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【読書感想】反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 ☆☆☆☆


反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)


Kindle版もあります。

反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―(新潮選書)

反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―(新潮選書)

内容紹介
民主主義の破壊者か。あるいは格差是正の救世主か。アメリカでは、なぜ反インテリの風潮が強いのか。なぜキリスト教が異様に盛んなのか。なぜビジネスマンが自己啓発に熱心なのか。なぜ政治が極端な道徳主義に走るのか。そのすべての謎を解く鍵は、米国のキリスト教が育んだ「反知性主義」にある。反知性主義の歴史を辿りながら、その恐るべきパワーと意外な効用を描く。


反知性主義」とは何か?
この言葉、最近よく見かけるようになったのですが、僕は漠然と「小難しい、よくわからないことばかり言っている知識人に反発し、『もっとわかりやすく説明しろよ!』と開き直る態度」みたいなものだと思っていました。


 以前読んだ『日本の反知性主義』という本のなかで、内田樹さんは、『アメリカの反知性主義』の著者であるリチャード・ホーフスタッターのこんな言葉を引用されています。

 反知性主義は、思想に対して無条件の敵意を抱く人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。


 ちなみに、この『アメリカの反知性主義』での反知性主義の「定義」は、

 反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」と定義される。

となっています。


反知性主義」という言葉には、ホーフスタッターという「生みの親」がいて、言葉の意味も定義されているのだけれど、いまの日本では、「反知性」という言葉のインパクトが一人歩きして、「勉強ができる同級生を『お前の言ってることは、むずかしくてよくわかんないんだよ、やーい、やーい!』ってバカにしている小学生」みたいなイメージを持たれているように感じます。


この本で、著者が書いているのは「反知性主義」の定義ではなくて、「アメリカという国で、特殊に発達していったキリスト教と、その伝道師たちの物語」なんですよね。
アメリカにはたくさんの伝道師がいて、すごい数の信者が、テレビや集会所で、彼らの「説教」に耳を傾ける。
ただ、それは「説教」というより、ある種の「宗教エンターテインメント」化しているところもある。


概念で語られるより、人間の物語のほうがわかりやすく、「ああ、『反知性主義』って、こういう感じなんだな」と、ようやく腑に落ちたような気がします。


アメリカという国は、イギリスで宗教的マイノリティであった清教徒たちの移民が、建国の大きなきっかけとなりました。
著者は、「アメリカのキリスト教」というのは独自の進化を遂げたローカライズされたものであり、ヨーロッパのそれとは異なっている、ということを強調しています。

 はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は、神の一方的で無条件の恵みを強調するための概念だった。人間の応答は、それに対する感謝のしるしでしかない。旧約であろうと新約であろうと、聖書の基本的なメッセージは、繰り返される人間の罪と反逆にもかかわらず、神はあくまでも恵みの神であり続ける、ということである。契約とは、当事者の信頼やコミットメントを表すものだったのである。ところが、ピューリタンを通してアメリカに渡った「契約神学」は、神と人間がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である。
 神学者のリチャード・ニーバーによると、このような契約理解は現代アメリカ社会にも深く影響を及ぼしている。神学的な契約概念の変化は、人間同士で交わされる世俗的な契約をも変質させてしまった。本来それは、自分自身を縛る信頼と約束の表現であったのに、いつの間にか相手方に義務の履行違反がないかどうかをチェックする言葉になってしまった。ニーバーの解釈は、商売や結婚などを契約の概念で理解する「ドライな」アメリカ社会に対する文明批判である。


 アメリカは「契約社会」だと言われますが、その基盤には、このような「神との関係も『契約』である」という理解があるのです。
 それは、ヨーロッパでのキリスト教の「スタンダード」ではない。
 もっとも、「じゃあ、どこのキリスト教がスタンダードなのか?と問われると、それはそれで難しい問題ではありますが。
 

 アメリカは、当初、比較的インテリ層が多く移民してきていたのですが、彼らは「神学」よりも科学などの「実学」を重視していました。
 それは、未知の土地で生き抜いていくための当然の選択だったのです。
 そして、世俗的な利益追求の反動として、もともとキリスト教徒だった人々に対する「信仰復興運動」が起こってきます。
 そのなかで、話がうまく、人々を惹き付けられる伝道師が注目され、スターになっていきました。
 信仰復興運動のなかで頭角をあらわした伝道師のひとり、ジョージ・ホイットフィールド(1714-1770)には、こんなエピソードが遺されています。

 その語り口たるや、まったく見事という他ない。彼は、同じ言葉を40回まで繰り返し、しかもその1回ごとに感動が高まるように語ることができた。ある日の観察によると、それは「メソポタミア」という一語だったという。「メソポタミア」というのは、聖書の中に出てくる地名の一つにすぎない。いったいどんな文脈でそれが出てきたのか見当もつかないが、彼がただこの言葉を何度も語調を変えて叫ぶだけで、それ以外何も話していないのに、全聴衆は涙にうち震えたという。現代のテレビ伝道者もかくやと思われるほどである。ひとは彼を「神の演出家」(Divine Dramatist)と呼んだ。


 すごい!そして、胡散臭い!
 と今の時代の日本に生きている僕は思うのですが、当時のアメリカの人々にとっては、こういう「説教」もまた、娯楽のひとつだったのです。
 ホイットフィールドさんは若い頃俳優を志していたそうで、美声で、身振り手振りを交えてわかりやすい言葉で「説教」をしていたのだとか。
 これは、どちらかといえば「パフォーマンス」の領域に属するような気がするのですが、「学のある牧師の、よくわからない話」と、どちらが民衆に受け入れられやすいかといえば、やはりこちらでしょうね。

 もちろん、既成教会の牧師たちも彼ら(信仰復興運動の伝道師たち)を野放しにしていたわけではない。当時の牧師連合会では、「ハーバードかイェールを卒業した者でなければ、教会では説教させない」(プリンストンの創立はもう10年ほど後である)ことを定めたりしたが、そんな取り決めは野外で勝手に開かれる集会には無力である。彼らもときには闖入者に面と向かって問い糾すことがあった。
「いったいあなたがたはどこで教育を受け、何の学位をもち、どの教会で牧師に任職され、誰に派遣されてきたのか。」
 しかし、リバイバリスト(信仰復興運動の伝道師たち)の方ではそんな問いに答える義理はない。逆に牧師たちに向かって、昂然と言い返すのである。「神は福音の真理を『知恵のあるものや賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる、と聖書に書いてある(「マタイによる福音書」11章25節)。あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか。」これが、反知性主義の決めぜりふである。
 キリスト教に限らず、およそ宗教には「人工的に築き上げられた高慢な知性」よりも「素朴で謙遜な無知」の方が尊い、という基本感覚が存在する。神の真理は、インテリだけがわかるようでは困る。それに触れれば誰もが理解できるような真理でなければならない。


 「反知性主義」というのは、「知性を持つとされている権威」へのやっかみや反発から生まれているもの、要するに「嫉妬」なのではないか、と僕は考えていました。
 しかし、それだけではないのです。
 聖書のなかには、こんなふうに「高慢な知性」よりも、「素朴な無知」を重んじるという記述がある。
 聖書の教えに従うのであれば、「知性をふりかざす者」は、信仰を軽んじている、という解釈もできる。
 そういう背景を考えると、キリスト教徒にとっての「反知性主義」には、それなりの理があるのです。


 この本で、「アメリカの『反知性主義』」の歴史と、その体現者たち」について知ると、いまの日本の「反知性主義」という言葉って、その概念が生まれた宗教的・社会的な背景を持たない国が「反知性」という言葉のインパクトを利用し、他者をバカにするために使っているだけのように思われます。
 言葉もローカライズされるものではありますが、ここに書かれているくらいの「背景」を知っておいても、損はしないはず。
 本当に「面白い」んですよこれ。
「宗教と信仰と人間」について、アメリカという国で行われた壮大な実験のレポートとしても読めますし。


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