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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】西郷隆盛伝説の虚実 ☆☆☆☆


西郷隆盛伝説の虚実

西郷隆盛伝説の虚実

内容紹介
傑出したリーダーシップが、いまも待望される理由とは?


日本に危機が訪れるたびにわき起こるリーダー待望論。西郷隆盛という不世出の英傑にまつわる伝説の真相に迫り、その集団心理のあやうさに一石を投じる異色の歴史読み物。
幕末維新最大の功臣にして、日本最後の内戦で散った明治の賊臣。豪傑肌で、もの言わぬ英傑ゆえに数々の伝説が生まれ、近代日本をつくった名も無き人たちが生きたもうひとつの歴史が消えてしまった……。


本文より抜粋――
西郷の人格は様々に憶測されることとなった。西郷が胸中を明かさないため、神秘性がいやが上にも増したと言えなくもない。死後は維新最大の功臣から賊臣になる劇的な人生に加え、判官びいきの傾向が強い日本人の気風も相まって、伝説化された存在になる。日本に危機が訪れるたびに西郷待望論が湧き上がったが、明治政府への不満の裏返しであり、本来は由々しき事態。だが、西郷は既にこの世にはおらず、政府に不満が向けられるだけであった。言い換えると、西郷が不満を吸収する役割を担っていたのだ。


西郷隆盛とは、何者だったのか?
僕の子どもの頃の「西郷さん」(「西郷どん」と言うべきかも)のイメージは、なんといっても、上野公園の犬を連れた銅像です。
この銅像、いまちょっと調べてみたら、高村光雲作なんですね。
大きな身体に、太い眉。都会的でスタイリッシュ、という言葉とは対極的な姿にこめられた、強い意志。


子どもの頃読んだ歴史マンガには、こんな場面がありました。
明治天皇が野営している御座所の前を、大雨のなか、ずぶぬれになりながら、無言で立って護っている西郷隆盛
明治天皇は、そんな西郷の姿をみて、側近の者にこう言います。
「わしは、西郷が好きじゃ」
このエピソードが史実だったかどうかはわからないのですが、西郷隆盛という人の歴史での立ち位置は、あらためて考えてみると、すごく不思議ではあるのです。
上野に西郷さんの銅像がつくられたのは、1898年。その時には、憲法制定に伴う恩赦で、西郷さんは恩赦されて、賊将ではなくなってはいたのです。
とはいえ、西南戦争から、まだ20年くらいしか経っていないのに、天皇のお膝元である東京に「反乱者」の銅像が建てられたのですよね。


歴史小説のなかでは、「西郷隆盛は、地元・鹿児島の不平士族の無理矢理推され、やむなく立ち上がった」というような解釈がされていることが多いのですが、本当にイヤだったら、鹿児島から離れていればよかったのに、とも思うのです。
当時の人の「地元に対する帰属意識」というのは、2010年代を生きている僕とは、全く違ったのかもしれないけれども。


この本は、西郷隆盛という人物に対して、当時の資料から、あらためて考察がなされています。
西郷隆盛は、けっして「完全無欠の人格者」ではなかったこと、薩摩藩は、倒幕に対して「一枚岩」ではなかったこと(むしろ、島津久光をはじめとして、鳥羽・伏見の戦いの直前まで、幕府との武力衝突は避けたい、と考える人のほうが多かったようです)、「策士」としての狡猾な面があったことも描かれているのです。
その一方で、自分を登用してくれた島津斉彬への恩義を大事にする一方で、その後継者となった島津久光とは、生涯、馬があわなかったことも紹介されています。
「もう、島津家のことなんて、どうでもいいや、政体が変わったのだから」と割り切れるほど、西郷隆盛という人は、不義理ではなかった。
それには、薩摩藩が、当時の日本の地域のなかでは、圧倒的な軍事力を有していた、という「切り捨てられない事情」もあったようなのですが。


坂本龍馬西郷隆盛を評したという、こんな有名な言葉をご存知の方は多いはずです。

 坂本龍馬が、かつておれに、先生しばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者も行って会ッて来るにより添書をくれといッたから、早速書いてやったが、その後、坂本が薩摩からかえって来て言うには、成程西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうといったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だヨ。西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ。

この本でも採り上げられている、勝海舟『氷川清話』の一節です。
西郷隆盛について僕がイメージしていたのは、こういう「底が知れない、大人(たいじん)の風格を持つ人物」だったのです。


ところが、著者は、同時代を生きた人たちの証言から、西郷隆盛という人には、こんな面もあったと書いているのです。

 西郷の残した手紙を分析した毛利敏彦氏は、気に入らない人物の悪口がはっきり書かれていることから、他人に対する好悪の感情が人並み以上に強かったのではないか。清濁併せ呑む大度量の人物ではなく、案外狷介で執念深いところがあったのではと指摘している。

 家近良樹氏も西郷が残した手紙などの史料から、本質的に好悪の感情が強く、清濁併せ呑むタイプではない。刺激をたいへん好み、相手との駆け引きを楽しむ策略好きだったと指摘する。策略家としての顔を覗かせる事例としては、後述するように戊辰戦争時に東日本地域の諸侯や民衆を徳川方から離反させるための構想を提示したことを挙げている。
 つまりは、西郷は好戦的な人物だったわけである。実際、西郷は自らを「戦好き」と称している。
 西郷は人格者としてのイメージが非常に強いが、実際は好悪の感情が強く、いわば癖のある人物として周囲から見られていたのである。だが、(島津)斉彬はそうした性格を承知の上で、西郷を側近として重用する。

 島津斉彬が西郷を用いようとしたとき、周囲からは「西郷は粗暴で扱いにくいから」と諌める声が多かったそうです。
 そんななかで、反対意見を押し切って自分を重用してくれた島津斉彬を、西郷はずっと思慕しつづけたのです。
 それは「忠心」ではあったのだけれども、それがあまりに強すぎたために、後継者の島津久光を軽んじ、「田舎者」よばわりまでしています。
 あらためて考えてみると、いくら斉彬を尊敬していたとしても、後継者は別人にきまっているのですから、多少無能でも、「うまくやっていく」のが処世術ではありますよね。
(久光という人は、頑固で時代の変化を受け入れたくない人ではあったようですが、「無能」というわけではなさそうですし)

「はじめに」で述べたように、西郷は世間一般のイメージとは違い度量が狭かったため敵も多く、わが身を滅ぼす結果を招いたわけだが、度量の狭さだけが理由ではなかった。一方では人望を得ていたことも、その理由だった。
 西郷は自分より目下の士卒と飲食をともにしたり、苦難を共有することを好んだ。そのため、配下には西郷のためならば死をも辞さないとする士卒が多かった。西郷にしても、自分に惚れ込み進んで死地に赴く士卒を自在に使いこなすことを、一生の快事と思っていた。
 だが、士卒の心をつかんでいたからこそ、西南戦争の時は西郷のもとに士卒が集まってきてしまい、大事になった。退くに退けなくなった西郷は、反乱軍の首領にまつり上げられる運命を甘受し、自滅への道をたどった。度量が狭かったため敵が多い反面、人望を得ていたため西郷のためなら死んでもかまわないと思う人間も多かったのである。
 西郷の場合、人からとことん好かれるか、とことん嫌われるかのどちらかだったのだろう。西郷自身、好き嫌いの感情が激しいことと無関係ではなかったはずだ。そうした性格が、薩摩藩を二分することにもなる。


 ああ、こういう人、いるなあ、と。
 自分より目下の人や部下に対しては、優しくて、つらい状況を共有してくれる一方で、(ごく少数の信頼している人を除く)上司や同僚に対しては、反発しないと気が済まない人。
 逆に、上にはいい顔をするんだけれど、部下にはキツくあたる人、というのもいますよね。


 この本を読んでいて、『項羽と劉邦』のなかでの、劉邦と、彼の部下である名将・韓信とのこんなやりとりを思い出しました。
 雑談のなかで、各将軍の能力についての話になり、それぞれの将軍が何人くらいの兵士を率いることができるか、韓信は評価していきます。
「陛下(劉邦)は、せいぜい10万人くらいでしょうか」と言う韓信に、劉邦は問います。
「じゃあ、お前は何人くらいだ?」と。
「わたしは多ければ多いほど良いです」と答えた韓信
 それを聞いて、不愉快になった劉邦は、
「それでは、なぜお前は私に従っているのだ?」と尋ねるのです。

 陛下は、兵に将たる能力はありません。しかしながら、将に将たる能力があるのです。

 それが、韓信の答えでした。


 西郷隆盛という人も、韓信と同じで「兵に将たる能力」にあふれていた一方で、「将に将たる能力」が足りなかったために、悲劇を生んでしまった人なのかな、と僕には思われます。
 韓信も、のちに反逆の罪を問われて、捕らえられ、処刑されています。
 韓信の場合は、本当に反逆しようとしていたのか、それとも、存在そのものが危険と判断されて粛清されたのか、わからないのですけど。


 維新の立役者、そして、英雄から反逆者になりながらも、愛されつづけた異能の男、西郷隆盛
 この本には、その西郷隆盛の「人格者でも、度量が大きくもなかった面」が検証されています。
 僕にとっては、かえって、「なぜこんなに持ち上げられているのかわからない人」から、「人間らしい弱さも、持っていた人」だということがわかって、親しみがわいてくる本でした。
 当時の人たちは、そういう「処世術が下手なところ」も含めて、「西郷どん」を敬愛していたのだろうな、と思うのです。