琥珀色の戯言

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【読書感想】騙されてたまるか 調査報道の裏側 ☆☆☆☆


騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

騙されてたまるか 調査報道の裏側 (新潮新書)

内容(「BOOK」データベースより)
国家に、警察に、マスコミに、もうこれ以上騙されてたまるか―。桶川ストーカー殺人事件では、警察よりも先に犯人に辿り着き、足利事件では、冤罪と“真犯人”の可能性を示唆。調査報道で社会を大きく動かしてきた一匹狼の事件記者が、“真実”に迫るプロセスを初めて明かす。白熱の逃亡犯追跡、執念のハイジャック取材…凄絶な現場でつかんだ、“真偽”を見極める力とは?報道の原点を問う、記者人生の集大成。


 僕は著者が以前上梓した『殺人犯はそこにいる』を読んで、「世の中には、こんなすごい記者がいるのか」と驚きました。
 これは、そのすごい記者、清水潔さんが、これまでの事件記者人生で印象に残った出来事を簡潔にまとめ、振り返った新書なのです。
 著者の「調査報道とは、具体的にどのようなことをやっているのか?」に興味を持たれた方は、この新書よりも、『殺人犯はそこにいる』を読んでみることをおすすめします。
 これは、あくまでも「入門編」という感じなので。

 よく聞かれることがある。
「なぜあのような報道ができるのですか?」と。 
 答えはとてもシンプルだ。
 おかしいものは、おかしいから――。
 それだけである。
 たとえそれが警察から発せられた情報や裁判所の判決、マスコミの報道だろうと。
 何より私は「伝聞」が嫌いなのだ。
 自分の目で見て、耳で聞き、頭で考える。
 ほとんどそれだけを信条にこれまでやってきた。
 必然と最終的な責任は私自身に帰する。失敗しても人のせいにはできない。「間違っているのは、自分の方ではないか……」といった不安も常につきまとう。リスクを少しでも減らすには、さらに調べ、裏を取り、取材を重ねるしかない。
 私にとっての「調査報道」とはそういうものだ。
 一般的にはあまり聞き慣れない言葉かもしれないが、「調査報道」がどのようなものなのかは、本編の取材事例をもって紹介していきたい。本書の目的は、調査報道の裏側を明らかにして、真相に迫るプロセスを知ってもらうことにある。


 清水さんが「調査報道」によって真実を明らかにしてきた「桶川ストーカー事件」や「足利事件」について、僕はずっと「なんで警察は、あれだけの大きな組織や資金を持っていながら、清水さんという『個人』の力に負けてしまったのだろう?」と思っていたのです。
 それは、警察があまりにも怠慢で、腐り果てているからではないのか、と。
 でも、この本を読んでいて、その理由の一端がわかったような気がしたのです。
 警察という組織のひとりひとりが「本気」になれば、ものすごく大きな力を発揮できるはず。
 そして、現場の人たちも、手抜きをしているわけではないと思う。
 にもかかわらず、「個」が「組織」を越えることがあるのはなぜか?

 
 むしろ、「個」だからこそ、「組織」にできないことをやり遂げられる場合もあるのではないか、というのが、僕なりの結論です。
 人は集団になると、どうしても、「みんなの意見」や「顔色」に流されてしまう。
「これはちょっとおかしい」と思っても、集団の一員としては、異議を唱えづらいことも多い。
 それではいけない、はずなのだけれども、現実というのは、そういうものです。


 清水さんは、「ひとりだから、組織に頼らないから」(もちろん、チームスタッフはいるのですが)、「人まかせ」ではなく、「自分自身の違和感に、正直に向き合うことができる」のです。
 もちろん、「フリーランスだから」とか「大きな組織の一員ではないから」という理由だけで、同じことができるわけではないし、「責任」も自分でとらなければならない。
 清水さんも「マスメディアとつながっている」からこそ、取材者としてやっていけている、という面はあるんですけどね。


 ブログとかSNSなどで、「発信」している人は、この「調査報道」の話を読むと、自分の立ち位置を考えずにはいられなくなるはずです。
 僕も、そうでした。
 ネットでは、Twitterなどで、他の人が得た情報を「拡散」することが一般的に行われていますが、その大本の情報の信憑性について、どこまで自信をもって「リツイート」しているだろうか?
 「マスゴミ」と、ネットでマスメディアを批判している人の「ソース」が、他のマスコミの記事だったり、酷い場合には『2ちゃんねる』の書き込みだったりすることもあります。
 本当のオリジナルコンテンツは、「自分自身が見聞きし、体験したもの」あるいは「自分が考えたこと」だけなのかもしれません。
 

 そもそも「公式情報」みたいなものは、それを発信する側によって、歪められている可能性がある。
「桶川ストーカー殺人事件」について。

 そもそも、事件当初の報道はいったい何だったのか。
<被害者は風俗嬢>
<ブランド依存だった>
<水商売していたんでしょ。そんなお店にいたなら彼女も悪い>
 同じ事件を追いかけながら、なぜこうも私の記事の方向性と百八十度違うものになったのだろうか。私の記事と彼らの記事を大きく隔てたものは何か。
 答えはシンプルだ。
 彼らの「ネタ元」がほぼ警察のみだった、ということに尽きる。「ネタ元」が、詩織さんの告訴を放置し、改竄していた利害当事者の上尾署であったことがすべてなのだ。
 事件発生当日には、警察による記者会見も行われた。後になって私はそのVTRを見たのだが、その中で詩織さんの「告訴状」について尋ねた記者がいた。すると捜査幹部は、告訴状のことをはっきりと「被害届を出した」と説明しているではないか。つまり、この段階で改竄を知っていた可能性が高いのだ。
 一方、被害者の服装について「黒いミニスカート」「バッグはプラダ、時計はグッチ」などと詳細に発表。この情報によって詩織さんは「ブランド好きな女子大生」としてイメージが形づくられていく。捜査幹部のところに「夜回り」に来る記者たちには、事件とは全く無関係な被害者のプライベート情報が流された。
「被害者は水商売のアルバイトをしていた」
「あれは風俗嬢のB級事件だよ」
 それに追い討ちをかけるように、犯人の小松の素性を「性風俗店の経営者なんだよ」と耳打ちしていたのだ。
「さあ、この情報でみなさん何を書きますか?」と言わんばかりの対応ではないか。

 言わずもがなだが、当然事実は異なる。
 すでに触れたが、詩織さんは最後まで嘘をつかれて、男の本名も、本当の仕事も知らなかった。後に私は遺品も確認させてもらったが、持っていた「ブランド品」は、ごく普通の女性が持っているようなもので、自分でこつこつお金を貯めて買ったものだ。「風俗嬢」の根拠は何か。詩織さんが友人に頼まれ、お酒を出す店で短期間アルバイトしたことだろうか。それも自分には合わない、とすぐに辞めてしまったので、彼女は給料さえ受け取っていないという。警察からすれば、風営法の及ぶ店で働けば「風俗嬢」というわけか。
 そもそもだ、市民がどこで何をしていようが、殺される理由になどなるだろうか。これを警察によるイメージ操作と言わずして、何と言えばいいのだろうか。それも命を奪われた被害者のイメージを操作したのである。
 公的機関が発する情報のすべてが正しいわけではない。


 「情報リテラシー」について語られることは多いのですが、結局のところ、「絶対に騙されない」というのはほぼ不可能です。
 実際に対象と直接接触し、取材しても、中途半端なものだと、かえって騙されることもあるでしょうし、対象への思い入れが、判断をおかしくしてしまうこともある。
 そもそも、取材が仕事でもない一般市民には、偶然、その題材が身近なところにある場合を除いては「調査報道」を自分でやることは難しい。
 だからこそ、「他者から与えられた情報」を鵜呑みにして、脊髄反射的に他者を責めることについては、慎重でなければならないと思うのです。
 それが、最低限の「リテラシー」ではなかろうか。


 また、「足利事件」の調査では、犯人とされた人物と同じ体重のスタッフによって、自転車での犯人の足どりを再現してみています。

 全行程を終え、ストップウォッチをチェックしてみた。
 結果、全く不可能とまでは言い切れないものの、相当に厳しいスケジュールになることがわかった。幼女を誘拐して、前輪が浮き上がる自転車に乗せて運転。手にかけた後、今度は全速力で閉店間際のスーパーに駆け込み、夕食を物色する殺人犯――。
 何やら違和感が拭えない。


 この話など、「なぜ、警察はこれをやってみなかったのだろう?」と疑問になってきます。
 この事件の場合は、まだ未熟な段階だった「DNA鑑定」の結果が証拠となっていたので、警察としては、「間違い」を認めたくなかった、というのもあったのでしょう。 
 でも、そんな政治的な判断とか面子のために、罪のない人が「幼女誘拐殺人犯」にされてしまうなんて……


 そして、世の中のさまざまな「公式発表」には、その「真意」が隠されているものも少なくない。

 具体例をあげよう。ある家電メーカーの記者会見に出た時のことである。
 当時私はテレビ局の社会部記者だったが、たまたま経済部マターの記者会見に立ち会うことにいなった。メーカー側は分厚い資料を配り、映像を使って詳しく説明していた。
 それは新型テレビの増産に関する会見で、聞くとどうやらテーマは四つあるようだった。


 1.新型テレビの月産台数を○万台増産する。
 2.そこで○○県の工場ラインを増やし、人を配置する。
 3.それにあたり△△県の工場は、○○県の工場に統合される
 4.今後の販売戦略について


 はたしてこのメーカーは何を一番「発表」したいのだろうか。本当は「3」だけを発表したいのではないか――。
 そうアタリをつけて、それとなく質問すれば、どうやら△△県の工場は事実上の閉鎖ということのようだ。その工場には大勢の現地採用のライン工がいて、閉鎖に伴い、彼らは職場を失うことになる。「希望される場合は、○○県の工場で働くことができます」とメーカーは力説していたが、その○○県の工場は△△県の工場から500キロ以上も離れている。とても自宅から通えるような距離ではない。
 つまりこれは、事実上の「大量解雇」ではないのか――。
 しかしそのまま「大量解雇」と発表すれば、従業員たちは納得しないだろうし、企業の倫理も問われかねない。一方で、多くの失業者を生んでしまうような決定を秘密裏に行うこともできない。そう考えて、「新型テレビの増産」という、一見ポジティブに見えるニュースを交えて発表したのではないか。
 しかしこの仮説は、あまりにも天邪鬼な社会部記者的思考によるものかもしれない。そう思って翌日、新聞各紙を見比べて確認してみた。
 メーカーの思惑どおり、あっさりと<新型テレビ○台増産>と見出しを打った社もあった。けれど二紙ほどは<□□社 △△工場閉鎖へ>とあった。


 清水さんは「こういうやりかたを批判しようというのではない、表に出てくる情報を鵜呑みにするだけではなく、『真意』を読み取る力が必要とされているのだ」と仰っています。
 企業だって、ネガティブな情報を前面に押し出したくはないだろうし、競争のなかでは、こういう「駆け引き」はつきもの。
 だからこそ、情報を受け取る側には、それなりの「心構え」が求められているのです。
 

 これは、「伝える側」からの、かなり率直な警鐘が込められた新書だと思います。
 


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