に残っています。
 この本では、「知覧」という場所が、「特攻の聖地」として、そして、観光地としての、2つの立場のあいだで揺れ動いていることが、さまざまな立場で紹介されています。
 ただ、僕自身には、そういう「知覧体験」があるので、「でも、あの先輩が涙したものは、聖なるものではないのか、そうであってほしい」という気持ちもあるんですよね。
 

 「特攻」を語るのは、とても難しい。
 作戦としての「特攻」は、成功率も低く、死ぬために出撃するという、無謀だとしか言いようのない作戦です。
 飛行士というのは、育成するのに時間もお金もかかるし、優秀な若者ぞろいだし。
 そんな作戦を実行した当時の日本軍は、責められてしかるべきでしょう。


 その一方で、特攻隊として亡くなった人たちを、「そんな無謀な作戦で死ぬなんて、無意味だし、残念だったね」という「評価」をしてしまうことには、後ろめたさがあるのです。
 隊員たちだって、それが正解だとは、たぶん思っていなかった。
 でも、そうするしかないという「空気」や「状況」に支配されていた。
 この本のなかで、とくに印象的だったのは、この文。

 本章のテーマである活入れは、建て前に隠された本音よりも素顔に裏づけられた言葉のほうに対応する。両者の差異については、次に引用する小川榮太郎(1967年生)の考え方が示唆的である。

 あなたは夜、号泣した自分の姿を家族や恋人に知ってほしいか。それが私の人間味で、真実の姿だと語り継いでほしいと思うか。情は抑え難い。人であれば当然である。だがそんな自分を家族に語り伝えてほしいか。生き残っていれば、愚痴も出よう。だが、今まさに死ぬのである。遺影が愚痴であり、号泣であってほしいとあなたは思うであろうか。遺書に書いた通りの、立派な男児としていつまでも記憶してほしいのではあるまいか。最高の笑顔で飛行機に乗り込む勇姿を、生き残った戦友には語り伝えてほしいのではあるまいか。


 引用文中の「号泣した自分の姿」と「最高の笑顔で飛行機に乗り込む勇姿」がそれぞれ本音と建て前に対応するが、これまでの「記憶の継承」の枠組みでは、どちらが真実の姿かを争うか、あるいはどちらも真実だと両論並記的に並べるしかなかった。それに対して小川が隊員に読み取る「素顔」は、両者に引き裂かれながらも、家族や恋人や戦友の記憶に遺したい自画像としてあえて後者を選択する、という意気地である。


 「半強制的」だったからといって、それで亡くなった人間にとっては、「かわいそうな人」「嫌々ながら出撃していった」というよりも、「後世の人たちのために、すすんで犠牲になった」「従容と死の座についた」とみられるほうが「嬉しい」のかもしれません。
 死ぬことが決まっているのなら、せめて、格好良く。
 それは、周囲の人にも、同じような想いがあって、「嫌々ながら出撃していった」という想像は、あまりにも痛ましすぎるし、「英雄」として語り継ぐべきなのではないか、とも考えてしまうのです。


 「知覧」も、最初は「慰霊の地」としての役割が中心だったそうです。
 ところが、新聞で「特攻隊として散っていった若者たちのドラマ」が採りあげられたり、映画化されたりしていくうちに、「観光客を呼び込む効果」があることがわかってきました。
 そして、特攻隊の若者たちの心情と、爆弾を積んで「敵」に向かっていった、ということ(あくまでも、「戦争」の一環であったということ)を、戦後の人々が「割り切る」手段として、「彼らは、平和を祈って出撃していったのだ」という解釈するようになってきたのです。
 

 ここでは、知覧高女「なでしこ会」の特攻の語りを確認しておこう。戦中に知覧高等女学校の生徒として女子勤労奉仕隊に所属し、特攻隊員の世話をした女性たちは、戦後「なでしこ会」を結成した。彼女たちは、1979年に『群青――知覧特攻基地より』という回想録を出版している。そのなかで、特攻隊員たちの姿は次のように振り返られている。

 いま私たちが手にしている平和が、数多くの人生をかけがえのない青春の上に築かれていることを忘れ、自分の利害だけで、権利ばかりを主張して責任を果たさない風潮が一般的になったと、よく人々から聞かされるようになりました。こんなとき、平和を願い、すべての私情を断ちきって短い人生を終えていった特攻隊員を、その出撃直前まで目のあたりにしてきた人々の中から、「歴史の証言として何かを残すべきではないか」という声がもちあがりました。


 注目すべきは、特攻隊員たちが「平和」を願っていたという理解が語られていることである。たしかに、銃後の家族や知人たちなど大切な人びとの安寧を願っていただろうし、戦争のない世界を望んでいた隊員も存在した。しかし、知覧から出撃した隊員たちが皆そうだったとは限らないし、死者の内面を確かめる術はもう残されていない以上、出撃した特攻隊員の内面をたやすく記述することはできないはずである。いずれにせよ、その内面がわからないからこそ、多様な解釈が成り立ってしまうのだろう。そして、多様な解釈のなかでも、最も口当たりがよく、感動できるものが主流をなしていく。特攻隊員は「平和を願い、すべての私情を断ちきっ」た者として誉め称えられるのである。
 特攻隊員の称揚は、知覧市内部で語り継がれる限りにおいては、対立を生むことはなかったが、「中央」知識人はそのような語りを違和感とともに受け止めた。


 こういう「聖域」的なものにも、この本の著者たちは、容赦なく斬り込んでいくのです。

 「平和のため」が第一の目的なら、特攻するのは、矛盾じゃないか?
 言われてみれば、たしかに、その通りなんですよね……


 でも、「敵の船を沈めるため」では、戦後の人々の「平和教育」には使えない。
 「特攻」というのは、あまりにも残酷すぎて、なんらかの「物語」を付加したくなってしまうのかもしれません。
 しかしそれは「特攻の美化」につながる、と考える人も少なくない。


 ちなみに、知覧にはいくつかの「ツッコミどころ」があって、陸軍の基地だったにもかかわらず、海軍の戦没者が紹介されていることや、展示されている零戦も、知覧から飛び立ったものではない、海軍の飛行機です。
 1970年代には、イベント(町民体育大会)で、「特攻隊に扮し、飛行機に乗った若者を、若い女性たちが見送る様子を再現」までしています(「特攻仮装大会」って……)。
 このイベント、けっこうウケたそうなのですが、ネットがあったら、「炎上必至」だったのでは……

 広島とともに世界的に知られた被爆地、長崎の原爆資料館では、来館者数のピークを終戦50年の翌年にあたる1996年に記録した。その数は114万人であり、同年度の知覧の70万人を大きく上回っていた。
 だが長崎では翌年から来館者数が斬減し、2012年度には64万人まで落ち込んだ。16年間で44パーセントも減少したことになる。なお長崎市全体の来訪者数は1996年度の542万人から2004年度の493万人までは原爆資料館と同様に減少したものの、翌2005年から増加に転じて続伸し、2012年度には595万人に達している。すなわち長崎市を訪れる人は増加したが、原爆資料館へ足を運ぶ人はおよそ半減したことになる。
 それに対して知覧特攻平和会館の来訪者数は、2002年度に最多の73万5409人を記録し、同年度の長崎原爆資料館(73万9874人)と1パーセント未満の差に迫る人びとを迎えた。そして2008年度には、わずかながら長崎を上回る来館者数を記録した。国際的な知名度を有し、豊富な観光資源とアクセスに恵まれた長崎の市街地に立地する長崎原爆資料館と比べ、知覧特攻平和会館は上述のように「ついでに行く」ことが考えられないほど辺鄙な山中に位置する。しかも特攻の戦跡ならば九州の各地に複数ある。それでも知覧だけが多くの人々を惹きつけ、そして2002年度にピークを迎えた理由はどこにあるのだろうか。


 この本では、知覧だけではなく、その周辺の「特攻戦跡」(万世特攻基地や海軍鹿屋航空基地)との比較や、「自己啓発本」や「コンビニマンガ」で語られる、知覧や特攻隊についても、章を設けて語られています。

 大阪ミナミのNo.1ホストクラブ・プリンスクラブ紫苑でも、幹部研修で知覧に行ったことがある。オーナーの井上敬一(1975年生)によれば、映画『俺は、君のためにこそ死にに行く』(2007年公開)に触発されたという。「知覧に行こう! 少なくとも紫苑の幹部たちには知覧を見てほしい。ここで、歴史を知り、特攻隊員の思いを知り、平和とは、人が生きるとは、人がつながるとは、ということを学んでほしいと思った。(中略)間違いなく、人として成長できる。そう思ったから」。幹部たちは事前に映画のDVDを観て全員が泣いた。特攻隊員が可哀そうだからではない。彼らの涙は先に紹介した女子バレー選手とはまた違う意味で、特攻隊員の物語を自分の仕事の本質と重ね合わせて流されたのである。自動車販売、居酒屋、ホストクラブ……。業種は異なるが、いずれも顧客満足を高める戦いの最前線だ。


 特攻、という行為の解釈のしかた、受け取りかたに正解、不正解がある、というわけではないし、少なくとも「人々のやる気を失わせる」よりは、「やる気になる」ほうが有益ではあります。
 とはいえ、「戦没者追悼の場」から、「パワースポット」みたいになってきているのも事実なわけで、それで地元も潤っている。

 
 それでも、知覧をみて「戦争をやろう!」と思う人はまずいないだろうし、昔みた先輩たちの涙を、僕自身も忘れられないのです。


 「戦争体験の伝承」っていうのは、本当に難しい。
 まあ、こういう本を読んで、頭でっかちになってしまうより、まずは一度自分で体験してみるのが大事ではないか、とは思うのですが。

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