琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】友だちリクエストの返事が来ない午後 ☆☆☆☆


内容紹介
友だちの友だちは他人!
人と人とがいともたやすくつながってしまう、
そんな世の中で、はたして友だちとは何だろう?
友だちがいるって本当はウソなんじゃないのか。
この永遠のテーマを天才コラムニストが考えに考えました。


真の友をもてないのはまったく惨めな孤独である。友人が無ければ世界は荒野に過ぎない。by フランシス=ベーコン
自分の住んでいる荒野をお花畑だと思い込むことができる人間だけが真の友を持つとができる。by 小田嶋隆


 いま大人のあなた、「友だち」いますか?
 僕自身、この問いかけには、つねに困惑してしまいます。
 学生時代には「友だち」と呼べるような人は、少数ながらも存在していたし、40歳を過ぎた今になっても、彼らはたぶん「友だち」なのだと思う。
 そんなに頻繁に会うことはないけれど、「無理に会わなくてもいい」というのは、かえって、親密さ、信頼感のあらわれなのだと思う。
 ただ、僕の場合、大人になってから、「友だち」って、ほとんどできなかったなあ。
 「話し相手とか、友だちといえるのは配偶者だけという男たち」の話を以前読んで、ものすごく身につまされた記憶があります。
 職場でも、20代くらいのときは、仕事が終わってから飲みに行ったりもしていたのですが、いまは自分の家庭もあるし、そうなると、相手の家庭のことも想像してしまうし。


 その一方で、若い頃からの、「自分はこんなに友だちが少なくて良いのだろうか? 人間としての価値が低いのではなかろうか?」という疑問を引きずってもいるわけです。
 「友だち、いないんじゃない?」というのは、大人に対しても、けっこう効果的な「悪口」です。


 この本、コラムニスト・小田嶋隆さんが「友だち」について書いた文章をまとめたものです。
 小田嶋さんは「友だちがいることの優劣」ではなくて、「友だちがいないまま生きていくという現実」について、淡々と書いているように思われます。
 「ああ、友だちがいないって、案外、『普通』のことなんだな」と、思えてくるんですよね、これを読んでいると。

 もちろん、親友は、何年に一度でも、会う機会を作れば、たちまち親友に戻ることができる。
 しかしながら、親友に戻ることは、単に昔に戻っているということであって、そういう意味で現状をわかち合っているのではない。腹を割った話は、親友だからこそ、むしろ口に出せないのかもしれない。早い話が、借金の話はできない。
「親友の借金を断る人間は親友とは呼べない」
 という話は、逆方向から見れば、
「親友に借金を申し込む人間は親友とは呼べない」
 ということでもあるわけで、結局のところ、絵に描いた友情は自縄自縛に陥る。
 職場の同僚や、行きつけの飲み屋で顔を合わせる知り合いの中に、親しい人間がいないわけではない。が、彼らが「友だち」なのかというと、ちょっと違う。なにより利害関係や上下関係が介在している。
 ということはつまり、社会に出た人間は、原則として新しい友だちを作れなくなるということだ。
 もしかすると、友だちは、学校という施設の副産物だったのかもしれない。


 テレビドラマなどでは「親友なんだから、何でも相談して!」というシーンってあるじゃないですか。
 でも、僕の実感としては、大事な友だちであればあるほど、相手に負担をかけるような相談は、したくないのです。
 もちろん、どうでもいい人に、そんな相談をするわけにはいかないのだけれど。
 「親友の借金を断る人間は親友とは呼べない」というのと、「親友に借金を申し込む人間は親友とは呼べない」というのは、確かに「親友」というものの矛盾みたいなものをあらわしていて、僕のなかでの「親友」って、「こいつは、僕の『一生に一度のお願い』を、たぶん聞いてくれるはずだけど、僕はきっとそれを信じつつ、その『一生に一度のお願いカード』を使わないまま死んでいくのだろうな」という存在なんですよ。
 たぶん、向こうもそんな感じなんだと思う。


 大人になると、友人でも、しょっちゅう顔を合わせるのは、なかなか難しいのです。
 地元を離れて都会で仕事をしているような人は、なおさらでしょう。

 数年前に、ある少年事件に関連して、15歳から17歳ぐらいまでの非行少年のプロフ(インターネット上に書かれた自己紹介ページの類)を大量に閲覧したことがある。その折、彼らのあまりな幼さに痛ましい気持ちを抱かずにはおれなかった。
 彼らのプロフページには、それこそ判で押したように、同じ文言が書き連ねられている。
「仲間のためなら命を投げ出すぜ」
「最高の地元で、オレは最高の仲間に恵まれてる」
「自慢の宝物は仲間だよ」
 プロフの文面からは、彼らの「不品行」が、ある部分、「仲間」との連帯を証立てるための「儀式」であったことがありありと伝わってくる。
 逆に言えば、マトモな社会人になって、大人たちに褒められる真っ当な少年になることは、彼らの中では、そのまま仲間を裏切り続けることにつながっているようだった。あるいは、もう少し別の見方をするなら、いい歳をして、いつまでも友情なんかに絡め取られている人間は、人生を踏み誤るということだ。
 その意味で、早い段階で友だちと疎遠になった私のような人間は、要領がよかったのだと言えば言える。
 ともあれ、元ヤンと呼ばれる「昔やんちゃした男たち」は、仲間には恵まれている。
 独り立ちして、勉強したり働いたりせねばならなかった時期に、いつまでもダチとツルんでいたことの報いを受けて、彼らの多くは、高い学歴や職能とは縁の少ない暮らし方をしている。でも、その彼らは、オヤジになってなお、相変わらず一緒にバカをやれる仲間を持っている。
 いずれが勝ち組であるのか、簡単には判断できない。

 この「オヤジになってなお、バカをやれる仲間を持っている」という人たちが、いわゆる「マイルドヤンキー」と呼ばれているのです。
 ここで書かれている「仲間のため」っていうのは、「幼さ」「極論」のようでいて、日本でのさまざまな創作物(とくにエンターテインメント系)をみていると、こちらのほうが「主流」なのかもしれません。
 以前観たテレビ番組の街頭インタビューでの「人生でいちばん大切なものは?という問いに、「友だち」って答えた人が、かなり多かった記憶もあります。


 この文章は、次の一文で締められています。

 私は、もう一回生きても、どうせ同じことしかできない。まあ、それは、お互いさまだろうけど。

 うん、結局のところ、「僕も、向こうも、こういうふうにしか生きられなかった」のだよね。
 そう言ってしまえば、身も蓋もないのだけれども。

 その点、友情は、(恋愛に比べると)必ずしも定期的な面会を要しない。
 むしろ、親しい間柄であればあるほど、実際に顔を会わせる機会に依存する度合いは低くなる。早い話、10年会っていなくても、親友は親友だ。
 そういう意味では、友情は、相互関係であるよりは、個人的な自尊感情に近い。親友がしっかりと心の中に住んでいれば、頻繁に会う必要はない。顔を思い浮かべる必要さえない。ただ、この世界のどこかに、自分のことをわかってくれる人間がいると思うだけで、安心立命を得ることができる。うむ。もしかしてこれは、信仰に近いのかもしれない。
 そんなわけなので、友情という言葉なり概念が、真に迫った形で私たちの心の中に立ち現れるのは、実は、相手が死んだ時だったりする。
 というよりも、われわれは、相手の死に直面して、はじめて自分がかけがえのない友人を亡くしたことに気づくものなのだ。


 突き詰めると、友情というのは、「あいつは友だちだから」という、「自分の側にあるもの」なのです。
 家族に比べると、どんな親友でも、いなくなったら普段の生活が一変する、ということはない。


 「そういえば、俺、友だち少ない(いない)よな……」
 そんなことをふと思いついてしまった、絶賛ミッドライフクライシス(中年の危機)の皆様にはオススメです。
 まあでも、「もう一回生きても、どうせ同じことしかできない」のだよね、自分でもわかっちゃいるのだけどさ。