琥珀色の戯言

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【映画感想】シン・ゴジラ ☆☆☆☆☆

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あらすじ
東京湾アクアトンネルが崩落する事故が発生。首相官邸での緊急会議で内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)が、海中に潜む謎の生物が事故を起こした可能性を指摘する。その後、海上に巨大不明生物が出現。さらには鎌倉に上陸し、街を破壊しながら突進していく。政府の緊急対策本部は自衛隊に対し防衛出動命令を下し、“ゴジラ”と名付けられた巨大不明生物に立ち向かうが……。


www.shin-godzilla.jp



 2016年13作目の映画館での観賞。
 お盆明けの平日夜のレイトショーにもかかわらず、50人くらいの客入り。
 ネットでは盛り上がっているけれど、実際はどうかねえ、なんて思っていたのですが、やっぱり大ヒットしているんだなあ。


 旅行中、日本(というか僕の観測範囲内のブログ)は、この『シン・ゴジラ』の話題で大いに盛り上がっていました。
 ああ、僕も観たい……と思っていたのですが、自分の目に観る前に、あまりもたくさんの高評価やディテールに関する情報に接してしまったがために、日本に帰ってきたときには、なんかもう、いまさら観なくてもいいんじゃないか、という気分にもなっていたんですよね。
 ハンバーグをつくっているだけで、食べる前にもうお腹いっぱい、という感じです。
 結局、観たんですけどね。
 ネットでいろんな情報や評価接して、これだけハードルが上がってしまうと、なんだか粗捜ししてしまいそう、と不安ではあったのですが、結論からいえば、すごく面白かった。
 ただ、「会議ばっかりの映画だ」というような事前の予習がなければ、「何これ?」と思いながらも怪獣映画として収束していくこの作品を自分がどのように観たのかな、とか考えてしまいました。


 僕が『シン・ゴジラ』の予告編をみたとき思い出したのは、『巨神兵東京に現わる』でした。
 この短編は、『館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技』で公開されたもので、僕はその巡回展の最後になった熊本で観たんですよね。
 ちなみに、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のDVD(ブルーレイ)にこの『巨神兵東京に現る』も収録されています。
 この『巨神兵東京に現わる』は、綾波レイ役でおなじみの林原めぐみさんのナレーションで、巨神兵に破壊し尽くされる東京の様子を描いたものなのですが、なんというか、本当にただ「破壊される都市」を執拗なまでに映像化したものなんですよね。
 これを観て、「庵野監督は、なんかこう、徹底的に破壊する作品をつくりたいのかな」と思ったのです。
 そこで、この『シン・ゴジラ』。
 庵野監督は、ゴジラとともに、東京を破壊しつくすために戻ってきたのです。


 冒頭のシーンをみながら、僕は中学生時代に観て衝撃を受けた(というか、大笑いした)、ある動画を思い出していました。


DAICON FILM ダイコンフィルム 自主制作特撮 愛國戰隊大日本1


 のちに、この1982年につくられた自主製作の映像に、学生時代の庵野監督が特撮、メカニックデザインなどで関わっていたことを知り、驚きました。
 栴檀は双葉より芳し、というか、学生時代からここまでのことをやっていたのか、と。


 庵野総監督は、「特撮映画」が大好きで、その歴史を踏まえて、「わかる人のために」この『シン・ゴジラ』を撮ったようにも思われます。
 なんだか普通の会議室とか事務室みたいな場面が続き、専門用語だらけの会話に、そんなの言われてもわかんないよ、というような兵器の名前や登場人物の長い肩書きが、白くて太いテロップでクドいくらいに画面に登場してきます。
 こんな「特撮オタクの符牒だらけ」のような映画がこんなにウケているのか、と僕はけっこう驚いてしまいました。
 「戦車の名前なんて、どうでもいいじゃん」という人は、この映画に「ときめく」ことができるのだろうか?
 ちょっと気になったのは、この映画は、人々が『ゴジラ』の存在を知らない世界、という設定になっている、ということなんですよね。
 映画に対する好き嫌いはさておき、ほとんどの日本人は『ゴジラ』の存在を知っているはずですから、水中から未知の巨大生物が登場したときに、誰かが、「ああ、ゴジラみたいな?」って言うんじゃないかな、と。
 で、「そんなの現実にいるわけないだろ!」と笑っていると、水中から、ゴジラがドーンと!
 そのあたりは、けっこういろいろ考えた末に「フィクションとしてのゴジラも存在しないアナザー・ワールド」にしたのでしょうけど。


 この『シン・ゴジラ』で印象に残ったシーンというのは、「大きな災害に対策本部を設置するときも、その対策本部を設置するための会議をやらなくてはならない」という日本のシステムのめんどくささとか、会議室の椅子をスタッフたちが凄いスピードで並べていくところとかのディテールなんですよ。
 古ぼけた椅子とかカップラーメンとか、なんというか、リアリティがありすぎて、映画の中としてはすごく違和感があるというか、自主製作映画っぽいというか。
 ゴジラのCGにはかなりのお金をかけていそうなのに、人間側については、ひたすらリアルを追求したのか、予算がなくなってしまったのか。
 

 個人的に、いちばん観ていて感動したのは、進化したゴジラが東京の街を破壊し尽くすシーンでした。
 ああ、これはまさに巨神兵だ……
 怒り、憎しみとか悲しみとかの感情も持たず、ただ、ひたすらに「そこにあるものを破壊すること」に徹しているゴジラと、ゴジラに破壊されていく東京は、(不謹慎ながら)本当に美しい。
 このゴジラの破壊シーンとエンディングロール(+音楽)のためにDVDを購入しようと思っているくらいです。
 ほとんど「ゴジラに殺されている人」の映像を挿入していないのは、観客が「すべてが破壊される快感」に浸ることを邪魔しないためではなかろうか。
 

 「スクラップ&ビルド」という言葉が出てくるのですが、庵野監督は、日本も、そして自分自身も、「とにかく一度全部ぶっ壊してしまう」ことにしたように思われます。
 もちろん、現実でそうするわけにはいかないから、この『シン・ゴジラ』というフィクションのなかだけでも、そうすることにしたんじゃないかな。


 坂口安吾の『堕落論』より。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。


 本当は、『巨神兵東京に現わる』みたいな「救いようのない話」にしたかったのではないのかなあ。
 堕ちるのは、快感でもあるし。


 でも、庵野監督は、ギリギリのところで踏みとどまった。
 日本の手続きの煩わしさを批判する映画のように受け止められがちなのかもしれないけれど、そういう手続きに対して、必ずしも全否定している映画でもないのです。
 ある場面では「もう、東京の危機なんだから、そのくらいの犠牲は無視して攻撃しちゃえよ!」と観ながら思っていた自分を発見することになりました。
 そこで、「めんどうな手続き」があるからこそ、個人は、民主主義社会で「みんなのための犠牲」にされないで済んでいるのです。
 ただ、そこにはやはり、「決断の遅れ」というデメリットもあるわけで、そのジレンマのなかで、なんとか折り合いをつけていくしかない。


 あらためて考えてみると、あれだけ神々しいまでの「圧倒的な力」を持つゴジラに対しても、人類は対抗する手段を持っていないわけではないのですよね。
 それがあまりに犠牲が大きすぎる方法である、というだけで。
 「それ」は、ゴジラよりもずっと速やかに、そして効率的に東京を破壊し尽くすことができるのです。
 『ゴジラ』はフィクションだけれど、「それ」は現実に存在している。
 まあ、これはそういう「反○○」みたいな作品ではないというか、庵野監督の特撮愛が極度に反映されており、だからこそ、ハマる人はハマるのだろうけど。
 愛国心とか自衛隊の描写なども、それが制作側の「主張」なのか、単なる過去の特撮映画へのオマージュなのか、よくわからないんですよ(僕は後者ではないかと思っていますが)。


 「在来線爆弾」とか、「こういうのやってみたい!」と思ってたんだろうなあ、庵野さん。
 僕も「中二病的な特撮マニアマインド」が蘇り、観ながらニヤニヤしてしまいました。


 僕はいままで、『ゴジラ』シリーズって、あんまり面白いと思ったことがなくて、「日本が生んだ作品だからな」と「敬して遠ざける」的な付き合いをしてきました。
 でも、この『シン・ゴジラ』を観て、最初の『ゴジラ』をもう一度観てみたくなったのです。


 いくら名作とはいっても、1954年の映画を2016年に観て「これはいまの時代の話だ」と感じるのは難しい。
 『ゴジラ』は「あの時代に寄り添った映画」だった。
 にもかかわらず、あまりにもヒットし、伝説になったため、「普遍的なものを描いた作品」という解釈をされ、みんなが深読みをするようになってしまった。
 そして、『ゴジラ』は、シリーズ化され、これまでの形式に縛られることによって、どんどん古びていったのです。


 庵野監督は、すべてを押し流すような圧倒的な力によってもたらされた絶望と、それに抗う人々を描きました。
 どんなに酷い目にあってもあきらめきれず、同じようなことの繰り返しのなかで、往生際悪く少しでも前に進もうとする、それが人間の業。
 生きているかぎり、RPGのような「エンディング」を迎えることはできず、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すしかない。


 まったく違う作品のようだけれど、1954年の『ゴジラ』と2016年の『シン・ゴジラ』をリアルタイムで観た観客は、同じような感慨を抱いて、映画館を出ていく、そんな気がするのです。
 あらためて考えてみると『エヴァンゲリオン』も、そういう作品なのだよね。



 

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