琥珀色の戯言

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【読書感想】「文系学部廃止」の衝撃 ☆☆☆


Kindle版もあります。

【内容紹介】
 二〇一五年六月に文科省が出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」の通知を受け、各メディアは「国が文系学部を廃止しようとしている」と報じ、騒動となった。これは事の経緯を見誤った報道ではあったものの、「理系」偏重と「文系」軽視の傾向は否定できない。
 本著では、大学論、メディア論、カルチュラル・スタディーズを牽引してきた著者が、錯綜する議論を整理しつつ、社会の歴史的変化に対応するためには、短期的な答えを出す「理系的な知」より、目的や価値の新たな軸を発見・創造する「文系的な知」こそが役に立つ論拠を提示。


  僕はいちおう理系学部の出身なのですが、最近の文系学部の肩身の狭さをみていると、本当にそれで良いのかなあ、なんて思うこともあるのです。
 まあ、医学部っていうのは「理系」というか、「理科系の教科ができないと困る」学部ではあるのですが、小論文入試とか面接重視などの受験が流行っていたこともあり、バリバリの理系だけじゃなくて、けっこう文系寄りの人も入ってきたんですよね。
 僕もそのはしくれ、だったのです。医学部は「理系のなかの文系」なんて言われることもあり、理数系がものすごくできる人から、有名私大の文系学部を卒業後に医学部に入ってきた人など、とにかくいろんな人がいました。
 臨床実習などをやってみると、「頭のよさ」だけではうまく周囲とやっていけず、困惑している人も少なからずいたんですよね。
 患者さんにも、本当にいろんな人がいるから。


 個人的には、もしこの仕事を選ばなければ、絶対に文系学部に行っていたと思うので、文系学部が「役に立たない」という理由で、国からも三行半をつきつけられた、というようなニュースを聞いて、「大学って、よりいっそう『職業訓練校化』して、儲からないことはやらないようになっていくのか、それを国が推進していくのか……」と寂しくなりました。
 でも、この新書を読んでいると、どうもそれはメディアの暴走というか、あまりにも拡大解釈しすぎ、だったようです。

「文系学部廃止」という衝撃のきっかけとなったのは、2015年6月8日に文部科学省が各国立大学法人学長に出した「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知です。これがどのようにして、「文部科学省は文系学部を廃止しようとしている」という騒ぎになっていったのか、まず、その経緯を検証してみたいと思います。


 著者の検証に沿っていくと、文部科学省としては、「今後の人口動態も考えて、人文科学系・教員養成系の学部や文化系の大学院については、規模縮小や統廃合を要請していく」ということだったようです。
 あたりまえの話ですが、すぐに文化系の学部を廃止してしまう、というような極端な意思表示ではなかったのです。
 官僚だって文系学部を出ている人はたくさんいるでしょうし(というか、一部の技術職を除けば、文系学部出身のほうが多いはず)、そんなに簡単に「文系学部廃止」なんてことにはならないですよね。
 ところが、それが下村文部科学大臣の「入学式・卒業式での日の丸・君が代の義務付け」や、2015年夏の「集団的自衛権」を含む安保関連法案に対する政府への批判と結びつき、「文化系学部絶滅」を企図しているかのように報じられ、海外にも伝えられました。
 そして、こんな拡大解釈が広まってしまった背景として、著者はこう述べてます。

 遅くても2004年の国立大学法人化の前後から進められてきた産業競争力重視の大学政策を背景に、「儲かる理系」と「儲からない文系」という構図が当たり前のように成立し、大学も経済成長に敎育で貢献しなくてはいけないという前提を皆が受け入れてきた点です。
 文系学部で学んだことは就職に有利ではないしお金にならないから役に立たないのだという「常識」が形成され、それを皆はっきりとは言わないまでも潜在的に信じ込んでしまっている状況が、広く国民一般に成立してしまった。実はこれが最大の問題です。
 ですから、今回の「通知」に対する経済界やメディアの反応は、文系の役割も一応は認めてあげようというレベルのもので、文科省の通知は過激すぎると言っているにすぎません。しかし問題の根本は、過去十数年の大学政策が、文系学部で学んだことは役に立たないという思い込みの上に成り立ってきたことにあります。


 著者は、「文系学部はなぜ必要なのか? 本当に有用なのか?」という問いに対して、こう答えています。

「役に立つ」とはどういうことかを深く考えなければなりません。概していえば、「役に立つ」ことには二つの次元があります。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型です。これは、どちらかというと理系的な知で、文系は苦手です。たとえば、東京と大阪を行き来するために、どのような技術をくみあわせれば最も速く行けるのかを考え、開発されたのが新幹線でした。また最近では、情報工学で、より効率的なビッグデータの処理や言語検索のシステムが開発されています。いずれも目的は所与で、その目的の達成に「役に立つ」成果を挙げます。文系の知にこうした目に見える成果の達成は難しいでしょう。
 しかし、「役に立つ」ことには、実はもう一つの次元があります。たとえば本人はどうしていいかわからないでいるのだけれども、友人や教師の言ってくれた一言によってインスピレーションが生まれ、厄介だと思っていた問題が一挙に解決に向かうようなときがあります。この場合、何が目的か最初はわかっていないのですが、その友人や教師の一言が、向かうべき方向、いわば目的や価値の軸を発見させてくれるのです。このようにして、「役に立つ」ための価値や目的自体を創造することを価値的創造型と呼んでおきたいと思います。これは、役に立つと社会が考える価値軸そのものを再考したり、新たに創造したりする実践です。文系が「役に立つ」のは、多くの場合、この後者の意味においてです。

 科学技術はもちろん大事なのだけれど、それを「どう使うか」を判断するためにも、「文系の視点」は必要なんですよね。
 有名な理系の学者たちも、文学に親しみ、そこからインスピレーションを得ています。
 そもそも、本当にすごい人というのは、文系・理系なんて枠組みを超えてしまうのかもしれません。


 僕は、学生時代に「文系のほうが遊べるし、人気があって、理系は人数が少なくて地味」だと思い込んでいたのだけれど、日本の大学、とくに国公立大学は、ずっと理系を重視してきたのです。

 日本の大学政策における文系軽視は、最近に始まったことではありません。むしろ戦後一貫して、日本政府は理工系振興に力を注いできましたから、遅くとも高度経済成長期までに、国立大学は理系中心の組織になっていました。そして今日、旧帝大と呼ばれる大規模国立大学の教員の約7割が理系であるのに対し、法学部、経済学部、文学部といった狭い意味での文系教員は約1割にすぎません。国立大学教員のほぼ4人に3人が理系で、国立大学の教育学・教員養成系を除いた文系の教員比率はたった10分の1程度にすぎないのです。つまり、「文系学部廃止」が云々されるずっと以前から、日本の国立大学では理系が圧倒的優位を占め、実質的に国立理工医科大学となっていたとも言えましょう。

 著者によると、明治後期から、第一次世界大戦前くらいまでの一時期は、「法科系エリートの時代」もあったそうです。
 戦時となると、理系が優遇されるのは、致し方ないところではあります。


 理系の研究や実験には、まとまったお金や設備が必要なので、そちらのほうを国は優先し、文系学部は私立にある程度まかせる、という考えでもあったようです。
 うーむ、「優遇されている」なんて、実感したことなかったんだけど。


 著者は、この本の後半で、あまりにも増えすぎてしまった日本の大学を、これからどう変えていくべきか、について詳述しています。
 リベラルアーツへの回帰や、さまざまな年齢層の学生を「本気で」受け入れること、世界のぎう専攻科目以外も習得することによって、複数のジャンルの組み合わせで、「オリジナリティ」を得られるようにすること。


 率直なところ、これは、大学教員向けの本なのだろうな、と思いますし、やや言い回しが難しい部分もあるのですが、「大学の企業化」というのは、長い目でみれば、あまり得策ではないと僕も思います。
 ただ、今後の日本の人口動態や高学歴ワーキングプアになってしまう人の多さを考えると、教員養成学部や大学院については、むしろ、募集人員を減らしたほうが、本当にそこで頑張りたい人たちのためにもなるのではないかなあ。

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