琥珀色の戯言

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【読書感想】蛭子の論語 自由に生きるためのヒント ☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
前著『ひとりぼっちを笑うな』が大きな反響を呼んだ蛭子能収。新作のテーマはなんと「論語」。孔子が残した言葉の数々を見て、蛭子は何を思い、語るのか。息が詰まるような現代で自由に生きるためのヒントが満載。


 なんだか「微妙」な新書でした。
 僕は歴史好き、中国史好きで、『論語』についても、ひととおりは読みました。
 井上靖さんの『孔子』も単行本が出たときに読了しています。

 そんなある日、『ひとりぼっちを笑うな』の編集者さんから、「蛭子さん、次は『論語』を読んでみませんか?」って連絡がきた。「えっ? ロンゴ? 何ですかね、それ?」。最初は意味もわからず、そう聞き流すだけ。よくよく聞いてみたところ、その編集者さん曰く、『ひとりぼっちを笑うな』に書かれている僕の考えは、孔子さんの思想に通じるものがあるのだとか。本当ですかね? 何かの間違いじゃないかな? それはいまだに半信半疑だし、そもそもよくわからない話なので、最初は断ろうと思っていたんです。だって、『論語』ですからね。その難しそうな名前だけで僕はアレルギー反応を起こしそうです。


(中略)


 だけど、結局は断ることができなかった。うまいこと、言いくるめられてしまったんです。それもそのはず、本を読むのも苦手ですけど、それ以上に、誰かの頼みごとを断るのが大の苦手なんですよ。
 とはいえ、やはり引き受けてしまったので、しぶしぶ『論語』を読み始めることにしました。『論語』の訳も編集者さんに手伝ってもらって、僕でもきちんと理解できるようにしてもらったんです。すると、これが意外や意外! 今から2500年以上も前に生きたと言われている孔子さんの言葉に、うなずくことしきりというか、「これ、俺が書いたんじゃないの?」って思うほどの共感ぶり(言い過ぎましたね)。
「俺が書いた」というのは当然のことながら大げさですけど、当初思っていたような、難解でよくわからない内容ではなかったことに驚いたんです。


 この新書、「礼儀とか思いやりとか」いうような「旧い価値観」と、「自由気まま」な蛭子能収さんの化学反応をみてみたい、ということで企画されたと思われます。
 ところが、実際にやってみると、蛭子さんは『論語』での孔子の教えに反発するばかりではなく、むしろ納得してしまうところも多かったようです。
 『論語』も「蛭子能収」もそれなりに好きで、興味があるのだけれど、この化学反応は、あまりうまくいっていないように僕には思われます。
 そもそも、蛭子さんは儒教というより、老荘思想のほうが近い人ではなかろうか。
 『論語』について知りたい、学びたい人にとっては、蛭子さんのツッコミが耳障りだし、蛭子さんの人柄や考え方に興味がある人は、「『論語』に中途半端に同意する蛭子能収」は、「不自由」に感じられるんですよね。
 むしろ、蛭子さんが真っ向から孔子に反発してくれたら面白いのだろうけど、蛭子さんはそういうふうに「空気を読む」人でもない。
 結局、『論語』を知りたい人にも、「蛭子能収」に触れたい人にも、なんか物足りない内容になってしまっています。
 蛭子さん、あんまり『論語』に興味ないんだろうな、というのは、切実に伝わってきます。
 そもそも、『論語』の内容についての解説が、あまりにも簡単で薄すぎるのだよなあ。
 それは、中国史好きの僕が『論語』にこだわりを持っているせい、なのかもしれませんけど。

子曰く、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり、(里仁第四 八)


【訳】老先生の教え。朝(あした)ニ道ヲ聞カバ、夕ベニ死ストモ可ナリ。
【編集部訳】朝、世の中の真実がわかったならば、その日の晩に死んでも悔いはない。


 この『論語』の「道」というのは「学問」を指していて、「それを究めることができるならば、その日のうちに死んでもいい」という意味らしいですよ。きっと、「人は、それくらいの覚悟を持って勉強しろ!」ということなんでしょう。うーん、この孔子さんの考えには少し反論したい”蛭子”がいます。
 正直、今はそんな時代じゃないですよ。だって、死んだらすべてが終わりじゃないですか。僕にとっては、学問を究めることよりも死なないことのほうが圧倒的に重要なテーマ。孔子さんが生きた時代とは違って、大抵のことは勉強せずともインターネットの世界さえあれば、すぐにほしい解答が手に入ってしまいますしね。逆に言えば、そんなことをいちいち勉強しなくても、十分に楽しく生きていくことができてしまう世の中なんです。


 中学生かよ!
 正直、こういう揚げ足取りみたいな、面白くもないツッコミが続くと、『論語』の魅力も、蛭子さんの魅力も、ともに死んでしまうのがつらい。
 両者とも僕は好きなので、とても悲しい。
 

 この本で面白いというか、「いいなあ」って思うのは、蛭子さんが『論語』の内容から脱線しているところ、なんですよ。

 大人たちの言葉といえば、もうひとつ。大人は若者に対して、「とにかく勉強しろ」「いい学校に行け」みたいなことを言いがちです。「勉強をしていい大学に入ったら、きっといい人生を送れるから」という理由からでしょう。でも、僕はそこで思うんです。そんなことよりも、生きているだけで楽しいと思えるような人間になったほうが、よっぽどいいのではないかって。


 生きているだけで楽しいと思えるような人生こそが、いちばん幸せな人生――。


 具体的にはどうすれば良いのか、というのは、それぞれ違うことなのだろうけれど、子どもに「勉強したほうがいいよ」と言いがちな僕としては、すごく考えさせられる言葉でした。
 そもそも、それなりに勉強してきたはずの僕自身は、いま、幸せなのだろうか?
 生きているだけで楽しいと、思えているだろうか?


 蛭子さんは、休みの日に映画を観に行き、趣味の競艇を最終レースまでやれれば、それでけっこう幸せだと仰っています。
 志が低い!とか言ってしまうのは簡単なのだろうけど、それで満足できる人間と、どんなに稼いでも、飢えから逃れられない人間とでは、どちらが「幸せ」なのだろうか?

 長いこと芸能界に身を置いていると、たくさんの芸能人の方に遭遇します。カメラが回っているとあんなに明るいのに、普段は物静かな芸人さん。テレビに映っているときは、コワモテなのに実際話すとものすごく腰が低くてていねいな役者さん。本当にさまざまnです。ただ、これは僕の持論なのですが、あまりにも無理をしている人、無理をして自分を作っている人は、いつの間にかこの世界から消えてしまうんですね。
 それはきっと、どこか自分を偽っていたというか、自分にウソをついていたんだと思うんです。


 自分にウソをつくことの何が怖いかって、自分につくウソは、いつの間にか真実になってしまうんですよ。


 そうやって内面的な葛藤によって、自分自身がやがて壊れていく。そういう人って、みなさんのまわりにもいませんか? 過剰に自分を作り過ぎた結果、その自分を受け止められなくなってしまってやがて自滅してしまう人。人間は、できるだけ自然体で、自分自身に正直なのがいちばんです。
 

 ただ、最近の芸能界を見ていると、昔ほどギャップのある人が、少なくなっているのも事実かもしれない。一章でも少し触れた、有吉弘行さん、マツコ・デラックスさん、そして坂上忍さん。最近のテレビ業界の人気者は、みんなどこか自然体というか、カメラが回っていないところでも、あんまり変わらないんですよね。少なくとも、あの人たちは自分にウソをついていない人たちだと思う。


 いまの時代、視聴者は、意識的なのか無意識のうちなのかはわかりませんが「カメラが回っているところといないところのギャップが少ない人」を選ぶようになっている、と蛭子さんは仰っています。
 視聴者の「リテラシー」みたいなものは、確実に向上してきているのかもしれません。
 マツコさんや坂上さんは、普段もあんな感じなのかと想像すると、それはそれで凄いな、とも思うのですけど。


 とりあえず、蛭子さん経由で『論語』を読んでみたい、という人には、あまりオススメしません。
 とにかく蛭子さんの話が好き、という人には、けっこう面白く読めるのではないかと。

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