琥珀色の戯言

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【読書感想】祈りの現場 ☆☆☆


祈りの現場

祈りの現場

内容(「BOOK」データベースより)
宗教者が現実の壁に突き当たり、懊悩の果てに生み出された宗教観とは何か。


 現代の日本での「宗教」とは、いったいどんな役割を果たしているのか?
 僕自身は特定の信仰を持たない(身内の葬儀は仏教式)人間で、あまりにも「宗教的な人」を目のあたりにすると、「勧誘されてはいけない」と身構えてしまいます。
 そもそも、宗教に頼るのは「弱い人間」ではないのか、などと考えていた時期もありました。
 ただ、仕事場で「死」に向かっていく人たちを目のあたりにしてきて、「強い人間」と「弱い人間」がいるのではなく、人間というのは元々そんなに強いものではなくて、「強がれる状況」と、「何かに助けを求めずにはいられない状況」があるだけなのかな、と感じるようになりました。
 病気になったり、逆境に陥ったりすると、普段強気な人が、えっ?と思うような折れかたをしてしまうこともあるし、その逆もある。


 この本は、ノンフィクション作家の石井光太さんが、『サンガ・ジャパン』という仏教雑誌で行った、5人の宗教者との対話をまとめたものです。
 東日本大震災、 土砂災害、広島の原爆、釜ヶ崎、宮城刑務所。
 石井さんは、この5つの「現場」で「非日常の人たち」に携わった宗教者と「祈り」をテーマに語っておられます。
 これを読んで痛感したのは、「宗教なんて必要ない」と言えるのは、たぶん、幸福なことなのだろうな、ということでした。

 東日本大震災で自らも被災された気仙沼市臨済宗・地福寺住職の片山秀光さんは、こんなふうに体験を語っておられます。

片山:遺族が「何もしてやれない」と泣いていたら、何もしてやれないのじゃないんだと。こうして拝んであげたんじゃないかと、それだけで十分だよと、言ってあげる。
 これは申し上げるのは大変口はばったいんですけど、葬式無用論とか墓無用論というのが震災前にはあったじゃないですか。さまざまな文化人や学者と称する方々によってね。とんでもないですよ。それは何事もない、本当に平和に溺れているときの話であって、あの震災の最中に誰も拝まなくてもいい、お墓なんていらないって人は誰もいませんよ。皆、どうしたら供養してあげられるかと必死なんですから、それに我々宗教者が応えていかなくてはいけないわけです。
 そんなことを、今回の震災を通じて、私は逆に檀家さんに教えられました。どうしたらいいのかっていうのをね。だから、最後はちゃんと火葬場でそれなりのことをしたけれど、状況が整ったら、改めてほとんどの檀家さんがきちんと葬儀をやり直しましたね。


石井:平常時には、確かに僕たちはいくらでも葬式はいらないとかそういったことを言えるんですよね。状況によってはそういう考え方があるのはわかります。でも、今回の震災に関して言えば、遺族は突然大切な人を津波で奪われたことによって到底納得できないような無念さを抱えなければならないかった。特に遺族は「自分だけ生き残ってしまった」とか、「死んでいった人に何もしてあげられなかった」という後悔を抱くことが多い。生き残ってしまったが故の、死者に対する罪悪感があるのです。だから、遺族は死者に対して何かをやってあげたいと思う。死者のために何かをして初めて心が解放されるということがある。そして、その何かというのが、たぶん葬式なのじゃないかと僕は思うのです。


 石井光太さんが書かれた『遺体』というノンフィクションを読むと、東日本大震災津波で亡くなった方々の遺族は、ほんの短い時間でも「お経をあげてもらう」ことを願っていたことがわかります。
 もともと信仰心の篤い地域ではあったのかもしれませんが、もし僕が生き残ったとしても、「せめて葬式くらいは」と思ったのではないかなあ。
 葬式無用論は「何事もない、本当に平和に溺れているときの話」だというのは、わかるような気がします。
 非常事態だから葬式をやるのも難しい、はずなのに、そういう時こそ、残された人は、死者を弔うための「何か」を必要とするのです。


 この対話集に登場されている5人の宗教家たちは、いずれも「宗教家としては、ちょっとエリートコースから外れて、人々の間に入っていくこと」を選んだ人たちです。
 こんなお坊さんばかりとは限らないとは思うのですが、彼らが「宗教者としての建前」にこだわらず、石井さんとの対話のなかで、「ひとりの人間としての本音」みたいなものを口に出しているのも興味深いところでした。


 自らも被爆者である深堀升治さん(カトリック松江教会主任司祭)は、被爆した日のことを、こう振り返っておられます。

深堀:私、小さい頃からカトリックの教育を受けていたから、天にましますとか、お告げの祈りとか、ぜんぶ知っていたし、「何か起こったら祈りなさい」と言われて育ちました。ですが、今でも覚えていますけど、母と弟の血だらけの姿を見たとき、思わず母に「だれにやられたんだ?」と怒って言いましたよ。復讐心がむらむらと出てきて、「こんなむごいことをするやつ、やっつけてやる」と思った。この時点では、まさか、敵うはずがない原子爆弾にやられたなんて思わないから。

 どんなに敬虔なキリスト教徒であっても、やっぱり、こういうときは、そうだよね、と僕は読んでいて共感したのです。
 しかし、その後のキリスト教徒として、神父としての深堀さんは、こんなふうに考えるようになっていた、とのことでした。

深堀:私自身のことで言うと、ずっと思っていたのは、「これは、神様の摂理だ」ということでした。宗教用語で「摂理」だと。だから、原爆が落ちたことや、それを「アメリカ人が落とした」とかなんとかって、非難すべきことではなかったんですよね。原爆そのものに関しては、武器として、もう人として使ってはいけないものじゃないかということ。それだけ。
 最初は、そりゃ瞬間的に思いましたよ。おふくろのケガをした顔を見たとき、「誰がやった?!」と、本当に思った。だけど、だんだん見てくると、そのすべてのことは、神の摂理というものの中にあるんじゃないかなと思った。だから、アメリカに復讐してやろうとか、一言も言いたくなかったし。


石井:原爆も神の定めた摂理の中にあるものだと。それは、ラサール神父の教えなどの影響もあったんでしょうか。それとも、ご自身でそういうふうに思ったのですか。


深堀:ずっとむかしから自分でね。ケガをして痛かったら、あのイエス様の釘の跡を見なさい、あんたのケガぐらいなんともない」って(笑)、そういう教育を受けていたから「そうか、なるほど、そういうふうにとらえないといけんのだ」というふうに。苦しいことがあったりしたらね、イエスの十字架と比べたら、なんてことないでしょっ、ていうふうに。


石井:でも、被爆者を見たときに、正直な話、イエス様の苦しみ以上だという感じはなかったですか。


深堀:いやいや、そういう発想は、もうまったくありません。

 
 イエス・キリストと他の人の「苦しみ」を比較するようなものではないのかもしれませんが、率直なところ、こういうのを読むと「宗教っていうのは、人が悲しみや苦しみを乗り越えるには有用なのかもしれないけれど、いまの時代を生きる僕の『実感」とはかけ離れているよなあ」と思うのです。
 僕には、被爆当日の「だれにやられたんだ? やっつけてやる」のほうが、「わかる」。
 

 そんな深堀さんが、自らの被爆体験を語るようになったのは、1981年2月25日に、ヨハネ・パウロ2世が広島の平和記念公園で行った「平和アピール」を聞いたことがきっかけでした。

 何が変わったか。「戦争は人間のしわざです」と言ったんですよ。摂理じゃない、と。

 あらためて、ヨハネ・パウロ2世は、世俗の問題に対しても、積極的に踏み込んでいった人なのだな、と思います。
 それは「摂理」にしておいたほうが、諦めがつく、という人もいるのかもしれないけれど。
 集団的自衛権じゃないですが、宗教の教義とか考え方というのも「解釈」のしかたで、意味が変わってしまうことがある。


 僕は「人間のしわざ」であると思うけれど、原爆とかアメリカというのは、人ひとりが相手にするには、たしかに「どうしようもない存在」ではあるんですよね。
 

 この本のなかでは、宗教者たちもまた、迷ったり、考え方を変えたりしているのです。
 でも、そういう人間らしさ、みたいなものが魅力になってもいる。

 
 「宗教なんて民衆のアヘンだ」とか、「葬式なんて、要らないよ」という人こそ、一度、読んでみてもいい本じゃないかと思います。
 自分が弱い人間だと気づいたときには、もう手遅れ、ってことだって、無いとは限らないしさ。


遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)