- 作者: 飯間浩明
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2015/04/16
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
- 作者: 飯間浩明
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内容紹介
言い方次第で、人間関係もぐっと変わる! 『三省堂国語辞典』編纂者が探究する、今よりちょっと上の日本語生活とは
敬語は省略してさりげなく使う/読点(、)は、どのタイミングで打つのか/「さみしい」と「さびしい」の違いとは……
著者は、辞典編纂のため、活字・放送・インターネット、さらには街の中などから、あらゆる日本語を「用例採集」し、日々ことばと向き合いながら暮らしている。ちょっと工夫した表現の提案など、人付き合いもよくなることばの使い方を本書にまとめた
たとえば、気になる日本語として「あやまる」と「わびる」の違いについて、生きた紋切型の表現とはなにか、敬語を省略してうまく使う、穏やかに注意する方法のほか、漢字と仮名の使い分け、読点(、)の付け方、辞書の活用法、多岐にわたって提案をする。さりげないけれど、これを知っているとお互い気持ちよく過ごせる表現方法が満載!
三浦しをんさんの『舟を編む』がきっかけになって注目を浴びるようになった「辞書編纂者」。
この新書には、『三省堂国語辞典』の編纂者によって書かれた「日常生活で、ちょっと引っかかることが多い言葉の使いかたや言い回し」についての考察が述べられています。
辞書編纂者の著書には、辞書の裏話、みたいなものが多いのですが、これは「言葉づかいの実践編」という感じがします。
「言葉の使いかた」という内容だと、「いまの日本語はなっとらん!」みたいなお説教が続くのかと思いきや、著者は長年、辞書の改訂作業を通じて「言葉の変遷」を見つづけているので、けっこう「いまの言いまわし」に対して肯定的というか、「正しい日本語」という概念にとらわれていないのです。
「正しい」「正しくない」ではなく、「その言い方が相手に好感を与えるかどうか」。
もちろん、言葉についての蘊蓄も、たくさん紹介されています。
「あやまる」と「わびる」とは、意味がはっきり違いますが、しばしば混同されます。私たちは、「わびる」べき場面で「あやまる」ことがよくあります。
「あやまる」(謝る)は、日本語としては「誤る」と同じで、自分が間違っていたことを認めることです。
たとえば、2人が喧嘩をして、双方とも「あなたが悪い」と言っていたのに、一方がよく考えて「やはり自分が悪かった。ごめんなさい」と言った。これは「あやまった」ことになります。喧嘩の場合は、あやまることで決着がつきます。
これに対し、「わびる」は、間違いかどうかは直接関係ない場面でも使います。
ある夕方、肉屋さんは、その日に揚げたコロッケを売り尽くしてしまいました。やって来たお客さんに対して、「すみません、売り切れです」と頭を下げます。
これが「わびた」ということです。この場合、肉屋さんは間違っていたわけではありませんが、相手に気の毒なことをしたと考えて、頭を下げたのです。
著者は「相手はどう思っているのだろう、と推し量るのが『わびる』」だと仰っています。
このコロッケのたとえは、すごくわかりやすい話だな、と。
そう考えると、他人に「謝れ!」と要求することはできても、「詫びろ!」というのは、ちょっと筋違いのような気がしますね。
「しかし」「でも」「だけど」などの逆説表現がなくてもいいところで使われすぎているのではないか、という話には、僕も考えさせられました。
僕も「しかし」「でも」大好きというか、自分でも使い過ぎだな、と思っていたので。
でも(ほら!)、これがないと、なんとなく座りが悪いような気がしていたんですよね。
「しかし」や「でも」を使うか使わないかは、あくまで書き手が決めることです。
運動会の日の天気が小雨だったとします。このとき、「しかし、運動会は行われた」と書くか、「だから、運動会は行われた」と書くかは、書き手の考え次第です。
「小雨なら、普通は中止になる」と考える人は「しかし」を使います。一方、「小雨なら、普通は予定どおり行う」と考える人は「だから」を使います。ものの見方が変われば、使う接続詞も変わります。
私ならどう書くか。できれば、「しかし」も「だから」も使いたくないのです。
「その日は小雨でした。運動会は予定どおり行われました」
こう書けば、接続表現は必要ありません。「しかし」と書いても「だから」と書いても、違和感を持つ読者は出てくるでしょう。それなら、最初から使わなければいいのです。
たしかに、接続表現って、なければないで、とくに問題なく伝わることが多いのです。
それに、あまりに濫用していると、いざというときの「しかし」の力が弱くなってしまう。
僕は最近、意識して「しかし」「でも」を使わないようにしています。
日常会話においても、です。
こういう「逆説表現」が多い文章って、同じ内容でも、グダグダしているというか、愚痴を言っているような印象を与えがちなんですよね。
それはそれで、ひとつの「型」なのかもしれませんが。
著者の「ツイッターで発言するにあたっての自分ルール」が3つ紹介されているのですが、そのなかの1つに、こんな内容がありました。
第1に、発言する回数を多くすることにこだわらない。私は、考えが泉のように湧き出るタイプではありません。多くの人に有用な情報を、毎日そんなに多く用意することはできません。さほど役に立たない情報で読者の時間をむだにするよりは、むしろ発言しないほうを選びます。いったん「このことを書こう」と決めたからには、読者に楽しんでもらえるよう、下書きを何度も書き直します。
僕などは「思いついたことを垂れ流している」し、ツイッターに「下書き」を書いていることも多いのです。
そういうのがツイッターの使い方なのだと思い込んでいたのですが、短文のツールだからこそ、こういうやり方で推敲していくことによって「差別化」できるところもあるのかな、と。
なぜ、風邪は「引く」というのか?など、使い慣れすぎていて、疑問にすら感じなかった話も紹介されていて、興味深い一冊でした。
「言葉好き」なら、読んでみて損はしない新書です。