琥珀色の戯言

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【読書感想】「51歳の左遷」からすべては始まった ☆☆☆

「51歳の左遷」からすべては始まった (PHP新書)

「51歳の左遷」からすべては始まった (PHP新書)


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
プロサッカー「Jリーグ」を誕生させ、日本をW杯の常連国にまで成長させた功労者・川淵三郎キャプテン。その類まれなリーダーシップは、なぜ発揮できたのか?一度はサッカー界から身を引くつもりだった人生に、何が起きたのか?その転機は、意外にもサラリーマン時代の左遷人事にあった。五十歳をすぎて味わった挫折。それから二十年、人生後半に賭けた新たな夢とは―。かつて「独裁者」と呼ばれ革命を起こした男が、サラリーマン時代の失敗談から、家族との交流までを包み隠さず明かした体験的リーダー論。


 川淵三郎さんって、こんな人だったのか。
 2009年に上梓された本なのですが、最近Kindle版が出たので読みました。
 僕はいま40代半ばで、そろそろ人生のいろんな「引き継ぎ」の準備をはじめなければな、と思っているのですが、これを読んでみると、そんなにあわてて悟らなくてもいいのかもしれないな、という気がしてきました。

 妻の康子が後になって、「あの日」のことをこんなふうに表現して懐かしんだことがありました。
「あのときは、まるで心臓を抜かれちゃったみたいに、今まで一度だって見たこともないような顔をしていたわよ」
 1988年5月2日、古河電工名古屋支店金属営業部長だった私の自宅に、当時の支店長から電話がありました。家族と一緒にくつろいでいたときだったと思います。支店長に「古河産業に出向してもらいたい」と告げられ、顔面蒼白になって落胆している私の様子を、妻はよほど心配に思って見つめていたんでしょう。私自身、そこにいた妻を慮る余裕もないほど大変なショックを受けたものでした。


 1964年の東京オリンピックサッカー日本代表の選手として出場した川淵さんは、その後、古河電工サッカー部のコーチ、監督を務め、日本サッカー協会の強化部長、日本代表監督も経験されています。
 その川淵さんも、1984年のロサンゼルス五輪の予選のあとは、サッカー関係の役職はすべて降りています。
 サラリーマン人生に集中したい、古河電工の重役として定年を迎えたい、と仕事に邁進していたのです。
 川淵さんは、上司の言いなりになるようなタイプではなかったけれど、サラリーマンとしても仕事ができ、業績をあげていたのです。
 にもかかわらず、51歳の川淵さんに会社は「左遷」ともいえる出向を命じました。


 このとき、川淵さんは、「これでサラリーマンとしての人生も限界が見えた」と、絶望したそうなのですが、結果的には、これが大きな「転機」となったのです。
 

 会社での目標を見失ったことで、これから残る人生をどうやって生きようか、と悩みました。全く同じ時期、サッカー界から4年前に、いわば足を洗ったような格好だった私に、JSL日本サッカーリーグ)の総務主事になってもらえないか、との話が舞い込みました。
 その頃、JSLは、プロ化に向けて動き出しており、自分には、やはりサッカーしかない、もう一度サッカー界に戻って、残りの人生をサッカーに賭けるか、と思い直すことにしました。当時の日本サッカー界は、ご存知の方も多いと思いますが、今とはまるで違い、日本のスポーツの中でも人気のない順に数えたほうが早いスポーツで、競技場は常にガラガラ、家族とか、会社の知り合いとか、選手が連れてきた子どもたちが遊び回っているのが試合中に見えてしまう、そんな時代です。
 しかし、左遷で人生の大目標を失ってしまった分だけ、私にはサッカーのプロ化という大改革への情熱が湧いてくるようにも思えました。


 結果的には、この「左遷」が、「Jリーグ」のチェアマン、川淵三郎の誕生につながったのです。
 もし川淵さんが当初の人生設計どおり、古河電工の重役コースに乗っていたら、「仕事がありますので」ということで、サッカーの仕事に注力することはなかったかもしれません。
 人生塞翁が馬、とは言いますが、こういうこともあるのだなあ、と。


 川淵さんは、けっこう白黒はっきりとした物言いをする人で、物事を前に進めるために、ときには「独裁者」になることも必要だ、とも仰っています。
 周囲との衝突も多かったそうなのですが、Jリーグが成功を収めた理由には、川淵さんの牽引力が大きかったのです。


 川淵さんは、「仕事」での考え方として、こんな話をされています。

 サッカーと仕事を両立させるうちに、私の中で、主張と協調をミックスしてうまく使い分ける術が身に付いたのでしょうか。サッカーでは、勝負がかかっているとき、一瞬でも早く、ストレートに響く言葉を使わざるをえません。
 監督がもしハーフタイムに、「ダイレクトパスを多用して打開せよ」と指示し、その横でコーチが「もしダイレクトが難しいときは、ボールを自分で持っていけばいいから」と言ったとする。そうすると結局、監督が強い口調で勝つために示した方針を、コーチが余計なことを言ったことで取り消すことになってしまう。
「ダイレクトでやれ」と言えばそれが唯一の指示であって、「もし難しければ……」などと説明する必要はない。サッカーの試合で修羅場の経験を重ね、同時に、古河のサラリーマンとしても少しずつ責任ある立場になるうちに、自分が強い気持ちで一つの方針を示すためには、片方は完全に無視したほうがいい、と思うようになりました。要するに「好かれたいとは思わない」「嫌われてもいい」という覚悟ができるようになった。少年時代が嘘のような変化を遂げたわけです。
 シンクロナイズドスイミングで功績を上げ、北京五輪では日本のライバル、中国チームの指導を務めたコーチの井村雅代さんのインタビューで、「私は人に好かれたくない。好かれたくないと割り切っているから、言うべきこともはっきり言えるし、思い切った行動ができる」というコメントがあって、「あの若さでこんなことを言えるなんて、たいした指導者だなあ」と感心したことがあります。リーダーとして、私自身の中にも少しはあった考え方でしたが、「好かれたくないから思い切り行動できる」という井村さんの率直な言葉を改めて記憶にとどめました。


 ベストセラーになった『嫌われる勇気』みたいな話だなあ、と思いながら読みました。
 こうしてみると、「他人に嫌われたくないから」、先に言い訳をしたり、逃げ道をつくってしまい、大事な指示が曖昧になってしまったり、本当に必要なことを決められなくなってしまうというのは、ありますよね。
 このやり方だと、結果をしっかり出していかないと、「嫌われ、言うことを聞いてもらえなくなる」リスクがあるので、指示を出すほうにも、大きなプレッシャーがかかります。


 「嫌われてもいい」と思うと、人はけっこう「自由」になる。
 でも、その「嫌われる覚悟をする」というのは、実行するとなると、かなり難しい。
 やっぱり、「好かれたい」「嫌われたくない」と思ってしまう。

 以心伝心ではうまくいかない、といった経験を前の節で記しました。古河時代、監督に就任したのは35歳と若い頃で、言葉足らずで、未熟さを痛感させられたことがありました。
 当時、日本リーグ三菱重工が強豪で、私たちはここを何とか崩したい、力はあるのだから自信を持って戦えば勝てる、といった状態でした。どしゃぶりの日、西が丘サッカー場(東京都北区)の前にあるこじんまりとした中華料理店に皆で集まって、三菱との対戦を前に、決起集会のようなミーティングをしたのです。監督として、選手に余計なプレッシャーをかけることなくリラックスさせ、伸び伸びとしたプレーをして欲しかった。それに、雨の中、わざわざ足を運んでくれるお客さんに喜んでもらえるような試合の中身にこだわりたかったのです。
 そんな思いから、こう話しました。
「負けてもいいから、いい試合をして欲しい」と。その場での選手の反応は悪いものではなかったように感じましたし、実際、試合には敗れましたが、よく戦った、と思いました。
 ところが何日か後になって、ある選手に「あのときミーティングで、川淵さんに負けてもいいから、と言われてみんな相当ガックリきましたよ、あのミーティングまでは、絶対勝つぞ、と今までにないくらい気合が入っていたんです」と指摘されたのです。私の意図は、「負けていい」ではなく、「勝敗を気にするよりも、中身にこだわって戦えば結果がついてくるだろう」との思いでした。しかし、その思いは全く伝わっていなかった。リラックスさせようとして逆に最悪のことを言ってしまったわけです。
 自分が「言葉で伝えたよ」というのと、相手が「心に伝わりました」と思うのは、全く次元が違うのです。チームを統率する者が、どんな理由であれ、「負けてもいいから」などと言ってはいけない。そう気づかされた、とても記憶に残る出来事でした。その後、これは監督であっても、職場の管理者であっても同じことだ、とずっと肝に銘じてきました。


 ああ、こういうのも、「選手たちをリラックスさせるつもりで」やってしまいがちなことだなあ、と。
 この時は、川淵さんに選手がフィードバックしてくれましたが、それがなくて、こういうことを善意で繰り返している指導者って、けっこういそうな気がします。
 僕も、この手のことをやってしまいがちなので、身にしみました。
 

 野球界、とくに渡邊恒雄さんとの「確執」についても書いておられるのですが、考えてみれば、「左遷されたサラリーマン」が、「ナベツネ」と渡り合ったというのも、なかなかすごいことなのではないかと。


 毀誉褒貶はありますが、サッカー不毛の国であった日本がここまでの「サッカー大国」になった過程で、川淵さんが果たした役割は大きかったのです。
 「もう店じまいしてしまおうかな」と思っている中高年の皆様は、一度読んでみてはいかがでしょうか。
 その「挫折」は、もしかしたら、「限界」ではなくて、「転機」なのかもしれません。
 大なり小なり、組織で「リーダー」の立場にある人にも、読んでみていただきたい新書です。

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