琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】王とサーカス ☆☆☆☆


王とサーカス

王とサーカス


Kindle版もあります。

王とサーカス

王とサーカス

内容紹介
2001年、新聞社を辞めたばかりの太刀洗万智は、知人の雑誌編集者から海外旅行特集の仕事を受け、事前取材のためネパールに向かった。現地で知り合った少年にガイドを頼み、穏やかな時間を過ごそうとしていた矢先、王宮で国王をはじめとする王族殺害事件が勃発する。太刀洗はジャーナリストとして早速取材を開始したが、そんな彼女を嘲笑うかのように、彼女の前にはひとつの死体が転がり……。「この男は、わたしのために殺されたのか? あるいは――」疑問と苦悩の果てに、太刀洗が辿り着いた痛切な真実とは?


さよなら妖精』の出来事から10年の時を経て、太刀洗万智は異邦でふたたび、自らの人生をも左右するような大事件に遭遇する。2001年に実際に起きた王宮事件を取り込んで描いた壮大なフィクションにして、米澤ミステリの記念碑的傑作!


 『さよなら妖精』から、11年か……
 とは言っても、僕が『さよなら妖精』を読んだのは、刊行されてからしばらく経った後、だったのですけど。


 この『王とサーカス』、米澤穂信さんの作品というのと、静謐な装丁に惹かれて、『さよなら妖精』を復習することもなく読み始めたのですが、内容に関しては、前作を読んでいると少ししんみりする場面がある、という程度です。


 『王とサーカス』という賑々しいタイトルをみて、「で、主人公の大刀洗万智が、王室で起こった事件の謎を解決するのか」と思いきや……
 まあ、ミステリ(なんだよね、これ)をネタバレするのは極力避けますが、僕はこの作品を、「で、そろそろ本筋の『大きな事件』に入っていくんだよね、もうここまででだいぶページ使っちゃったけどさ」などと思いながら、読み進めていったんですよ。
 でも、もしかしたら、この作品自体が、そういう「大きな事件」「派手なトリック」を求めてやまないミステリ読者への、作者からの「問いかけ」なのかもしれませんね。

「お前の心づもりの問題ではない。悲劇は楽しまれるという宿命について話しているのだ。人々はなぜ綱渡りを見て楽しむのか。演者がいつか落ちはしないかと期待しているからだと思ったことはないか? ネパールは不安定な国だ。そして昨日、演者は落ちた。興味深いことだ。これが他国で起きたことなら私も楽しんだかもしれない」


 僕は最初、この作品を読みながら、「こんな不穏な内容なのに、『ネパール』って、実在の国名を使って良いのかな……」と思っていたんですよ。
 ネパールの人は、怒るのではないか、と。
 そもそも、ネパールって、「国民総幸福(GNH=Gross National Happiness)」が高い、「幸福の国」で、親日国としても知られているんじゃなかったっけ……


 ……それ、ブータン!!
 と、しばらくの後、自分にツッコミを入れてしまいました。
 ネパールというのは、そのくらい僕にとっては、予備知識がない国ではあるのです。


 で、驚いたのが、この作品で採りあげられている「王宮での事件」が、2001年に実際に起こっていたことでした。
 そして、僕がそのことをまったく知らなかった(あるいは、記憶していなかった)ことにも驚きました。


 自分にとって身近な人のこと、そして、メディアで大きく採りあげられる猟奇的な事件のことはよく覚えているけれど、メディアが伝えないことは、記憶にも残らない。
 貧しい国で、多くの子どもたちが飢えて死んでいったり、民族間で大量虐殺が行われているなかで、「痴情のもつれ」から起こった日本国内の事件に、テレビの多くの時間が割かれていく。
 それは、本当に「正しい」ことなのだろうか?


 大刀洗万智は、ジャーナリストとして、「なぜ自分がこれを『報道』するのか?」という疑問にとらわれてしまいます。
 それは、ものすごく真摯な自分や社会への問いかけではあるのだけれども、その一方で、僕はその問いがあまりにも「優等生的」であることが、なんだかちょっと不快でもあったのです。
 でもさ、なんのかんの言っても、それで食べているわけだろ? 雑誌が売れたり、視聴率が取れたりしないと、困るんだろ?
 医療の世界だって、どんなに「自分は患者のための善い医療をしている」と主張しても、患者さんに選ばれなければ、経営は成り立たないし、仕事は続けられない。
 「患者さんのために、自宅でケアをしっかりして、リハビリに通わせてください」と言う医者よりも、すぐに入院させてくれて、病人の介護から解放してくれる医者を選ぶ家族のほうが、多いかもしれない。
 しかし、だからといって、「部数を伸ばしたり、視聴率をとるためなら、どんな非道なことでもやる」のが正義だと認めたくもない。
 結局は「バランス」なのか? でも、それで思考停止してしまうのは、なんだか手抜きみたいだし。


 僕がその「青臭さ」みたいなものに辟易しながらも、この小説を最後まで読み通せたのは、『さよなら妖精』からの、大刀洗万智という人間への親近感と愛着があり、大刀洗万智という人物を描いている米澤穂信という作家への信頼があったから、なのだと思います。
 逆に言えば、「知らない作家の作品」だったら、「何この偽善的な女!」とか思った可能性が高いのです。


 「ミステリ」というよりは、いちおうミステリとしての要素も持った、「ジャーナリズム」あるいは「他者に何かを伝えること」についての逡巡のプロセスを描いた、自省的な作品、なんですよね、これ。
 「ミステリ」としては、「広げた風呂敷の割には……」という内容です。
 これを「ミステリ」として売るのはどうなのか、とさえ思う。
 でも、この物語は、ブログを書いたり、SNSをやったりしている人には(ということは、今の若者たちの多く、ということになりますよね)、「刺さる」ところがあるような気がします。
 世界に対して「発信」する手段を持ったということは、規模の大小はあれ、個人が「メディア」としての責任を問われる可能性がある、ということなんですよ。
 ネットでは、大手メディアが、「マスゴミ」と揶揄されてきました。
 でも、僕は長年ネットにいて、ネットで定収を得てきた人が、それを失うことを怖れるあまり、その人がずっとバカにしていた「マスゴミ化」していくのを、何度も目のあたりしてきたのです。
 ネット社会になって、「書くこと」「発信すること」の目新しさにばかりとらわれてきたけれど、本当は「書くべきことを書く」よりも、「書いてはならないことを書かないこと」のほうが、大事なのです。
 裁判での「疑わしきは罰せず」の大原則のように。


 「青臭い」とかなんとか言いながら、これだけ書いてしまうということは、やはり、「人に何かを考えさせる作品」なんでしょうね、この『王とサーカス』って。
 ミステリとしてはオススメしかねるのですが、このブログを読んでくれている奇特な皆様には、「刺さる」のではなかろうか。


 ちょっと前に、シルク・ドゥ・ソレイユのステージを映画化したものを観たんですよ。
 それはもちろん、すばらしい映像美だったのだけれど、生のステージに比べたら、あまり面白くなかった。
 最高の場面ばかりが繋ぎ合わされた映像のはずなのに……


 僕には、その理由がわかっていたのです。
 映画の中では、絶対に演者が命を落とすようなアクシデントは、起こらない。
 その「安心」が僕の緊張感を失わせた。
 もちろん、事故を期待しているわけではありません。
 でも、「絶対に事故が起こらないことがわかっているステージ」は、予想以上に退屈なのです。
 僕のなかにも「サーカス」を望む気持ちがあって、それが、こんなブログを書かせている。

アクセスカウンター