琥珀色の戯言

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【読書感想】真田信繁の書状を読む ☆☆☆☆

内容紹介
一次史料から浮かび上がる、真田信繁の素顔
真田信繁は、「大坂の陣で活躍した武将」として広く知られています。しかし、大坂入城から討死までは、彼の人生最後の八ヶ月間にすぎません。それ以前の活動は、置き去りにしてよいものでしょうか? また、「幸村」という名をはじめとする、軍記物由来の情報も史実と勘違いされがちで、結果的に不確かな信繁像が流布してしまっているのが実情です。そこで本書では、信繁が出した全一七点におよぶ書状を道しるべに、彼の足跡を辿りなおしたいと考えます。軍記物など後世に編まれた「二次史料」ではなく、書状という「一次史料」を丹念に読むことで、多くの新知見を得ることができるでしょう。誰も知らなかった、信繁の素顔に触れる旅がはじまります!


 後世の人々による「英雄」としての物語に左右されない、当時の「書状」という「一時史料」からみた、真田信繁の人物像を紹介した新書……と言いたいところなのですが、率直に言うと、17点の書状だけから、ひとりの人物の具体的な姿を想像するのは難しいな、とも感じました。
 どちらかというと、これは「真田信繁はどんな人だったのか」がわかるというより、歴史研究者たちは、どんなふうに史料を読んでいるのか、そして、歴史を検証するというのは、いかに地道な仕事なのか、を知ることができる本だと思います。
 ですから、「真田信繁ファン」よりも、「歴史と、歴史を研究することに興味がある人」のほうに向いているのではないかと。


 著者は、今年(平成28年度)のNHK大河ドラマ真田丸』の時代考証を担当されているそうです。

 考証作業を進める中で、多くの事実が「掘り起こされないまま眠っている」ことに気がつかされた。その一部、たとえば信繁が秀吉馬廻であったことなどは、ドラマにも反映していただいたが、新知見であるために「創作ではないか」という疑問も寄せられたと聞く。時代考証の立場からすれば、一般の方々への解説不足を思い知らされた次第である。
 新知見の多くは、信繁が出したり、受け取ったりした文書の再検討により、明らかにされたものである。日本史学研究においては、「古文書」の検討がその根幹をなす。
 そこで本書では、信繁が出した文書全17点をすべてお示しし、そこから読み取れる信繁の足跡を、検討していくこととしたい。信繁が受け取った文書についても、一部を除き全文を検討する。また、書状中で信繁の動静がわかる文書も、参考として取り上げる。これだけ並べると、残された史料は思ったよりも多いというのが実感である。


 最近、九州国立博物館に行った際、「織田信長の感状」というのを見て、「ああ、信長というのは、こんなに繊細な字を書く人なのだなあ、今の時代まで残っているなんて、すごいことだなあ」と感動していたのです。
 しかしながら、著者は古文書の多く、とくに権力者が書いたものの多くは自筆ではなく、「祐筆」という文書作成係が書き、権力者はサインだけを自分でしたり、印章を押したりしただけだったことを紹介しています。
 言われてみれば、そりゃそうか、という話ではあるのですけど。
 ただし、真田信繁に関しては、九度山に隠棲(配流)中の文章は、自筆の可能性が高いそうです。
 祐筆を使えるような状況ではなかった、ということなのでしょうね。
 そして、信繁の字は「かなりの癖字」なのだとか。この新書にはその書状の写真も掲載されているのですが、「これが真田信繁の字か」と、感慨深いものがあります。


 真田信繁(幸村)は、日本史のなかでも人気が高い武将であり、もう研究され尽くしているのではないか、と思っていたのですが、この本によると、最近になってまた新しく分かる様になって来た事も少なからずある、ということです。
 こうしてNHK大河ドラマの題材となったことによって、新たに発掘された史料もあるのだとか。
 大河ドラマの影響力というのは、やはり侮れないもののようです。


 そして、当時の情勢を直接伝えているもののはずの「書状」にも、さまざまな思惑が隠されていることもわかります。
 真田昌幸の死後、徳川家康と豊臣家の関係が険悪になった時期、九度山の信繁のもとに、兄・信之から様子伺いの書状が来て、それに対して、信繁は「相変わらずの暮らしぶりです」という当たり障りのない返事を書いています。
 これには、信之からの牽制に対して、信繁が態度を決めかねている(あるいは、内心では決めていても、それを兄には直接伝えない)という駆け引きがあったのかもしれません。
 それはもう、外部の、後世の人間からは、「推測する」しかないのですが。


 また、書状というのは「書いた人にとっての主観」に基づいているために、その後の歴史の動きがわかっている後世の人間からするとわかりにくくなってしまうところもあるようです。

 大谷吉継の書状を読む上で混乱を招くのは「年寄衆」という言葉である。「年寄衆輝元・備前中納言殿」と続くため、「五大老」である毛利輝元宇喜多秀家と解釈しがちだが、実は違う。「年寄衆・輝元・備前中納言殿」なのだ。「五大老」「五奉行」という言葉は、江戸時代に成立したもので、秀吉を含めた同時代の人間が用いた言葉ではない。特に「大老」は、江戸時代の大老をそのまま転用したもので、関ヶ原時点では存在しない言葉であった。
 そしてややこしいことに、いわゆる「五奉行」、特に石田三成を中心とするグループは、自分たちのことを「年寄」「おとな(老)」つまり豊臣政権の家老であると自称していた。「五大老」については敢えて「奉行」と呼んで、「年寄」たる自分たちに従う役人に過ぎないという意思表示をしていたのである。
 当然家康サイドは逆の表現を用いる。自分たちこそが「年寄」であって、三成たちは「奉行」に過ぎない。このため、秀吉死後の書状を読む際には、差出人がどのような政治的立場にいたかを考えないと、「年寄」「おとな」「奉行」が誰を指しているのか、混乱してしまう。


 当時の背景を踏まえて、こういうところまで読まなければならないのですから、書状を読むというのは、本当に大変なことなのだなあ、と。
 逆に、そういう表現から、それぞれの人物が、そのときに考えていたことがうかがえる、というのもあるみたいなのですが。


 この本で紹介されている「書状」だけ読んでいると、真田信繁という人物は、まだ40代半ばくらいにもかかわらず、「もうすっかり年を取ってしまった」と嘆き、「お金がない」「お酒が飲みたい」と無心をしている、うだつのあがらない中年オヤジのようにも感じられます。
 もし大坂の陣が起こらなければ、あるいは、その前に昌幸・信繁父子が赦免されて、信濃に戻ることができていたならば、信繁の人生は、全く違ったものになっていたはずです。
 

 信繁とは関係ないのですが、この新書のなかで、こんな話が出てきます。

 前近代社会では、高級紙が贈答に用いられるほどで、ようするに無尽蔵にあるわけではない。時代が下るにつれ、文書によるやりとりはどんどん増加していくから、ある程度節約をする必要がある。
 そうして生まれたのが、堅紙を横半分に折って使った「折紙」である。折紙は、最初から折った状態で書き進め、奥まで書き終えたらそのまま左右にひっくり返して続きを書く。したがって折紙を開くと、上半分と下半分で文字の向きが逆さ、つまり鏡文字になる。このため、掛け軸にする際に、折り目で切って、向きを整えてしまうことがしばしばある。
 堅紙よりも多くの文字が書けるため、折紙を使った文書は略式とみなされた。したがって本来は目下に出す命令書や、贈答品の目録やメモなど、用途が限定されていた。江戸時代に鑑定書に用いられたため、「折紙付き」という言葉が生まれている。


「折紙付き」に、なんとなく折り鶴みたいなのをイメージしながらも、なんでそこで「折紙」なのか調べることのないままこの年まで生きてきた僕にとっては、目から鱗が落ちた感じです。
というか、そんなおかしな思い込みについて、なんで今まできちんと調べておかなかったのだろう。
やっぱり、研究者には向いてないな……


「歴史について研究する」ことの厳しさ、難しさ、そして面白さが「書状を読む」ことを通じて伝わってくる、なかなか興味深い新書でした。

 

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