琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来 ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
富の偏在、環境・資源の限界など、なおいっそう深刻化する課題に、「成長」は解答たりうるか。近代科学とも通底する人間観・生命観にまで遡りつつ、人類史的なスケールで資本主義の歩みと現在を吟味。定常化時代に求められる新たな価値とともに、資本主義・社会主義エコロジーが交差する先に現れる社会像を、鮮明に描く。


 20世紀は、資本主義と社会主義の邂逅の時代でした。
 ソ連・東欧の共産党政権の崩壊と、ITの進化にともなう、グローバル経済の発展で、資本主義が「勝利」したというのが、一般的な見解でしょう。
 では、この「資本主義」の先には、何が待っているのか?
 それとも、資本主義というのは、人類にとっての「究極の政治・経済の形態」であり、「袋小路」なのだろうか?
 水野和夫さんの『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)には、「世界からフロンティアが失われ、すべての地域が『グローバル化』してしまえば、『後進地域からの労働力の搾取』ができなくなり、資本主義は行き詰まってしまうのではないか?」という話が採りあげられていました。
 人類誕生以来、増加の一途をたどり、とくに産業革命以降は激増してきた地球の人口も、21世紀の半ばくらいをめやすに、百数十億人程度でピークに達し、定常状態となることが予測されています。
 それが一過性の現象で、何かのブレイクスルーをきっかけに、人間はまたどんどん増えていくのか、それとも「停滞の時代」が続くことになるのか。

 近代科学と資本主義という二者は、限りない「拡大・成長」の追求という点において共通しており、その限りで両輪の関係にある。しかし地球資源の有限性や格差拡大といった点を含め、そうした方向の追求が必ずしも人間の幸せや精神的充足をもたらさないことを、人々がより強く感じ始めているのが現在の状況ではないか。
 このように考えていくと、カーツワイルのいう「特異点」とはむしろ逆の意味で、私たちの生きる時代が人類史の中でもかなり特異な、つまり”成長・拡大から成熟・定常化”への大きな移行期であることが、ひとつのポジティブな可能性ないし希望として浮上してくる。

 僕が生まれて40数年。人類はスペースコロニーで生活するようにはならなかったし、ロボットカーで未来都市を自由に移動できるようにもなっていない。
 でも、手のひらサイズのスマートフォンで、欲しい情報をいつでも手に入れられるようになるとは、30年前は思ってもみなかったわけで。
 なんのかんの言っても、人間の世界は「進歩」してはいるんですよね。


 しかし、地球上から「フロンティア」が失われ、人口も定常状態から斬減、という時代になれば「絶え間ない成長」が大前提である、これまでの資本主義は成り立たなくなっていきます。
 では、その「資本主義の次に来る社会は?」というのが、この新書での問いなのです。


 この新書のなかでは、資本主義のさまざまな「かたち」が紹介されています。
 アメリカの「医療政策」について。

 そして、戦後アメリカの科学政策のもう一つの特徴は、軍事分野以外では、医療あるいは医学・生命科学研究分野に圧倒的な予算配分を行ってきたことである。
 その象徴的存在が、他でもなく世界最大の医学・生命科学研究・助成機関ともいえるNIH(National Institutes of Health、国立保健研究所)だが、たとえば2015年度の政府研究開発予算のうち、国防省予算を除く部分の4割以上(44.9%)をNIHの予算が占めており、さらに基礎研究のみに注目すれば、NIH(軍事関連を含む)アメリカ政府の全研究開発予算の実に約半分(49.8%)を占めている。


(中略)


 加えて、アメリカにおいて医療分野の科学研究予算が大きく拡大していったもう一つの背景として、次のような政策選択をめぐる展開があった。
 それは、戦後まもないトルーマン政権の時代に「国民皆保険制度」創設の是非が大きな議論になった際、「医療分野において政府が果たすべき役割はそもそも何か」という点が基本的な争点となり、最終的に、”医療分野において政府が主な役割を担うのはその研究支援(特に基礎研究)に関することであり、公的医療保険の整備など、そうした成果を個人が享受できるか否かについては、市場あるいは「私」の領域に委ねればよい”という基本的な判断がなされたのである。
 象徴的に言えば、アメリカにおいて”世界最高の医学”が研究・技術面において実現していくことを政府は積極的に支援するが、その成果が受けられるか否かは、それぞれの個人の自助努力(実質的には医療サービスの対価を支払う能力)に委ねられる、という考え方である。これは20世紀後半における「科学国家」(アメリカ)と「福祉国家」(ヨーロッパ)の分岐という把握とそのまま重なっている。


 アメリカは、「オバマケア」まで国民皆保険制度に対して政府が(というか、共和党が)冷淡であった、ということもあり、「医療をないがしろにしている」というイメージがあるのですが、たしかに「最大の医学研究大国」であり続けているのです。
 それは、「医療のどの方面にお金を使っていくか」という選択の結果なんですね。
 民間保険会社の利益追求のため、というイメージが強いのですが、それだけではない。
 そして、世界各国も、そういう「普通の患者が受ける医療」を犠牲にして突き進む、アメリカの最先端の技術の恩恵を受けている面があります。
 

 また、著者は「生産性」という概念の転換についても言及しています。

 それは「労働生産性から環境効率性(ないし資源生産性)へ」の転換と呼ばれるもので、このように表現すると難しく響くが、その中身は以下のようにシンプルなものだ。
 すなわち、かつての時代は「人手が足りず、自然資源が十分ある」という状況だったので「労働生産性」(=少ない人手で多くの生産を上げる)が重要だった。しかし現在は全く逆に、むしろ”人手が余り(=慢性的な失業)、自然資源が足りない”という状況になっている。したがって、そこでは「環境効率性(資源生産性)」、つまり人はむしろ積極的に使い、逆に自然資源の消費や環境負荷を抑えるという方向が重要で、生産性の概念をこうした方向に転換していくことが課題となる。


 技術は、どんどん「人間が必要なくなる方法へ」進化していきます。
 それをさらに押し進めていくことは可能なのだけれど、そうすると、人間の仕事がなくなり、みんな失業してしまう。
 むしろ、「生産効率性をおさえて、人間の仕事を確保する」ことを意識すべき世の中に、なってきているのです。
 ベーシンクインカムで、「働きたくない人は、働かなくてもいい社会」という選択肢も、これから出てくるのかもしれませんが、人は、案外「働きたい」生きものでもあるんですよね。


 この新書を読んでいると、これから人口が減り、高齢化もすすんでいく日本という国、自分たちが思いこんでいるよりも、はるかに「格差」が広がってしまった国の「針路」について考えずにはいられません。
 この時代に「よりいっそうの経済成長」ばかりを追い求めることが、はたして現実的な選択なのだろうか。

 それではなぜ、このように「福祉」(ここでは格差の度合い)と「環境」のありようは一定程度相関するのだろうか。
 これは従来あまり論じられていない、それ自体興味深いテーマだが、おそらく次のようなメカニズムが働いているのではないか。すなわち、格差が相対的に大きい国ないし社会においては、その度合いが大きいほど、(1)(俗に言う”負け組”になった場合の困窮の度合いが大きいため)自ずと「競争(ないし上昇)圧力」が高まり、(2)しかも格差が大きいということは「再分配」(による平等化)への社会的合意が低いことを意味するから、これら(1)(2)の結果、自ずと「パイの拡大=経済成長による解決」という志向が強くなり、環境への配慮や持続可能性といった政策課題の優先度は相対的に下がるということである。
 逆に一定以上の平等が実現されている社会においては、競争(上昇)圧力は相対的に弱く、また再分配への社会的合意も一定程度存在するため、「経済成長」つまりパイ全体を拡大しなければ豊になれないという発想ないし”圧力”は相対的に弱くなるだろう。
 それは(家族や集団を超えた)「分かち合い」への合意が浸透しているということでもあり、つまりこれら「福祉/環境」関連指標や社会像への背景には、そうした人と人との関係性)ひいては人と自然の関係性)のありようが働いているのだ。

 「格差」があるほど、競争圧力が強くなり、「経済成長による解決」が志向される、と著者は考えているのです。
 いまの日本の状況をみると、たしかにそうだよなあ、と。
 生活保護に対するネット上での厳しい意見などをみると、「再分配への社会的合意が低い」とも感じますし。
 

 日本は少子高齢化、経済の停滞など、「資本主義の『その後』を世界に先駆けて体験している国」なのです。
 しかし、頭ではわかっていても、「定常化」を選択し、受け入れるのは、なかなか難しいことではあるのかもしれません。
 なにしろ、人類にとって、初めて体験する状況ですから。

アクセスカウンター