琥珀色の戯言

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【読書感想】職業としての小説家 ☆☆☆☆


職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

内容紹介
いま、世界が渇望する稀有な作家──
村上春樹が考える、すべてのテーマが、ここにある。
自伝的なエピソードも豊かに、待望の長編エッセイが、遂に発刊!


 あの「マスメディア嫌い」「表に出るのを好まない」村上春樹さんが「自分語り」を!
 と、この本のことを最初に耳にしたときには、ファンのひとりとして小躍りしたのですが、冷静に考えてみると、村上春樹さんは『村上さんのところ』など、読者との交流を通じて、けっこう「自分のこと」を話しておられますし、それ意外にも、「自分語り的なエッセイや、意見表明的な文章」を少なからず発表しているんですよね。
 むしろ、いまの日本の作家で、村上さんほど「自分語りが流通している人」は他にいないくらいです。
 それらが発表されている媒体も、朝日新聞や『文藝春秋』といった、大手メディアがほとんどですし。
 まあ、それでもこの『職業としての小説家』では、村上さんが腰を据えて自分の来た道、行く道について語っており、大変興味深いものでした。


 村上さんは「小説家であること」について、こう仰っています。

 しかしリングに上がるのは簡単でも、そこに長く留まり続けるのは簡単ではありません。小説家はもちろんそのことをよく承知しています。小説をひとつふたつ書くのは、それほど難しくはない。しかし小説を長く書き続けること、小説を書いて生活していくこと、小説家として生き残っていくこと、これは至難の業です。普通の人々にはまずできないことだ、と言ってしまっていいかもしれません。そこには、なんと言えばいいのだろう、「何か特別なもの」が必要になってくるからです。それなりの才能はもちろん必要ですし、そこそこの気概も必要です。また、人生のほかのいろんな事象と同じように、運や巡り合わせも大事な要素になります。これは備わっている人には備わっているし、備わっていない人には備わっていません。もともとそういうものが備わっている人もいれば、後天的に苦労して身につける人もいます。
 この「資格」についてはまだ多くのことは知られていないし、正面切って語られることも少ないようです。それはおおむね、視覚化も言語化もできない種類のものだからです。しかし何はともあれ、小説家であり続けることがいかに厳しい営みであるか、小説家はそれを身にしみて承知しています。


 僕が村上さんの日常についての話を読むたびに痛感するのは「小説を書く、書き続けるというのは、精神的にだけでなく、肉体的にも負担がかかる、地道な作業なのだな」ということです。
 村上さんがマラソンやトライアスロンを続けているのは、よく知られているのですが、村上さんは「精神力というのは、ある程度の体力がないと維持し続けるのは難しい」ということを自覚し、ストイックなトレーニングを続けているのです。
 三島由紀夫は他人に見せる肉体をつくるためにボディビルに励んだけれど、村上春樹は、小説家としてリングに上がり続けるために、トレーニングを行っている。

 あくまで僕の個人的な意見ではありますが、小説を書くというのは、基本的にはずいぶん「鈍臭い」作業です。そこにはスマートな要素はほとんど見当たりません。一人きりで部屋にこもって「ああでもない、こうでもない」とひたすら文章をいじっています。机の前で懸命に頭をひねり、丸一日かけて、ある一行の文章的精度を少しばかり上げたからといって、それに対して誰が拍手をしてくれるわけでもありません。誰が「よくやった」と肩を叩いてくれるわけでもありません。自分一人で納得し、「うんうん」と黙って肯くだけです。本になったとき、その一行の文章的精度に注目してくれる人なんて、世間にはただの一人もいないかもしれません。小説を書くというのはまさにそういう作業なのです。やたら手間がかかって、どこまでも辛気くさい仕事なのです。

 長篇小説を書く場合、一日に四百字詰原稿用紙として、十枚見当で原稿を書いていくことをルールとしています。僕のマックの画面でいうと、だいたい二画面半ということになりますが、昔からの習慣で四百字詰で計算します。もっと書きたくても十枚くらいでやめておくし、今日は今ひとつ乗らないと思っても、なんとかがんばって十枚は書きます。なぜなら長い仕事をするときには、規則性が大切な意味を持ってくるからです。書けるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません。だからタイム・カードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。


 こうして何時間かかけて、ブログを書いて更新すれば、その直後から、アクセス数とかブックマークなどの「反応」があります。
 Twitterなら、もっと即座にリアクションがあるはず。
 そういう「即応性のメディア」に慣れていると、「何ヵ月もかけて長篇小説を書く」というのは、ものすごくまだるっこしい仕事だと思うのです。
 いや、世の中の大部分の人にとっては、「小説を読むのならともかく、書く側になるのは難しい」はず。


 この本のなかで、村上さんは「文学賞」や「本を読む人=読者」についても、かなり丁寧に言葉を重ねているのです。

 あくまで目安に過ぎないのですが、習慣的に積極的に文芸書を手に取る層は、総人口のおおよそ5パーセントくらいではないかと僕は推測しています。読書人口の核(コア)とも言うべき5パーセントです。現在、書物離れ、活字離れということがよく言われているし、それはある程度そのとおりだと思うんだけど、その5パーセント前後の人々は、たとえ「本を読むな」と上から強制されるようなことがあっても、おそらくなんらかかたちで本を読み続けるのではないかと想像します。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』みたいに、弾圧を逃れて森に隠れ、みんなで本を暗記しあう……とまではいかずとも、こっそりどこかで本を読み続けるんじゃないかと。もちろん僕だってそのうちの一人です。
 本を読む習慣がいったん身についてしまうと――そういう習慣は多くの場合若い時期に身につくのですが――それほどあっさりと読書を放棄することはできません。手近YouTubeがあろうが、3Dビデオゲームがあろうが、暇があれば(あるいは暇がなくても)進んで本を手に取る。そしてそういう人たちが二十人に一人でもこの世界に存在する限り、書物や小説の未来について僕が真剣に案じることはありません。電子書籍がどうこうというようなことも、今のところとりたてて心配はしていません。紙だろうが画面だろうが(あるいは『華氏451度』的な口頭伝承だろうが)、媒体・形式は何だってかまわないのです。本好きの人たちがちゃんと本を読んでくれさえすれば、それでいい。
 僕が真剣に案じるのは、僕自身がその人たちに向けてどのような作品を提供していけるかという問題だけです。それ以外のものごとは、あくまで周辺的な事象に過ぎません。だって日本の総人口の5パーセントといえば、600万人程度の規模になります。それだけのマーケットがあれば、作家としてなんとか食べ繋いでいけるのではないでしょうか。日本だけではなく、世界に目を向ければ、当然ながら、読者の数はもっと増えていきます。


 ここまで、潔いというか、「自分は、本好きの5パーセントを相手にして書いているのだ」と明言されていることに、僕は圧倒されてしまいました。
 いま、日本でいちばん(そして、世界でも有数の)「売れている作家」なのに。
 村上さんが、大ベストセラーとして君臨し続けているのは、それを目指しているからではなく、あくまでも「結果」だということのようです。
 率直にいって、村上春樹作品は、そんなに「わかりやすい」とも言いがたいし。
 でも、僕みたいな人間に「みんなにはわからないかもしれないけど」と、ちょっと勘違いさせてしまうくらいの難易度設定というのが、村上さんの上手さでもあるのだろうな。

 最初に小説を書こうとしたとき、いったいどんなことを書けばいいのか、まったく考えが浮かびませんでした。僕は親の世代のように戦争を体験していないし、ひとつ上の世代の人たちのように戦後の混乱や飢えも経験していないし、とくに革命も体験していないし(革命もどきの体験ならありますが、それはとくに語りたいようなしろものではありませんでした)、熾烈な虐待や差別にあった覚えもありません。比較的穏やかな郊外住宅地の、普通の勤め人の家庭で育ち、とくに不満も不足もなく、とくに幸福というのでもないにしても、とくに不幸というのでもなく(ということはおそらく相対的に幸福であったのでしょうが)、これといって特徴のない平凡な少年時代を送りました。学校の成績もそれほどぱっとはしなかったけれど、とりたてて悪くもなかった。まわりを見回してみても、「これだけはどうしても書いておかなくてはならない!」というものが見当たりません。何かを書きたいという表現意欲はなくはないのですが、これを書きたいという実のある材料がないのです。そんなわけで、僕は29歳を迎えるまで、自分が小説を書くことになるなんて考えもしませんでした。書くべきマテリアルもなければ、マテリアルのないところから何かを立ち上げていけるほどの才能もありません。僕にとって小説というのは、ただ読むだけのものだと思っていました。だから小説はずいぶんたくさん読みましたが、自分が小説を書くことになるなんて、とても想像できなかった。
 僕は思うんですが、こういう状況って、今の若い世代の人たちにとってもだいたい同じようなものなんじゃないでしょうか。というか、僕らが若かったときよりも更に「書くべきこと」が少なくなっているかもしれません。じゃあ、そういうときどうすればいいのか?
 

(中略)


 僕が最初の小説『風の歌を聴け』を書こうとしたとき、「これはもう、何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」と痛感しました。というか、「何も書くことがない」ということを逆に武器にして、そういところから小説を書き進めていくしかないだろうと。そうしないことには、先行する世代の作家たちに対抗する手段はありません。とにかくありあわせのもので、物語を作っていこうじゃないかということです。

 村上春樹ファンにとって、そして、書くことを続けていきたいと考えている人にとっては、あまりにも金言が多すぎて、いくら引用してもし足りないようなエッセイ集です。
 それと同時に、大事なのは、「誰かのやり方を真似するのではなく、自分のやり方を見つけ出すこと」なのだというのも伝わってくるのです。
 村上春樹さんが、神宮球場でヤクルトの試合を観戦中に「天啓」みたいなものを受けて、小説を書くことを決めたというのは、わりと有名な話なのですが、この話を聞いて、「僕もマツダスタジアムで同じような閃きが無いものか」って長年思っていたんですよ。
 でも、ようやくわかりました。
 このエピソードは、「きっかけなんて、そんな特別なものじゃないんだ。それは重要なことじゃないんだ」って意味だったんじゃないか、って。
 この本のオビに、村上さんの長年の盟友である柴田元幸さんがこう書いておられます。

(前略)

 だから、小説を書こうとしている人に具体的なヒントと励ましを与えてくれることは言うに及ばず、生き方を模索している人に(つまり、ほとんどすべての人に)総合的なヒントと励ましを与えてくれるだろう――何よりもまず、べつにこのとおりにやらなくていいんだよ、君は君のやりたいようにやるのが一番いいんだよ、と暗に示してくれることによって。

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