琥珀色の戯言

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【読書感想】謝罪大国ニッポン ☆☆☆☆

内容紹介
日本人は、なぜ謝り続けなければいけないのか?
この国に、謝罪のない日はない。致命的な失態はもとより、些細なあやまちですら盛大に揚げ足をとられ、ネットを通して徒党を組んだ「怒りの代理人」の攻撃によって謝罪会見に追い込まれた挙句、今度はその内容を品評され、「反省していない」とさらに騒がれ……。この仕打ちは、新たな標的が現れるまで続き、謝った人をボロボロになるまで追い込む。本書では、ネット編集者・ライター、PRマンとして数多くの謝罪を目撃し体験してきた筆者が、現代社会に渦巻く謝罪の輪迴の実情と原因を、山一破綻会見、東京五輪エンブレム問題、ベッキー不倫騒動など数々の事例とともに検証・分析。“謝罪大国ニッポン”を生き抜くための処世術を語る。


『ネットはバカと暇人のもの』の中川淳一郎さんによる、「謝罪の作法」。
ちょっと前(2013年)に宮藤官九郎監督の『謝罪の王様』という映画がありました。
中川さんは「企業などに属する謝罪のプロ」ではありませんが、ネットでのニュースサイト運営や、ラジオでの自らの「やらかし体験」などをもとに、「やたらと謝らなければならなくなってしまった国、ニッポン」での処世術について語っておられるのです。

 本書で述べたいのは、謝罪があまりにも安易なものになったことを批判しつつも、適切な謝罪は身を助けてくれるということである。また、不要な謝罪要求に対しては無視をしたり逆にそんな要求をしてきたことを謝罪させるといった合気道的なことも書いている。
 私自身は、元々広告代理店というクライアントに常に謝罪をしているような場所で仕事をし、その後もライター・編集者になり、名誉毀損の記事を出したりするなど、謝罪をする機会は多かった。本当に迷惑をかけた場合は、誠心誠意謝罪をしてきた。しかしながら、最後に謝罪をしたのは実は8年前の2008年である。その後、2016年までの8年間、10万本ほどの記事をネット・紙メディア両方で編集してきたが、謝罪経験はない。それはおそらく謝罪をしないでいいような逃げ道を作ってきたからだろう。あとは、28歳から35歳にかけ、散々失敗をし、謝罪をしてきたために、ヘンな話だが「謝罪をしなくてはいけないレベル」が分かってきたのだと思う。もちろんクレームは今でも受けることはあるが、「これは謝罪しないでいい」という相手の怒り度合いと実害を鑑み、対応をしてきた。
 謝罪をしなかった理由は、面倒くさかったである。謝罪をする必要は本来ないにもかかわらず、「私は謝罪される権利がある」と考える人により、無理難題を押し付けられたからだ。


 広告代理店での勤務経験があり、芸能界の事情にもある程度通じている中川さんは、ベッキーさんの「謝罪」が、誰に対して、何のために行なわれたのか、を説明しています。
 ベッキーは、スポンサーのほうを意識していたけれど、「世間様」の反応を読み誤っていた、あるいは、甘くみすぎていたのではないか、と。
 「日本式の謝罪ができなかった」というマクドナルドの異物混入事件についても解説されていて、「他人のせいにする」「自分が被害者ぶる」というのは、企業の謝罪会見としては、日本では受け入れられない、と述べられています。

 一つ分かるのが、謝罪で成功するか失敗するかの境界線が「イメージ通りかどうか」ということなのだ。船場吉兆は高級店なのにみみっちいことをやっていたからアウト、マクドナルドはファミリーでも行ける安心できる店だと思っていたのに不正をしていたからアウト。その一方、ベッキーの相手である「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音は、「ゲス」というバンド名も含め、いかにも遊んでいそうなゲスミュージシャンで、謝罪もしないことも含めてセーフ、ということになる。ギャップがあればあるほど衝撃度は高くなり、何を言っても許されない空気になっていくのだ。
 ここまで見ると、謝罪が成功するかどうかというのは、普段からの行いと相手に与えるイメージが重要ということになってくるだろう。そう、謝罪というものは「人による」という実に理不尽なもので、だったら謝罪をしないでも済むよう品行方正かつ誠実な人生を送ることがもっとも有用であるものの、普段からの立ち居振る舞いをいかにすべきか、ということも考えておくべきである。


 いやほんと、この「人による」というのが難しいところで。
 ふだんから、「品行方正で誠実な立ち振る舞い」をしているようにみえる人ほど、何か問題が起こったときに、より強くバッシングされやすい。
 「謝罪すべき基準」は明確ではなくて、きわめて属人的なものなのです。
 北野武さんの発言なんて、いくらでも「叩ける」はずです。
 でも、たけしさんは叩かれない。
 むしろ、「映画監督としても世界的に有名なのに、歯に衣着せぬ発言を続けていて、すごい!」とか言われているわけです。
 もちろん、こういう人がいない社会というのは、息苦しくなるばかりなんでしょうけど。
 「女性は35歳を過ぎると羊水が腐るって聞いた」というラジオでの発言で大バッシングされた女性アーティストなんて、「単に無知なだけなのでは……」とも僕は思ったんですよね。


 この新書のなかで、中川さんは「許してもらいやすい謝罪のしかた」について紹介しています。

 さて、私の場合、謝罪体験については中学1年生の時の担任教師・マルモ氏の一言がベースとなっている。同氏の名前は「も」で始まるのだが、彼が使うハンコが「も」の文字の周りに円があり「マルモ先生」と呼ばれていたのである。マルモ先生は歴史・地理の先生で、授業はとんでもなく面白かった。提出させたノートにハンコが押されると「あぁ、評価してもらえた」と嬉しくなるほどのカリスマであった。そんな彼がホームルームの時間、生徒を怒った後に言った一言が今でも印象に残っている。
「あのね、怒られた場合に言い訳したい気持ちは分かるの! でも、その時の順番をちゃんと考えなさい! 正しい言い訳の仕方はまずは『ごめんなさい』から入る。そして、その後に『でも……』と続けるもの。みんなは、怒られたところでいきなり『でも……』と言い訳から入る。そうすると怒ってる側からするともう許せなくなる。とにかく最初は納得できないながらも『ごめんなさい』から入りなさい!」

「着いた瞬間、ハーハーゼーゼーしながら汗まみれになってると、相手は許してくれることが多いんだ」


 このやり方については、かつてとある女性の大学教授を怒らせてしまった時に習得したのだという。田中寛子(仮名)教授を批判するような記事を書いたところ、本人から「謝罪をしなさい!」と呼び出しをくらった。F記者(当時)は「すぐ行きます!」と答え、タクシーに乗って田中教授の勤務する大学へ。この大学はキャンパスが広く多くの建物があるため、なかなか目指す建物に辿りつけない。元々F記者は方向音痴のきらいがあるので迷いに迷う。焦って走って、研究室に駆け付けたら、本気でゼーゼーハーハーとなり、汗まみれに。
 名刺交換としてすぐさま田中教授から怒られたが、約10分経過後、田中教授は怒り終えてこう言った。
「あなたからああやって書かれて非常に腹が立った。でも、あなたは呼び出した直後に走ってきて、ここまで駆けつけたからそこに免じて許してあげるわ」
 F編集長はこのやり方について「田中寛子メソッド」と名付け、以後活用しているのだという。


 僕も「これは効果的だろうな」と思います。
 というか、こうしてあらためて書かなくても、みんなが認識しているやり方だと思っていました。
 昔、「アメリカでは車で事故を起こしたときに、“I am sorry.”って言ってしまうと、自分の落ち度を認めたことになって、全部責任を押し付けられる」っていう話を聞いたことがあります。
 「こちらから謝ったら負け」なんだよ、と
 実際は、たぶんそんなことは無いのでしょうけど。


 少なくとも僕が知っている日本の一般社会やネットでは、「大火事になる前に謝ってしまえば、相手は振り上げた拳のやり場がなくなってしまう」ことが多いのです。
 どんなに理不尽だと思っても、反論すると、どんどんディテールの不備を突いてくる人もいます。


 その一方で、あまりに理不尽な言いがかりに対しては、ネットでも自浄作用があるのです。
 むしろ、炎上しそうなときの初期対応で、火に油を注いでしまうことが多い。
 あの「センテンススプリング!」とか、まさにその典型例でした。


 結局のところ、他人は謝罪の内容や、その問題発言・行動の背景なんて、どんなに丁寧に説明しても、ほとんど聞いてはいないのです。
 みているのは、わかりやすい(そして、いくらでも取り繕える)態度や憔悴している様子だけ。


 謝罪、それは、相手に優越感を与えたほうが勝つゲーム。
 これでいいのだろうか、とは思うけれど、良い悪いなんて悩むより、汗まみれになって頭を下げろ、なんだったら、土下座だってしろ、というのが、この謝罪大国で生き延びるための「処世術」なのです。
 頭を下げるのは、タダ。
 そう割り切れれば、苦労しないのかもしれないけど、ね……


謝罪の王様

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