琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】さよならインターネット まもなく消えるその「輪郭」について ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容紹介
およそ半世紀前に産声をあげたインターネット。そのテクノロジーが生み出した新しい「世界」は社会、経済、文化、時間、家、あらゆるものをつなぎ、変化させた。しかし常時接続や無線接続、IoTのなかでその輪郭は消失し、自由と可能性に満ちた「世界」は、むしろ閉ざされつつあると家入氏は指摘する。パソコン通信からSNSを経由し、サーバー事業やプラットフォーム事業、さらに都知事選まで、ネットと共に人生を歩んできた氏が、なぜ今その「世界」に別れを告げるのか? 果たしてその「世界」の未来の姿とは? これは、その「輪郭」を取り戻すための思想の旅。


 あの家入一真さんが上梓した新書のタイトルが『さよならインターネット』だと知って、僕はちょっと呆れてしまったのです。家入さんって、良くも悪くも「ミスター・インターネット」みたいな人なのに、「さよなら」って、釣りタイトルだろこれ。


 しかしながら、この新書を読んでみると、家入さんの気持ち、けっこうわかるんですよね。
 僕はパソコン通信には参加していなかったけれど、ダイヤルアップ接続とかISDN回線の時代に「インターネット」というものに出会って、見知らぬ人といきなり繋がってしまうということに驚き、感動した記憶があるのです。
 当時は、『ポストペット』経由でメールが一通届くだけでなんだかすごく嬉しかったんだよなあ。
 いま、メールソフトをポストペットにしていたら、あまりのメールの多さに、動物虐待になるんじゃないかと思いますけど。


 当時のネットには、見知らぬ人、それも、有名人ではない市井の人々のリアルな仕事や人生の話が溢れていて、僕はそれをむさぼるように読んでいたものでした。
 ネットが普及するまで、一部の同人誌などを除いては、校正されていない素人の文章が多くの人に読まれる機会は、ほとんどありませんでした。


 僕にとっての初期のインターネットは「王様の耳は、ロバの耳!」と叫ぶための洞穴みたいなものだったのです。
 社会運動をはじめるほどの問題意識もなく、小説にしてまとめるほどの粘りもない僕にとって、「ネットに書いて、自分とは関係ない誰かに話を聞いてもらう」というのは「ちょうどよかった」のだよなあ。
 当時のインターネットは、なんとなく社会にうまく染めれない人たちのための避難場所、のようでもありました。


 この新書の冒頭で、家入さんは、若い世代のインターネットというものについての考え方を、このように紹介してます。

 ある日、仕事の合間にお茶をしていたときのこと。インターンシップをしていた20歳の学生が、ぼくにこんなことを言いました。
「家入さんは、『インターネットが大好き』とよく言うけれど、ぼくにはその意味がわからないんです。なんだか『ハサミが大好き』って言っているみたいで」
 インターネットがハサミ? 一瞬、意味がわかりかねたこの言葉。どうやら彼は「インターネットなんて、ハサミのようにあたりまえに存在するもので、わざわざ賞賛する価値があるような対象ではない」と考え、そうたとえたようです。
 しかしぼくにとってのインターネットとは、10代半ばの引きこもりのさなかに光を与えてくれた大きな存在。

 インターネット。この言葉の意味するものが、どうやら以前のものとは変わってきたように、ぼくが意識し始めたのはいつ頃だっただろう。
 ぼくの世代以上、つまり30代以上の人たちの多くは、おおむねこれまで「インターネット=Webサイト」だと捉えていたのではないでしょうか。一方、「はじめに」にも書いたように、ぼくが今一緒に仕事をしている、20代どころか10代の若い世代の人たちは、インターネットという言葉を聞いても、何かはっきりとしたイメージが浮かぶわけではない。形があるようでないような、空気のような存在だという認識を持っているようです。
 実はこの感覚の違いは、とてつもなく大きな隔たりのように(それこそ断絶のように)、ぼくは感じています。
 そして、「インターネット=Webサイト」だと言ったものの、実はその肝心の「Webサイト」という概念もこの先なくなるかもしれない、と感じる機会が増えています。というのも、現実として、いつでもどこでもつながるスマホの興隆によって、インターネットそのものに向かい合う姿勢が明らかに変わったことに、その大きな理由があります。

 家入一真さんは1978年生まれですから、僕より若くて、まだ30代後半です。
 にもかかわらず、10代、20代とは「インターネット観」にギャップがあるのです。
 「インターネットとは何か?」という質問そのものが、物心ついたときからネットがある世代には、成り立たなくなっています。僕たちが、「あなたにとって電話とは何ですか?」と問われたときに、言葉に詰まってしまうのと同じように。


 ちなみにこの「インターネットが好きって、ハサミを好きって言っているみたいなもの」という言葉を家入さんがTwitterで紹介したところ、「ちょっとした物議を醸した」そうです。
 その中で、「インターネットをハサミにたとえるなんて」「インターネットを道具みたいに言うな」というような「怒り」の反応を示したのは、家入さんと同世代からさらに上の世代で、黎明期からインターネットを使ったきた人だったのです。
 この世代(のなかで、インターネットを初期から使っている人々)は、自分たちはインターネットの開拓者であり、ネットのことをよく知っている、と自負しているのです。
 そして、「すべての人が自由な意見を言い合ったり、距離を考えずにやりとりしたりできる場所」だという理想の直撃を受けた人たちでもありました。
 ネットというのはEUと似たところがあります。
 初期の理想は相互理解を促進し、争いを防止する、というコンセプトだったのが、実際にそれを押し進めていくと、既存の参加者にとっては不都合な新参者が幅をきかせるようになってきて、ふたたび「境界」の必要性が叫ばれるようになってきているのです。


 この新書、インターネットとともに生きてきたとも言うべき家入さんが書いたものだけあって、僕にとっても懐かしい話がたくさん出てきます。

 話はやや変わりますが、その頃「ご近所さんを探せ!」というWebサイトが人気だったのをご存知でしょうか。
 当時はインターネットにおいて、まだ無記名性や匿名性に重きが置かれていました。だから「住所」という属性だけを公開することで、メッセージをやりとりし、コミュニケーションを図るという、ちょっとだけ実名性に寄ったそのサービスは非常に画期的でした。
 実名があふれている今のインターネットから考えると、非常に厳かとも感じるサービスですが、それくらいパソコンの向こう側は、まだ怪しげだったし、その世界が現実の世界を乖離していたのでしょう。
 実はその「ご近所さんを探せ!」で出会ったのが、元妻です。まだ「出会い系」という言葉や考え方が一般的になる前、ネットはネット、現実は現実、という考えのほうが普通だった当時の状況で現実の出会いにつながったのは、我ながらかなり先進的だと思います。

 
 当時は大人気サイトだったのですが、今だったら、「地理的に近くの人とつながってしまうサービス」というのは、あまり歓迎されない気がします。
 最近の若い人たちのネットの使い方というのは「すでに知り合いである人と連絡をとりあうため」がメインなんですよね。
 Twitterで、けっこう「フォロー外から失礼します」という前置きを見かけるのですが、これを見かけるたびに「えっ? Twitterって、フォローの有無は関係なく、気になったツイートに言及して良いサービスじゃないの?」って思うのです。
 でも、こういう言い回しが存在するということは「フォロー外からの言及は好ましくない」と考えている人が少なからずいるのでしょう。

 

 そのブームの終息を横目に、個人的にはWeb2.0がもたらした波の一つとして解釈されている、ブログブームについて、やや残念な感想を持っています。
 当初、ぼくのように「個人もメディアになる」と信じて、希望を抱いていた人は多かったことでしょう。しかしふたを開けてみれば、影響力を持っていたのは、いわゆる「芸能人ブログ」ばかり。しかもその影響力は「ステマ騒動」というネガティブな事件で顕在化してしまいます。
 子どもの頃、学校ではまったく人気のなかったぼくは、いわゆるスクールカーストの底辺に追いやられていました。だからこそどこかで、ネットは「現実世界のカーストを無効化するもの」だと期待していました。


 結局のところ、舞台がネットに移っても、「現実社会で影響力がある人」が強かったのです。
 そして、ひとつのネットサービスで有名になると、他のサービスでも有利な立場からスタートできる。
 

 家入さんは、現在のネットの状況について、こう述べています。

 昔、Macを使ってコラージュやパロディなどを作り続けていたぼくからすると、今のクリエイターたちは、まるでカラカラに干上がった砂漠を、何も持たずに歩かされ、さまよっているように感じられてなりません。
 ぼくはその東京五輪エンブレム騒動をニュースなどで見ながら、イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが設計した刑務所施設の構想「パノプティコン(パンオプティコン、日本語訳は全展望監視システム)」を連想していました。
 パノプティコンの考えに基づいて設計された牢獄は円状に配置され、中心に経てば360度を見渡せるので看守には非常に便利です。一方、収容者たちは絶えず監視の目に晒されているため、常に規律正しく行動えざるをえなくなりまう。
 確かに「今も行動をチェックされているかもしれない」と意識すれば、自然と背筋も伸びるし、悪事を働く気には到底なりません。現在おnインターネットの状況はこれと似ています。しかも、ユーザー一人ひとりが高機能なツールを持った警備員になって、お互いを監視し合っているため、結果として非常に生きづらい世界を作り上げているように思われます。

 ネットの場合は、誰かが監視員に任命されたわけではなくて、ネットにいる人たちが自発的に周りの違法行為を監視する仕組みができ上がっているんですよね。
 もちろん、すべての人が監視員としての働きをするわけではないけれど、誰が監視員だかわからなければ、みんなが監視員であることを想定しなければなりません。
 ただ、これは「息苦しさ」を生むのと同時に、ネットの中での不法行為を抑止してもいるわけで、一概に「監視社会=悪」とも言いきれないのです。
 ただ、あまりに厳格になりすぎると「パクリの指摘」なんていうのは、キリがなくなってしまいそう。
 このあたりの功罪は、まだ評価が定まらないところではありますね。

まとめサイト」などが典型さるが、インターネットでは、情報はしばしば省略化されて、ムダがそぎ落とされます。でも、誰かがそぎ落とす判断をした部分に、あなたにとって役立つ情報が含まれていても、まったくおかしくありません。
 確かにぼくを含めた多くの人は、システマチックにアルゴリズムであれこれ解決するような便利な世の中を求めていたけれど、それが向かう先は拡張ではない。むしろテクノロジーは、安全で効率のいい、コンパクトな世界を生み出そうとしています。だから、もしあなたが自分の世界を拡張したいと思ったなら、意識的にインターネットの進む先に逆らう動きをしなければ、それは実現できない。
 そして属人的であり、再現性のない人間くさい世界には、やっぱり自分の足を使わなければ入り込んでいけない、というのがぼくの信条でもあります。偶然の出会いを重ねていくうちに、「人はそれぞれの人生があって、話を聞けばやっぱりおもしろい」という当然のことに気づくはずです。


 これを読みながら、「歴史は繰り返す」のかな、なんてことを考えていました。
 僕が最初にインターネットに魅力を感じたのは、まさにこの「人それぞれの歴史がけっこう赤裸々に語られているところ」だったので。
 現実がイヤになり、インターネットが息苦しくなり……次の理想郷は、どこにあるのだろうか。
 

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