琥珀色の戯言

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【読書感想】西太后―大清帝国最後の光芒 ☆☆☆☆☆


西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書)

西太后―大清帝国最後の光芒 (中公新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
内憂外患にあえぐ落日の清朝にあって、ひときわ強い輝きを放った一代の女傑、西太后。わが子同治帝、甥の光緒帝の「帝母」として国政を左右し、死に際してなお、幼い溥儀を皇太子に指名した。その治世は半世紀もの長きにわたる。中級官僚の家に生まれ、十八歳で後宮に入った娘は、いかにしてカリスマ的支配を確立するに至ったか。男性権力者とは異なる、彼女の野望の本質とは何か。「稀代の悪女」のイメージを覆す評伝。


 10年くらい前に出た新書なのですが、僕がいままで抱いていた「烈女・西太后」のイメージが塗り替えられる内容でした。

 中国史上、西太后に匹敵する女性権力者は、他に漢の呂后、唐の則天武后武則天)があるのみである。しかし呂后の専権は15年にすぎず、則天武后も帝位にあること15年で失脚した。一方、西太后は、人口4億の大清帝国に47年の長きにわたって君臨し、最後まで失脚しなかった。男性権力者を含め、これほど長期にわたって実権を維持した例は、世界史上稀である。しかも彼女の治世は、内憂外患が噴出した激動の時代であった。


 著者は、この新書のなかで、西太后という女性の「人となり」に深入りする、というのではなく、「西太后」という、「とくに権謀術数に優れていたわけでも、良い家柄の生まれでもなかったにもかかわらず、権力の中枢に居続けた人物」を生んだ、当時の清国のシステムについて、かなり詳しく解説しています。
 読んでいると、当時の権力者たちの駆け引きが面白くて、引き込まれてしまいます。
 登場人物がみんな「雑」というか、緊迫した駆け引きではなく、「お互いにエラーだらけの乱打戦」になるんだけど、なぜか最後に生き残っているのは、西太后


 中国では、長年、政治を預かる知識人を登用するために「科挙」が行われてきたのですが、清という国では、皇帝の妃も「試験で選んでいた」のです。

「選秀女」は、清朝独特の后妃選定制度である。秀女とは、皇帝の妃や宗室(皇帝の親戚)の夫人の候補のことである。清朝では、適齢期の旗人の少女たちの集団面接を皇帝自らが行ない、秀女を選んだ。秀女に選ばれるのは、参加者全体のごく一部だった。事実上、選秀女は旗人の女子にとって記念受験的な通過儀礼となっていた。

 また順治帝のときに、后妃選定制度「選秀女」も整えられた。明代の選秀女は女子の容姿を重視し、密室で裸体にしての身体検査さえ行われた。清の選秀女では女子の品格と家柄が重視され、少なくとも建前上は容色によって后妃を選ぶことはなくなった。
 優秀な母親から生まれた清の諸帝は、おおむね聡明だった。それまでの中国では、一つの王朝に名君が一人出ればよいほうであった。ところが清朝では、康煕帝雍正帝乾隆帝と、名君が三代も連続して出現した。これは中国史上空前の記録である。
 またそれまでの中国では、漢の呂后や唐の楊貴妃の時代のように、外戚(后妃の実家の一族)が国政を壟断する事態がしばしば発生した。しかし清朝では、そのような事態も一度も起こらなかった。これも選秀女の効用である。
 清の選秀女の最大の特徴は、秀女(后妃候補)を八旗の女子に限定したことである。皇后や妃嬪になれるのは、旗人(満州八旗、蒙古八旗、漢軍八旗)に属する家の女子だけだった。これによって、清の皇帝が圧倒的多数の漢民族に同化して呑み込まれる事態は防がれた。
 こう書くと、選秀女は清朝にとって理想的な制度のようだが、副作用もあった。清の歴代の后妃はおおむね不美人であった。もっとも、外見などはどうでもよいことではあるが。


 いまの自由恋愛が当たり前の社会からすると、「優生主義的な、ひどい話」だと思われるかもしれませんが、たしかに、「他の中国の王朝では、賢帝が一王朝にひとりかふたり程度であったのと比べて、清では康煕帝雍正帝乾隆帝と三代も明帝が続いたのは事実」なんですよね。
 そして、皇帝が、自分の好みよりも、「優秀な女性」を選ぶということを受け入れていた、というのも、考えてみればすごいことではあります。
 まあ、そういうのは「自由恋愛観」の時代を生きている人間の考えで、昔は「家どうしで決められた結婚」が珍しくなかった、とは言えるのですが。
 また、皇帝の後継者指名についても、事前に皇太子を指名するのではなく、皇帝が他の人からは見えないように後継者の名前を「遺言」として書いて、封じておく、というシステムになっていたそうです。
 それによって、皇帝と皇太子の権力闘争を予防し、後継者候補どうしが切磋琢磨する、というメリットもあったのだとか。
 これを反故にしてしまったのが西太后なのですが、当時の社会情勢を考えると、西太后がいなければ清はもっと長い間持ちこたえられたのか?というのは、微妙なところです。

 西太后の評伝の多くは、彼女は並みはずれた権力欲を抱いていたと説く。しかし、実状は少し違っていた。たしかに西太后にも「野望」はあった。しかしその内容は、男の権力者とはまるで違う性質のものだった。
 男にとっての権勢とは、自分の意志を国の隅々まで行き渡らせ、思いどおりの国造りをすることである。しかし西太后にとって権勢とは、ずばり崇慶太后の再来になることに尽きた。彼女の夢は、息子の同治帝が無事に成人し、生母である自分を大事にしてくれることであった。彼女にとっての権勢とは、贅を凝らした家具調度品に囲まれて暮らし、ご馳走や旅行を楽しみ、誕生日のたびに国母として祝ってもらうことであった。つまり、至高の生活文化を満喫することこそが、西太后の野望であった。男の権力者のように強力な軍隊を保有することにも、戦争に勝利することにも、西太后は興味を持たなかったのである。

 著者は「一言でいえば、西太后は、良い意味でも悪い意味でも、女性的な権力者であった」と述べています。


 宮廷にはたいした人材がおらず、英傑はみんな軍閥として地方で自分の力を拡げていっていた時代。
 そんなバラバラになりかけていた清国を、カリスマとしてかろうじてまとめていたのが西太后、ともいえるのです。
 「義和団の乱」のときには、排外主義を主導し、西洋人を殺した者に賞金を与えると布告していたにもかかわらず、その数年後には、親族に西欧風のドレスを着せて、ダンスを踊らせて愉しんでいたという西太后
 節操がないのか、臨機応変だと言うべきなのか。
 当時の人たちも、「何も考えていないように見える一方で、底知れない何かがある」と感じていたのかもしれません。
 西太后の没後、清王朝は数年で滅んでしまいました。
 西太后の存在は、滅亡を早めたのか遅らせたのか。


 西太后の写真が残っているのをみると、「ああ、この人は、100年くらい前には、まだ生きていたんだなあ」と、ちょっと感慨深くもあります。
 そして、「西太后の、清という国家の正負の遺産」が、いまの共産党支配の中華人民共和国にも、少なからぬ影響を与えていることもわかります。

 西太后というキャラクターは、満州人であるとか皇太后であるという以前に、非常に中国的なのだ。わがままで自分勝手で、面子を気にするくせに矛盾した言動をしても平気で、周囲の顰蹙を買いながらもなぜか中心人物になってしまう。そんな「ミニ西太后」的な人物は、男女を問わず、今も中国社会のあちこちに生息している。政府でも、企業でも、大家族の中にも、彼女に似たタイプの人物を、けっこう見つけることができる。

 ああ、僕の周りにも、いるいる、「ミニ西太后」。
 こういう人が47年間も権力を握り続けることがあるのだから、歴史というのは、面白いし、不思議なんだよね。

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