琥珀色の戯言

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【読書感想】戦国の陣形 ☆☆☆☆


戦国の陣形 (講談社現代新書)

戦国の陣形 (講談社現代新書)


Kindle版もあります。

戦国の陣形 (講談社現代新書)

戦国の陣形 (講談社現代新書)

内容紹介
◆鶴翼、車懸、魚鱗…「兵法」の意外な新事実/軍勢を軍隊へと改めたのは織田信長ではなかった!? 甲斐武田氏と越後上杉氏が取り組んだ軍制改革の中身とは!? 歴史とは事実であらねばならない――。徹底的に真実を掘り起こした渾身の一冊。◆伊東潤氏絶賛!/川中島の、三方ヶ原の、関ヶ原実相はこうだったのか!頭を割られたような衝撃が走る。中世軍事史に一石を投じる快作。


 コンピュータの「歴史シミュレーションゲーム」の比較的新しい作品で遊んだことがあれば、「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」という言葉と、だいたいの形のイメージは頭に浮かんでくるのではないでしょうか。
 楕円形に味方が集まり、兵力を集中させている「魚鱗」、V字型で横に広い「鶴翼」。
 それぞれの陣形には「相性」があって、「鶴翼の陣は、魚鱗の陣に弱い」というような設定がなされていることも多いのです。
 でも、本当に戦国時代に、そんなに明確な「陣形」が存在していたのか?
 そもそも、そんなにきっちりと兵力の「運用」を行なうことが、可能だったのか?


 『銀河英雄伝説』で、同盟軍の名将・ヤン・ウェンリー提督の下には、「艦隊運用の名人」フィッシャー提督がいました。
 作中で、「フィッシャー提督がいないと、地図なしでピクニックに行くようなものだ」という言葉が出てきます。
 どんなに優秀な最高司令官や軍師がいても、ちゃんと日頃から訓練をしている兵士たちと、実務に長けた現場指揮官がいければ、頭でイメージしているように軍勢を動かすことは至難の技なのです。
 そう考えると、日本の戦国時代くらいの時期に、ある武将の軍勢が、きちんと「陣形」をとって戦うことが可能だったのかどうか?
 言われてみれば「そりゃそうだよな」という話ではあります。
 軍師たちが采配をふるって、多彩な陣形を駆使して戦うほうが、ドラマチックだとは思うのだけれども。

 陣形――まずはわれわれがよく想起するその通念を一から見直してみよう。
 近年、歴史物の著作物でよく見られるような、陣形の図説や軍勢の配置図というものは、実はすべて後世の想像図であり、中世当時の史料に存在しない。
 われわれが古戦場や概説書で目にする合戦の図説は、いずれも文学史料に書かれる「□□□(兵数)を率いる△△△(人名)が○○○(地名)に布陣した」などの文章、および合戦図屏風や配陣図などの絵画史料を基に再現されたものである。
 情報源とされる軍記史料や絵画史料は、いつも型どおりに兵数・人名・地名を明記しているわけではない。しかもこれらは後の時代になって、曖昧な伝承や推測に基づいて書かれたもので、信頼度は決して高くない。同時代の史料であっても、公的な記録として後世に伝え残すつもりで書かれていないので、合戦の実像を探ることは難しい。
 一般に浸透する図説の陣形は、どれも不確かな情報と想像に基づき再現された仮設にすぎないのである。


 僕はV字型で横に広い「鶴翼の陣」を思い浮かべるのですが、この新書の冒頭で、著者は、実際に史料として残っている「鶴翼の陣」の絵図を提示しています。
 それをみると、むしろ「V」の逆向きの「八」に近い形をしているんですよね。
 そして、そのほかの史料では、また違った形の陣形が「鶴翼」とされている。
 しかも、その「鶴翼」のルーツをたどっていっても、よくわからないのです。
 

 先述したように、川中島で車懸りと鶴翼の衝突があり、三方ケ原も鶴翼と魚鱗の激突があったとされる。関ヶ原も鶴翼と魚鱗の対決だったという。もしこれらの鶴翼がドラマやゲームで描かれてきたようなV字型ではなく、『甲陽軍鑑』や『武教全書』に説明されるがごとき八の字(「ハの」字)型の陣形であったとすれば、これまでの布陣図で見てきた通念から大きく離れなければならなくなる。
 たとえば、「この戦争には戦車が参加した」と古代の史料にあったとしよう。もちろんそれは「チャリオット」(戦闘馬車)のことであって、「タンク」(走行戦闘車輛)のことではない。ここでありえない仮定をするが、もし史料を読んだ現代の歴史家が「戦車か。それならば……」と陸上自衛隊の10式戦車を再現図に表したらどうだろうか。鶴翼の陣形をV字型で想像してしまうのはこれと同じではなかろうか。


 うーむ、なるほど。
 率直に言うと、これまで慣れ親しんできた「鶴翼」「魚鱗」の概念を、これ一冊読んだだけで捨て去る勇気はないのですが、戦国時代には徹底した軍事演習とかは行えなかったでしょうし、あまりに複雑な動きを要求されるような陣形は、現実的には難しかったのではないか、というのは想像できます。


 著者は、日本の歴史にそって、軍勢の「戦い方」を考察していきます。

 足利時代初頭、陣形はただの「言葉」でしかなかった。「魚鱗の陣」といえばそういう定型があるのではなく、「魚の鱗がどういう形状だったか思い描いて、びっしり集まれ」という程度で、「ものの譬(たと)え」に過ぎなかったのではないか。言い換えれば「魚鱗の陣」とは「びっしり(集まれ)の陣」であり、「鶴翼の陣」も「ばっさり(広がれ)の陣」で、もちろん、「びっしり」や「ばっさり」に定型などない。それゆえ「逃げ足を止めろ、固まって待機しろ」で陣形を変えることが簡単にされていたのだろう。

 たしかに、実際はそのくらいだったのかもしれないな、と。


 ローマの宿敵・カルタゴハンニバルは、騎兵を使った「包囲殲滅作戦」を得意としていました。
 ギリシアやローマの戦いをみていると、彼らにはある程度「陣形」の概念があったのではないかと思われます。
(厳密にいえば、西欧でも「陣形」というより「隊形」だったのかもしれませんが)
 日本の場合は、地形的にも、平地での大規模な会戦が少なかったので、あまり「陣形」にこだわる必要性もなかったのかもしれません。


 そんななか、武田信玄上杉謙信北条氏康といった武将たち、とくに武田信玄は「陣形」の研究を綿密に行なっていたようです。
 僕は『甲陽軍鑑』は後世の人がつくったエンターテインメントで、山本勘助は実在しないか、あまり活躍していない人だった、と若い頃に聞いていたのですが、著者によると、矛盾点はかなり解消されてきており、いまでは重要な史料として扱われている、ということでした。
 やっぱりいたのか、山本勘助
 何百年の昔のことが、そうそう変わるわけがない、と思いがちなのだけれど、「歴史」もまた、どんどんアップデートされているのですね。

 これまで見てきたように「八陣」とはじめとする定型の陣形は、武田信玄が作ったものだが、塩田原や川中島村上義清上杉謙信の猛進を阻むことができず、その後にも実用された形跡がない。理論は単なる理論として、現場での有効性を失ったのだろう。その代わりに現れたのが兵種ごとに兵を集め、これを自由に並び替える五段隊形だった。これは上杉氏より始まり、武田氏。北条氏を中心に採用され、やがて全国規模に広がった。その後、武田氏が滅びるにあたり、「八陣」の存在は『甲陽軍鑑』のテキストと、武田氏遺臣の記憶にのみ伝え残されるものとなった。
 秀吉の時代から元和偃武にいたるまでの合戦記録を見渡した限りでは、信玄の「八陣」を継承した大名家はなく、朝鮮出兵の史料でも実用されたようすが見えない。換言すれば、定型の陣形を実用したのは、武田信玄ただ一人だったのである。
 戦争が日常だった時代に使われなかった定型の陣形だが、不思議なことに天下太平の徳川時代になると、机上にて復活を見ることとなる。近世の軍学者たちが過去の時代を熱心に研究するうち、再発見し、そして戦国時代に多用されていたとする思い込みが広まり、その所産として次のごとき軍記物の記述を創ってしまうのである。


 戦争を知らない学者たちが、「陣形」を広めていったのではないか、と著者は述べています。
 でも、戦争を知らないからこそ、そういう「壮大な作戦で勝負が決まる」みたいなストーリーに憧れてしまうというのは、わかるような気がするなあ。


 歴史好きであれば、興味深く読める新書だと思います。
 ただ、テレビゲームなどで遊ぶとき、ちょっとつまらなくはなるかもしれませんね。

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