琥珀色の戯言

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【読書感想】「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気 ☆☆☆☆


「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気

「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気

内容紹介
「ヤマトがあったから僕はアニメを見続けることができた」――庵野秀明(監督・プロデューサー、2008年・西崎義展との対談より)


日本アニメの金字塔「宇宙戦艦ヤマト」が誕生してから40年以上になる。生みの親であるプロデューサー西崎義展(1934ー2010)はすべてにおいて「特異な男」だった。交流をもった者は誰もが彼を「悪党」と評しながらも、そこには深い愛憎が見てとれる。いまや世界の文化である日本アニメを語るうえで無視することができない西崎義展の存在を、その大いなる成功と挫折から綿密に描く初の本格的ノンフィクション


宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー・西崎義展が、遊泳のため訪れていた小笠原・父島で船上から海へ転落。午後二時五八分、死亡が確認された―。
平成二二(二〇一〇)年一一月七日、その夜半にもたらされた一報に首をかしげる関係者は少なくなかった。
「もしや西崎は消されたのではないか。あの男はそれだけの恨みを買っている」
またたく間に、本気ともブラックジョークともつかぬ他殺説が世間に流布されていった。(「序章」より)


 2010年11月に、西崎さんの訃報が伝えられましたが、僕はそれを知って、「なんで、プロデューサーの死が、こんなに大きく報道されるのだろう?」と、ちょっと疑問だったのですよね。
 西崎さんのことは、松本零士さんとの「『宇宙戦艦ヤマト』は誰のものか裁判」で話題になったときに名前を耳にしたくらいで、「いまさら『ヤマト』にこんなにこだわっても、そんなに良い事あるのかねえ」なんて思っていました。

 西崎は作家気質のプロデューサーだっただけでなく、勝負勘に秀でた興行師でもある。初の映画公開では、捨て身の一発勝負にもひるまない大胆さを発揮した。映画には素人同然の個人プロデューサーが一流スタッフ陣を束ね、悪戦苦闘して作り上げた未知のオリジナル作品を世に問う。――このチャレンジストーリーには、それだけで時代を越えた痛快さがある。しかも西崎は制作費を全額自己出資するという大リスクを負っていた。映画が当たれば利益は総取り、外せば身の破滅という大博打である。はたから見れば、これほど面白いドラマはない。

 一躍ヒーローとなった西崎は、他殺説がまかり通るほどの無頼なイメージそのままに、儲けた大金を気前よく吐き出した。豪華クルーザー、高級外車、銀座の高級クラブ、そして数えきれぬほどの愛人たち――。常識外の派手な私生活でも西崎は世間の耳目を集めた。

 
 この本を読んで、『宇宙戦艦ヤマト』というのは、アニメ界、いや日本の映画界に大きな影響を与えた作品であり、西崎さんというのは、「日本では数少ない、自分で身銭を切って作品をつくって勝負する、独立したプロデューサーだった」ということを知りました。
 そして、仕事においても、プライベートでも、とにかく「破格」というか「とんでもない」人だったということも。
 

 この間、吉田は西崎の金銭感覚について忘れがたい側面を見ている。断っておくが吉田が忘れがたいのは浪費という意味ではない。その反対でケチ、あるいは倹約家という意味合いである。
 吉田は西崎に声優プロダクションとの交渉を任された時期がある。予算が1000万円だとすると、ようやくその範囲で収め、ほっとしたところに西崎からお呼びがかかった。
「吉田、ご苦労。だいたい決まったらしいな」
「はい、なんとか1000万円で収めました」
「それをな、もうひとひねりしてくれ」
「えっ、ひとひねりってなんですか」
「800万で収めてくれ」
 ここまで値切りに値切ってきた吉田にしてみれば、たまったものではない。再交渉の末、疲れ果てた吉田は西崎に報告する。
「すいません、どうしても800万にはなりません。今ようやく890万円まで落としましたが」
「いやご苦労、それでいい。でも俺が言ったおかげで110万節約できた。その金で銀座へ飲みに行こう」
 出かけた先は、二人で最低60万円はかかる高級店だった。
「西崎ってのは悪い野郎だね。でも俺はそういうやり方が面白いと思った。悪知恵を使ってでも図太く生き残る戦国時代みたいでね」(吉田)
 ある高名なアニメーター引き抜きの際も西崎は吉田を困惑させた。
「外車買えるくらいの金を出すから、こっちへ引っ張ってこいよ」
 吉田は間に立って交渉し、引き抜きに成功した。西崎は初めてそこで金額を明かす。
「あいつのギャラはこれだ」
「そんなんじゃ外車なんか買えないじゃないか」
「外車の新車って言った覚えはない。中古車なら買えるだろう」
 こうなると悪知恵というより頓知話になる。ただし西崎は冗談でなくこうしたケチぶりを発揮することがある。正確に言えば究極の値切りだろう。言い値は豪気でも、払う段になると手のひらを返して渋くなる。特に後年は銀座の飲み代もずいぶん値切ったというし、クルーザー代金の未払いで大損をさせられた業者もいる。


 それ、銀座で一晩に使うんだったら、声優さんに払ってあげてよ……
 「普通のひと」だったら、そうするはずです。
 1000万円で「ようやく収まった」ものを、さらに890万(この数字のキリの悪さがまた、リアルなんですよね……)まで値切ったのに。
 ギャラが下がって悲しんでいる声優さんもいるはずなのに。
 

 こういう「うさんくさいエピソード」が、この本には満載なのです。
 強引で、人をひきつける魅力はあり、自分がこだわっている部分には妥協しない。
 その一方で、土壇場になって、ついてきた人を裏切ったり、約束を守らなかったり。
 「山師」だとしか言いようがないのだけれど、それでもこの人は『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを作り続けることができたし、複数の愛人をとっかえひっかえしていた。


 この本を読むと、『宇宙戦艦ヤマト』とくに『さらば宇宙戦艦ヤマト』が、こんなにも大ヒットした映画だったのか、と驚かされます。
 このオリジナルアニメの大ヒットは、映画界を変えていくことになりました。

 昭和53(1978)年8月5日「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」公開。
 結果を先に記せば、「さらば」は歴史的な大ヒットとなった。その成果をざっと数字で示しておこう。以下、カッコ内は劇場版「ヤマト1」の数字である。
 観客動員数400万人(230万人)、配給収入21億円(9億円)、興行収入43億円(21億円)。どの記録も前作から倍増している。なお、この年の邦画、洋画を合わせた配給収入ベスト5は以下のようになる。第1位「スター・ウォーズ」44億円。第2位「未知との遭遇」33億円、第3位「007 私を愛したスパイ」32億円、第4位「野性の証明」22億円、第5位「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」21億円。ハリウッドの大作と並んで「ヤマト」は引けを取っていない。
 また、当時、戦後に公開された邦画の配収記録は「八甲田山」の25億円を筆頭に、以下「人間の証明」「野性の証明」と続き、次いで「さらば」がランクイン。アニメ映画としては平成元(1989)年、「魔女の宅急便」(宮崎駿・監督)が配収21億5000万円を上げるまで「さらば」が長く配収記録のトップであり、同時にLP売り上げ38万6000枚は、「アナと雪の女王」(平成26年・2014)のCD売り上げに抜かれるまでアニメ映画の歴代トップだった。
 日本アニメ史上のエポック・メーキングとされる所以である。


 『さらば宇宙戦艦ヤマト』って、そんなにすごい「現象」だったのか……
 僕が映画館でアニメ映画を観るようになったのは『ドラえもん のび太の恐竜』(ドラえもん映画の第1作)からで、「ヤマト現象」については、まだ小学校低学年だったこともあり、まったく記憶にないんですよね。
 『機動戦士ガンダム』シリーズや、『銀河鉄道999』など、大ヒットしたアニメ映画の記憶はいくつかあるのだけれど、『さらば宇宙戦艦ヤマト』は、ジブリのヒット方程式が成立する『魔女の宅急便』まで、「日本でいちばんヒットしたアニメ映画」であり続けたのです。
 『ヤマト』で西崎さんがとった宣伝方法も、同人誌などをつくっているファン達に協力を呼びかけて、そのコミュニティから盛り上げていったり、「オールナイトニッポン」で特別番組をやったりという画期的なものでした。
 西崎さんは、制作費を全部出していたわけですから、利益も総取りで、ものすごい儲けになったはずです。


 僕の記憶にある『ヤマト』は、「登場人物がどんどん死んでいく『特攻アニメ』」というのと、「死んだ人が次の作品になると、なぜか蘇っているゾンビアニメ」みたいな感じではあったんですけどね。
 一世代前の人にとって「アニメの代名詞」だった『ヤマト』は、『ガンダム世代』の僕にとっては、ちょっと旧いイメージがありました。
 映画の興行成績も、この『さらば宇宙戦艦ヤマト』をピークに、続編をつくるたびに右肩下がりとなっていきます。
 
 
 そんな逆境のなかでも、西崎さんは、『ヤマト』を作り続けた。
 というか、実際には「『ヤマト』以外の作品は、全くヒットしなかった」というのもあるのですけど。
 儲けたお金で豪遊し、愛人を囲い、また『ヤマト』の続編を撮った。
 この本のなかで、『ヤマト』の続編(劇場版第4作の「完結編」)で、沖田艦長が蘇った話が出てくるのですが、あれは、子どもの頃の僕にも「失笑もの」でした。

「沖田の死亡宣告は主治医の誤診であり脳死には至っていなかった、その後に開発された新医療技術で沖田は命を取りとめた」という見事なまでのご都合主義だった。

 あの、「地球か…何もかも 、みな懐かしい」にジーンときていた僕は、椅子からずり落ちてしまいましたよ本当に。
 『ヤマト』映画の末期のほうは、いろんなことが破綻していて、作るほうも作るほうだけれど、それでも観に行っていた人たちが、少なからずいたんですよね。
 ファンって、ありがたいものだよなあ。

 ここで西崎が愛人たちと過ごした自宅マンションについて説明しよう。
 赤坂七番館には昭和53(1978)年頃から済んでいる。愛人用の住居は近くのハイトリオマンション(社員たちの通称では八番館)に用意されていた。妻子がいる品川区荏原の家(三番目の妻との住居)には新婚時代を除いて休日も寄りつかず、まさに独身貴族と見まがう生活である。ちなみに七番館への入居時期は「さらば」製作中の頃である。この時期、西崎はやることなすことパワフルだった。七番館では同タイプの住戸を四階、五階と上下で購入していたが、入居するとすぐに四階の天井をぶち抜き、らせん階段で上下へ行き来できるように改築してしまう。もちろん売却時には原状回復の大工事が必要となった。さらに西崎は青空駐車場に自分のハーレーダビッドソン10台を置くため、屋根付きのスペースを作った。これは貸し主に事前承認を得ていなかったため、トラブルになりかけたという。
 西崎は「ヤマト」に登場するガミラス帝国のデスラー総統がお気に入りだった。
デスラーと容姿が似ていることを意識して、セリフを暗唱したり、演技をしてみたり、すっかりその気になって、『赤坂のデスラー』を自称していました」(山田)
 優雅にして冷酷、独自の哲学を持った青年貴族に心酔し、本物に近づくための努力を西崎は惜しまなかった。周囲の者も笑い話にできないほど、その様子は真剣だった。


 この話を本でいま読んだ僕としては、失笑を禁じ得ない、というのが正直なところです。
「赤坂のデスラー」って!
 まあでも、こういうエピソードが世間に公開されているのを読むと、あんまり人に恨みを買ったり、有名になったりするものじゃないな、とも思うんですけどね。
 この西崎さんの「過剰」っぷりは、直接の関係者ではない僕にとっては、けっこう爽快でもあるのです。
 あんな自己犠牲、滅私奉公的な『ヤマト』のプロデューサーが、ここまでのエゴイストだとは!
 

 関係者の誰に聞いても、西崎は目立ちたがり屋で、大ぼら吹きで、金にルーズで、女ったらしで、疑い深い独裁者だった。罵声を浴びせられ、裏切られ、人生を狂わされた部下も多い。しかし、こうした証言が死者に鞭打つことにはならないはずである。なぜなら品行方正な常識人に映画の個人プロデューサーがつとまる訳もなく、まして全財産を賭けた大博打など打てる道理がない。その現実を関係者は知り抜いているからである。

 なんでこんな人が……と思うのだけれど、世の中には、こういう人だからこそできること、もある。
 いまのハリウッド映画では、興行の失敗を防ぐために、正式な公開前にいくつかのエンディングのパターンをつくり、観客の反応をみて「完成版」を決めることもあるそうです。
 たぶん、そういう方式では、『宇宙戦艦ヤマト』のような映画は、生まれなかったはず。


 とにかく、過剰で、面白すぎる人生を送った人なんですよ、西崎さんって。
 もちろん、そう言えるのは、僕が直接関わることはなかったから、なのでしょうけど。

 

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