琥珀色の戯言

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【読書感想】真田一族と幸村の城 ☆☆☆


真田一族と幸村の城 (角川新書)

真田一族と幸村の城 (角川新書)


Kindle版もあります。

真田一族と幸村の城 (角川新書)

真田一族と幸村の城 (角川新書)

内容(「BOOK」データベースより)
真田幸隆、昌幸、そして幸村の真田三代の跡を追い、幸隆が海野氏の血脈を継ぐ者として生を受けてから、幸村が大坂夏の陣で壮絶な最期をとげるまでの、およそ一〇〇年をたどる一冊。


 今年の大河ドラマが、三谷幸喜さん脚本、堺雅人さん主演の『真田丸』ということで、また「真田ブーム」がやってきそうです。
 以前『真田太平記』も大河ドラマ化されていたのですが……と書きかけて、念のために調べてみたのですが、これは日曜日の「大河枠」とは別に、1985年から翌86年にかけて、水曜日に放送されていたんですね。
 うーむ、思い込みって怖いな。


 この新書、『真田丸』の前に、当時の歴史的な背景や、真田一族の盛衰をサラッと再確認しておこう、という人向けです。
 まったくの初心者にとっては、ちょっと端折りすぎているし(新書で220ページだと、そうなるのは致し方ないのですが)、歴史マニアにとっては、「そんなの知ってるよ」という部分が多い。
 タイトルに「城」が入っているので、伊東潤さんが書かれていたような、真田一族が居た城の掘割とか攻城戦の様子などを技術的に解説したようなマニアックな本なのかと思いきや、そこまで「城」そのものにこだわっているわけでもありません。
 真田一族の興亡そのものがドラマチックなので、それなりに楽しく読めるんですけどね。
 あまり「お涙頂戴的」になっていないのにも、僕は好感を持ちました。
 大坂夏の陣は、もうちょっと詳しく描いてほしかった、という気はするのだけれども。


 真田一族の歴史を辿ってみると、僕はいつも不思議に感じるのです。
 彼らは「忠義者」だったのか、それとも「サバイバルのためには変節も辞さないリアリスト」だったのか。

 天正10年(1582)が明けて早々、織田信長の嫡男・信忠を総大将に、大軍が信濃に攻め込んだ。呼応して徳川家康甲州に進軍。勝頼は諏訪に出陣し、昌幸も従軍して迎撃を試みるが、離反者が相次ぎ戦わずして退却する。武田軍の立て直しは、もはやかなわなかった。一ヵ月ほどの戦闘のすえ、三月、勝頼は重臣・小山田信茂の進言で、彼の居城・岩殿城に向かう。
 天目山を指した勝頼一行は、信茂の謀反に遭い、山麓の田野で妻子とともに自刃。武田氏は亡び、戦国最強を誇った武田軍団も崩れ去った。
 勝頼が新府城を退却するとき、昌幸は岩櫃城に避難するよう進言したと伝わる。しかし重臣たちが「真田は他国衆だから信じられない」と猛反対したという。信玄に仕えた幸隆以来、武田氏の軍や内政に重任を果たしてきたのに、なおも他国衆としりぞけられる。昌幸の無念ははかり知れない。勝頼の死を知ったとき、その思いは一層だったことだろう。

 僕はこの武田勝頼織田信長に滅ぼされた際の話を新田次郎さんの小説で読んで(ですから、史実かどうかはわからないのですが)、「なんで、勝頼は真田昌幸のところへ行かなかったんだ……」と思ったんですよね。
 それは、結果としての小山田信茂の裏切りと武田氏滅亡を知っているから、なのかもしれませんが。
 

 しかし、歴史の「もしも」を考えた場合、もしここで勝頼が真田氏の岩櫃城に逃れていれば、織田の圧倒的な兵力の前に、真田一族も武田氏とともに滅んでいた可能性が高かったのではないかと思います。
 これは、真田氏にとっては「危険な賭け」どころか「殉死」に近い「進言」で、賢明な昌幸は、おそらく、それがわかっていたはず。
 後年の活躍を思えば、「もしかしたら、なんとか織田軍を退けることができたのではないか」などという想像もできなくはないんですけどね。

「表裏比興の者」昌幸は、勢力の増していく大名に次々と従属先を替えたことで、「比興の者」を読み替えて「卑怯者」といわれることもある。だが「君への忠節」や「義」の理念は江戸時代に構築された思想にすぎない。戦国時代、情勢に応じて「主」を替えるのは、当然のことであった。


 真田昌幸にとって、「ともに滅ぶこと」をも厭わなかった武田氏に「選ばれなかった」ことが、「独立した大名」への岐路となったのです。
 真田一族は「幸運」だったのかもしれないけれど、昌幸自身は、どう思っていたのだろうか。


 それにしても、真田幸村は、何のために大坂の陣で、徳川方と戦ったのか。
 これが「勝ち目のない戦い」であったことは、幸村には、わかっていたはずです。
 この新書のなかで、こんな話が紹介されています。

 (大坂冬の陣と夏の陣のあいだの)休戦中に幸村は、旧知の人びとと交流し、故郷の縁者に何通かの頼りをした。大坂城の内情や、自身の心境などを語っている。その中に、姉・村松に宛てた簡潔な手紙がある。
「私が大坂に参ったことを、きっかいと思っていらっしゃることでしょう。戦いが終わり、私が死ななかったら、お会いしてお話ししたく思います」と、自身の行動を「きっかい」と言っている。幸村自身、この決断は、なかなか分かってもらえないと思っていたのだ。
 父・昌幸が遺言の時、「そなたには武名もなく……」と言ったように、冬の陣まではほとんど無名で、注目されていない。


(中略)


 昌幸の死で家臣のほとんどが上田に帰参し、仕送りも乏しくなった。真田紐を商っても対価はしれている。そうしたなかで老いを迎えようとしていた。妻や多くの子らの行く末も案じられただろう。そこへ大坂城からの誘いが来た。幸村の心情を誰もが察せられるのである。
 冬の陣後、家康から10万石の誘いがあったとき幸村は、「高野山で乞食(托鉢僧の意)のようになるところを秀頼様に召し出されて、一曲輪の大将にしてもらい幸せだった。たとえ1000万石くださるとおっしゃっても、お味方になるわけにはいかない」と断ったという、これが本音だったのではないだろうか。大坂夏の陣で幸村が討ち死にしたあと、捕らえられた妻は黄金57枚を所持していたという。
「幸村は義のために散った」という賛歌は、はたしてそうなのであろうか。


 こればっかりは、本人じゃないとわからないし、もしかしたら、本人にもよくわからないまま「自分のやるべきことをやっていた」だけなのかもしれません。
 ただ、それまでのいきさつを考えても、「秀頼様への忠義」だけではなかったのだろうな、とは思います。
 だからこそ、真田幸村という人の生きざま、死にざまは、時代をこえて語り継がれているのではなかろうか。
 

 大河ドラマの前に、ちょっと「おさらい」してみたい歴史好きには、ちょうどいい新書ではないかと。