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琥珀色の戯言

【読書感想】【映画感想】のブログです。2016年8月より、『はてなブログ』に移行しました。

【読書感想】朝鮮王公族―帝国日本の準皇族 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
1910年8月、日本は大韓帝国を併合した。最大の懸案だった皇帝一族の処遇については、王族・公族の身分を華族より上に新設し、解決を図った。1945年8月の敗戦まで、男子は軍務に就くなど、皇族同様の義務と役割を担う。異民族ながら「準皇族」扱いされた彼らの思いは複雑であり、日本に忠誠を尽くす者、独立運動に関与する者など多様であった。本書は、帝国日本に翻弄された26人の王公族の全貌を明らかにする。


 『ラストエンペラー』という映画をご存知でしょうか?
 日本では1988年に公開されたこの作品は、清朝最後の皇帝であり、その後、満州国皇帝になった溥儀の生涯を描いたものでした。わずか3歳で皇帝となった溥儀の前に、百官がひれ伏す場面が、とても印象に残っています。
 溥儀は清朝最後の皇帝から、満州国の皇帝となりました。
 太平洋戦争後は政治犯として収容され、最後はひとりの市民として亡くなっています。


 大日本帝国は、1910年に大韓帝国を併合しました。
 それによって、当時の韓国の皇帝一族はどうなったのか?その後の皇族たちは?

 1910年(明治43)年から47(昭和22)年まで、日本には「王族」と「公族」という身分が存在した。1910年の韓国併合に際して、天皇大韓帝国皇室のために詔書を発して創設した身分である。高宗太皇帝、純宗皇帝、皇太子李垠(りぎん・イウン)といった大韓帝国皇室の嫡流は王族に、皇帝の弟や太皇帝の兄などの傍系は公族になった。

 この新書を読んでいて意外だったのは、初代韓国統監に就いた伊藤博文が、(すくなくとも早い時期には)韓国併合を望んではいなかったということでした。
 僕は、そういう野心を持って、伊藤博文が統監になったと思いこんでいたので。
 当時の大韓帝国は、経済的にかなり厳しい状況にあって、併合してしまえば、その莫大な経済的な負担も背負うことになり、日本国内でも経済界を中心に反対の声がかなりあったそうです。
 「植民地」をつくれば、経済的に潤う、ような印象があったのですが、むしろ、この併合に関しては、経済的な収支はマイナスでした。

 伊藤(博文)の主眼は大韓帝国の宮中を近代化し、君主が西欧列強や清にすり寄って日本の障害にならないよう改革することにあった。大韓帝国を日本に併合してしまえば不安を取り除けるが、経済的な負担を覚悟しなければならない。そうしたジレンマを解決するべく、皇太子李垠を東京に留学させて次期皇帝を親日的で近代的立憲主義を理解する英明君主として育成し、大韓帝国を分離したまま日本の「利益線」を合理的に確保しようとしたとみるべきであろう。

 その伊藤博文が暗殺されてしまったことで、日本は「併合」に向かっていくことになったのです。
 もし、安重根伊藤博文を暗殺しなければ、「併合」の時期は、少なくとも、もう少し遅くなってはいたはず。


 そして、「併合」の際に問題となったのが、大韓帝国の皇帝や皇族の処遇でした。
 あまり手荒なことをして遺恨を残したり、国際的に問題となるリスクを考えると、日本としては、なるべく穏便に済ませたかったのは事実でしょう。


 溥儀の場合は、体裁としては「独立国」の皇帝だったのですが、大韓帝国の場合は「併合」されてしまったのですから、そのまま「皇帝」ではいられません。ひとつの「大日本帝国」に、ふたりの皇帝が存在してはいけないから。
 そこで、彼らは大日本帝国の「準皇族」として扱われることになるのです。
 おおまかに言うと、皇帝の直系である「大公」は、「皇太子・皇太子妃より下、親王親王妃より上」、直系以外の「公」は、「親王親王妃の次」という扱いだったようです。


 それまで「皇帝とその一族」だった人々が、自分の国を奪われ、他者の支配下に置かれることに、もちろん、屈辱感はあったでしょう。
 大日本帝国に膝を屈しようとせず、反発し続けた人もいました。
 その一方で、「日本の皇族と同じように扱われる」「日本で生活を保障され、教育を受ける」ことによって、日本と「同化」してしまう朝鮮王侯族もいました。
 ずっと日本で生活していれば、そうなるほうが、むしろ自然であるような気もします。
 

 彼らの内心まではわからないのですが、総じて、「併合された国の支配者層としては、かなり丁重に扱われていた」ということは言えそうです。
 もちろん、「併合・占領政策上、そのほうがメリットが大きいと判断されていた」面はあるとしても。
 宮家と婚姻した者もあり、軍務に就き、最後まで日本軍の一員として終戦を迎えた者もいます。
 広島で被爆し、亡くなった公族もいました。
 少なくとも太平洋戦争の終わりまでは、表立って反日運動を行なった人は、いなかったようです。
 日本人でもハードルが高かった「国葬」で葬られた人もいます。
 

 李垠は特攻作戦とも無縁ではなかったと思われる。息子の李玖は、父が暗い顔で「陛下に申しわけがない。わが国の飛行機は、B29が飛行する高さまで飛んで行って体当たりのできる飛行機も、人も、燃料も、なくなってきた」と吐露する姿を見たと述懐している。李垠はきわめて口数が少なく、息子ともめったに会話をしなかったというので、李玖にとってはこの発言がよほど印象に残っていたに違いない。


 もちろん、丁重に扱われた、良いことばかりだった、という話ではないのですが、彼らが従順であるかぎり、敬意を払われていたのは間違いなさそうです。
 そして、彼らの多くもまた、その「配慮」に恩義を感じていたのかもしれません。
 いや、恩義云々というより、彼らは、あの戦争の時期には「日本人」だったのです。
 この李垠の発言からは、「ひとりの日本の軍人」としての表情しか浮かんできません。


 敗戦によって、彼らは「日本人でもなければ、朝鮮人でもない」存在になってしまいました。
 韓国に戻った人もいれば、祖国の反感をおそれて、日本やアメリカで生活した人もいます。
 騙されたり、貧困にあえいだ人もいました。
 もちろんそれは、朝鮮王公族にかぎった話ではないのだけれど。

 「家」の維持のために王公族の人々は、どのような思いを持って王公族の身分にあったであろうか。いうまでもなく王公族には十人十色の考えがあったのであり、それを一つにまとめるのは容易ではない。ただし、特徴として次の二点が見出せるのではないだろうか。一つは、日本を嫌悪しつつも、李王家など、それぞれの「家」を維持していくために日本への従属を致し方なしとする態度であり。もう一つは、王公族の地位を自明のものとして受け入れ、皇族と同じ義務を果たそうとする姿勢である。


 著者は、併合当時に成人していた「第一世代」は前者、その当時はまだ幼く、日本で教育を受けた「第二世代」は後者であり、後者は「もともとの皇族と同化していた」と述べています。
 皇帝とか王族、貴族というのは、その「国」を維持することよりも、自分の「家」を保つことのほうを重視することも多いのですね。


 朝鮮王公族については、韓国でも「禁忌」のような扱いになっていて、あまり研究が進んでいなかったそうです。
 僕も、こういう立場の人たちがいたことを知りませんでした。


 彼らは戦争の時代の「被害者」なのだろうか、それとも(朝鮮にとっての)「売国奴」なのだろうか?