琥珀色の戯言

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【読書感想】教養としての聖書 ☆☆☆

教養としての聖書 (光文社新書)

教養としての聖書 (光文社新書)


Kindle版もあります。

教養としての聖書 (光文社新書)

教養としての聖書 (光文社新書)

内容紹介
日本人よ、もっと宗教を知れ!


橋爪流・聖書をざっくり掴む技法を惜しげもなく公開――。


聖書を我がものにする極意が満載の一冊!


聖書を読めば…一神教がわかります。


◎内容紹介◎
神はえらいですけど、理屈があれば、何を言ってもいい。「神さま、なんでこうなんですか?」みたいな。これが一神教の考え方です。日本人は相手がえらいと、「ハハー」みたいになっちゃって、論争できませんね。だからビジネスの交渉でも、世界で渡り合えないんです。相手が神でも議論するんですから、相手が人間なら、大統領だろうと、社長だろうと、(中略)ガンガン議論する。これが聖書を読んだ、一神教徒のやり方です。だったら日本人も、聖書を読まないでどうしますか。(本文より)


今や宗教は基礎教養のひとつだが、「聖書」を読み進めた人はどれくらいいるだろうか。


本書では、創世記、出エジプト記、申命記、マルコ福音書、ローマ人への手紙、ヨハネ黙示録の六書をピックアップし、宗教社会学の大家がダイジェスト形式で解説。


 僕は40過ぎになって、自分の読書人生について、ちょっと後悔していることがあるのです。
 それは、若い頃、とくに学生時代にもっと『世界の名作』(『カラマーゾフの兄弟』とか)をちゃんと読んでおけばよかった、ということと、『聖書』を一度くらいは通読しておくべきだった、ということです。
 子どもの頃、「聖書」を読むと、洗脳されちゃうんじゃないか、というようなことを考えたり、友達に、「おまえ、しゅーきょーだろ!」って言われたりすることを恐れたりして、極力近づかないようにしていたんですよね。
 まあ、ハマりすぎてしまっていたら、どうなっていたかわからないところもあるのだけれど。
 そうそう、どんなに難しくてわからなくても、もう少し「哲学」の本に挑戦してみればよかった、というのも痛感しています。
 

 この年になっても、まだ「聖書」を通読していませんし、おそらく、今後もその機会は無い可能性が高そうではあるのですが、この新書のような「ダイジェスト本」みたいなものは、よく手にとっているのです。
 自分がキリスト教徒ではないからこそ、「教養として」彼らの思想の根底にあるものを知っておくことは、大事なのではないかと思いますし。


 この本(講義)で採りあげられているのは、旧約聖書から、『創世記』『出エジプト記』『申命記』。
新約聖書から、『マルコ福音書』『ローマ人への手紙』『ヨハネ黙示録』と、それぞれ3つずつ、合計6編です。
 著者は「なるべく定番の書物を選んだ」そうですが、『申命記』だけは「あまりなじみがないかもしれないけれど、ユダヤ教の考え方がわかる重要な書物」だとしています。


 僕は「聖書」というのは、偉い人の、立派な言動ばかりが書かれている本だと思っていたのですが(だからこそ、「読むのはちょっと危ない」とも考えていました)、著者の解説を読んでいると、必ずしもそうではないのです。
 そして、聖書に書かれていることは、キリスト教文明圏の人びとの考え方や行動に、大きな影響を与え続けているのです。


「『出エジプト記』を読む」の項より。

橋爪大二郎:そこでさっそく、モーセとアロンは連れ立って、言われたとおりに、ファラオのところに交渉に行きます。巡礼祭を祝うために、イスラエルの民を荒野に行かせろと、ヤハウェが言っています。行かせなさい。巡礼祭は口実で、そのまま逃げ出すつもりだったのでしょう。ファラオの答えは当然、ノー。ヤハウェなんか知らない、でした。こんなナイーヴな交渉では、うまく行くはずがありません。
 ファラオはこれは、サボタージュではないかと疑って、かえって、イスラエルの民の労働を強化します。
 イスラエルの民は、このことで、モーセとアロンに文句を言います。
 するとモーセは、ヤハウェに向き直って、抗議します。命令どおりにファラオのところに行き、あなたの名前を出したのに、結果は前よりひどくなったではないか。『創世記』のアブラハムもそうでしたが、理由があれば、ヤハウェと論争してもよいのですね。
 ここは面白い点ですね。モーセは神に反論してます。抗議しています。神はえらいですけど、理屈があれば、何を言ってもいい。「神さま、なんでこうなんですか?」みたいな。これが一神教の考え方です。日本人は相手がえらいと、「ハハー」みたいになっちゃって、論争できませんね。だからビジネスの交渉でも、世界で渡り合えないんです。
 相手が神でも議論するんですから、相手が人間なら、大統領だろうと、社長だろうと、そんなの目じゃない。相手の地位が高かろうと、ガンガン議論する。これが聖書を読んだ、一神教徒のやり方です。だったら日本人も、聖書を読まないでどうしますか。


 そうか、一神教徒の世界では、『水戸黄門』が印籠を出しても反論されるのか……とか思いながら読みました。そういえば、外国の映画では『水戸黄門』的な「偉い人であることがわかったら、盲従する」という場面は、あまり観たことがないような気がします。
 もっとも、「神に対する態度の温度差」みたいなものは、一神教社会のなかにも、かなりありそうですが。


 また、「『申命記』を読む」の項では、ユダヤ教における、さまざまな規律が紹介されています。

橋爪:モーセはさらに、さまざまな規定をのべます。
 日当の支払い…同胞や寄留者の雇い人には、日没までに賃金を支払わなければならない。
 この規定は、近代法にも通じる、賃金の遅配を禁止する規定です。雇い人の生活を守ります。ぶどう畑のたとえを述べたイエスも、雇い人への賃金をその日の夕方に支払う話としてのべています。
 罪責は個人責任…《父はその子のゆえに、また子はその父のゆえに、死に至らしめられてはならない。人はそれぞれ自分の罪のゆえに、死に至らしめなければならない。》(24章16節、岩波赤本)
 中国刑法が親族の連帯責任を強調するのと、対照的です。ユダヤ刑法のこの個人主義の原則が、のちの西欧世界の近代化に大きく貢献したと思います。


 「罪三族に及ぶ」世界と、「罪はその個人が責任を負うもの」という世界との違いのルーツは、こんなに古くからあったのですね。
「罪責は個人責任」というのは、かなり「近代的」な考え方なのだと思い込んでいましたが、西欧では、モーセの時代から規定されていたことだったのです。


 第五講義の「『ローマ人への手紙』を読む」には、受講生とのこんなやりとりがあります。

受講生:パウロは、手紙を書いていたとき、これが聖書になると思って書いていた?


橋爪:グッド・クエスチョンですねえ。
 当時は福音書もまだなかったし、新約聖書がやがて編纂されるとは、パウロは思っていなかったんじゃないかな。当然、そのなかに自分の手紙が収められるとも思っていない。
 けれども、手紙が教会で繰り返し読まれ、信徒の人びとの導きになるとは思っていたろうと思います。そういう、教会の基本文書になればいいな、という気持ちはあったと思う。
 

受講生:パウロが書いた手紙が、なぜ神の言葉になるんですか。


橋爪:旧約聖書にもいろいろ書物があるが、モーセの律法はモーセが伝えたもの。イザヤ書やエレミヤ書や詩篇も、それぞれ、預言者やダビデ王が伝えたとされている。預言者は、神の言葉を聞いているから、言葉の語り手は神ですね。ゆえに、それらの書物は神の言葉になる。
 いっぽう、パウロは使徒であって、預言者ではありません。パウロは、神の言葉を聞いてそれを伝えているわけではない。自分の考えをのべています。それが神の言葉になるのは、そこに聖霊が働いているからだな。聖霊パウロをそう考えさせ、書かせている。だから、神の言葉。


 この講義は、すでに完成したものである「聖書」を解説するというよりは、「聖書」ができていくまでの状況を、当時の社会情勢や書いた人たちの立場に寄り添いながら考えていく、というものなんですよね。
 パウロは「聖書になる」と思って手紙を書いていたわけではないけれど、ある種の「信仰の基準」になってくれることくらいは意識していた、かもしれない。
 それを「聖書」にしたのは、後世の人びとの都合、なんですよね。
 当時は、パウロとは違った「教え」を広めていた伝道者たちも少なからずいたそうですし。


 この本のキャッチコピーのなかに「これで、聖書の『7割』はわかる!」というのがありました。
 なかなか上手いな、と思ったのですが、こうして概略を知ると、かえって、「自分は本当に理解できているのか?」と悩ましくもなるのです。


 本というものを読んでいてあらためて感じるのは「本というのは、『ダイジェスト』で内容をかいつまんで理解したつもりでも、あまり役に立たない」ということでもあるんですよね。
 むしろ、使われている言葉とか、たとえ話とかのような「ディテール」こそ、本質であり、他の本との「差」ではないか、という気がするのです。
 なんでも全部読めるほど、僕が持っている時間は長くはないのだけれども。

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