琥珀色の戯言

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【読書感想】資本主義の極意 明治維新から世界恐慌へ ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容紹介
カネと資本はどう違うのか?テロから金融危機までを解く決定版!


将来不安が増す一方で、急速な世界株安が起こり、テロの暗雲が世界を覆う。なぜ、このような状況に陥ったのか? 戦争の時代は繰り返されるのか? 個々の生き方から国際情勢までを規定する資本主義の本質を解き明かす。明治期にまでさかのぼり日本独自の問題点を明らかにするとともに、資本主義の矛盾のなかで生き抜く心構えを説く。新境地を開く書き下ろし!


[内容]
序 章 資本主義を日本近代史から読み解く
第1章 日本資本主義はいかに離陸したか?――「明治日本」を読み解く極意
第2章 日本資本主義はいかに成熟したか?――「恐慌の時代」を読み解く極意
第3章 国家はいかに資本に介入したか?――「帝国主義の時代」を読み解く極意
第4章 資本主義はいかに変貌したか?――現下日本と国際情勢を読み解く極意


 明治時代、日本の「資本主義」の黎明期までさかのぼって、日本の資本主義の発展とその独自性について考察している新書です。
 佐藤優さんは、マルクスの『資本論』について、しばしば言及されているのですが、『資本論』というのは、僕にとってはかなり難解な書物でした。
 やっぱり、「過去の遺物」というイメージもありますし(佐藤さんによると、マルクスは資本主義社会ができるまでのプロセスをただひとり明確に理論家することができた人だったそうです。ただ、そこから「革命が起こって、共産主義国家にすすんでいく、という未来予想を間違えてしまったのではないか、と)。
 この新書では、歴史上起こったことに沿って「資本主義の流れ」が解説されているので、具体的で、わかりやすいテキストになっていると思います。

 では、どのようにすれば「資本主義の極意」を会得できるでしょうか。
 本書では、マルクスの『資本論』の論理と、卓越したマルクス経済学者である宇野弘蔵(1897-1977)の経済学に依拠して、議論を進めていきます。
 その理由を説明しておきましょう。
 まず、なぜマルクスの『資本論』なのか。
 資本論を分析した本は数多く出ていますが、資本主義の内在的論理を首尾一貫して説明できているのは、いまのところマルクス経済学だけだからです。
 このように言うと、「主流派の経済学である近代経済学があるではないか」と思う人もいるかもしれません。
 しかし、近代経済学では、資本主義を説明することはできません。
 というのは、近代経済学にとって、商品経済を核とする資本主義は、謎ではなく、自明の前提になってしまっているからです。近代経済学では、商品も貨幣も資本も価値中立的にあらゆる時代に存在している、という前提に立ちます。その上で、需要と供給の関係や、市場の均衡条件などを、数学的に考えていく。
 だから近代経済学者に言わせれば、どんな時代であれ一定のマーケットは存在することになります。つまり、近代経済学には、一般化したモデルだけがあり、「歴史」という発想はありません。
 すると、あらゆる時代の経済的現象が、一般的なモデルで分析されることになりますが、もともとそのモデルは商品経済が発達した時代にもとづいてつくられているわけですから、これは不当拡張のそしりを免れません。


 近代経済学では「資本主義が存在するのは自明の理で、その成り立ちについてはいまさら考えるまでもない」というスタンスがとられている、ということなんですね。
 ソ連が崩壊し、共産主義は人類には不向きなのではないか、と歴史が証明してしまった時代を経験してしまうと、そう思ってしまうこともわかる。
 でも、人類の歴史全体を俯瞰して考えると、資本主義が最良の解で、これが永続するものなのかは、わからない、としか言いようがないのです。
 もしかしたら、未来の人類は、もっと洗練された共産主義を生み出して、いまの「資本主義社会」を未開のものとしてバカにするかもしれません。

 それではなぜ、資本主義の論理を学ぶために、マルクスの『資本論』だけでなく、宇野経済学をも参照する必要があるのでしょうか。
 このことを理解するためには、マルクス経済学とマルクス主義経済学の違いと押さえておく必要があります。
 端的に言えば、マルクス主義経済学が、資本主義を打倒し、共産主義革命を起こすことを目的に組み立てられた経済学であるのに対して、マルクス主義経済学は資本主義の内在的論理を解き明かす経済学なのです。
 しかし、前者は1991年のソ連崩壊によって、有効性がないことは明らかになりました。私たちがこれから学ばなければならないのは、もちろんマルクス経済学のほうです。
 ただ、このように「マルクス」の名が付いた二種類の経済学が生まれたことには理由があります。それは、マルクスの『資本論』のなかには、二つの魂があるからです。
 第一は、資本主義社会に対する冷徹な観察者の魂(マルクス経済学にいたる)であり、第二は、資本主義社会を革命によって打倒し、理想的な社会をつくろうとする共産主義革命家としての魂(マルクス主義経済学にいたる)です。
 このうち、革命家としての魂が強く出ている部分は、論理構成が崩れてしまっているため、資本主義の内在的論理を理解する上では躓きの石になってしまいます。


 まあ、マルクスさんにとってみれば、自分にとって、より情熱を燃やした部分のほうを「躓きの石」と言われてしまっては、心外かもしれませんが……
 マルクス=古い、と、全否定するのではなく、有用な部分はきちんと評価していくことが大事なんですね。


 この新書のなかで、第一次世界大戦による「戦争バブル」で、日本の海運業や造船業が大きく成長したことが採りあげられています。
 世界中で船が不足したため、「どんなボロ船でも引っ張りだこ」になって、日本には「船成金」が大勢生まれました(その反動で、大戦後に急激に没落してしまった人も少なくないのですが)。

 この時期に、ようやく日本は資本輸出を行なうようになります。とくに紡績業は、安い労働力を求めて、中国に次々と工場を建てていきます。
 工場労働者も増えて、「労働力の商品化」がさらに社会を覆っていくことになる。しかし本業として見ると、農業人口のほうが多い。農業に関しては、地主ー小作人の関係が温存されていますから、貧しい農民にトリクルダウン(富裕層が豊かになったあと、貧しい者にも富が行きわたること)は起きないわけです。
 では、工場労働者の賃金はどうだったかというと、ここでもトリクルダウンは起きていません。大戦景気で物価は急騰して、景気はよくなるかに見えますが、労働者の実質賃金はむしろ減っています。したがって格差も急激に拡大していくわけです。
 その理由は明らかでしょう。一章で説明したように、労働者の賃金は、利益の分配として支払われるものではないからです。
 資本家は、商品の生産に必要な材料として労働力を購入しているにすぎません。材料費なのだから、安ければ安いほどいい。だから、未曾有のバブルが起きても、労働者はその恩恵にあずかることはできないのです。


 まさに「身も蓋もない話」なのですが、これって「アベノミクスで株価が上がって、景気が良くなった、と言われても、市井の人々の暮らし向きがよくなった感覚に乏しい」のと同じですよね。
 結局、資本家は儲けたお金を労働者に「分配」することはない。
 もちろん、それなりの「賃上げ」はあるかもしれませんが、物価の上昇などを考慮すると、実質賃金は変わらない。
 日本経済にとって、未曾有の好景気だった時期ですらそうだったのですから、いま、多少景気が良くなったところで、トリクルダウンなどというものに、期待はできそうにありません。

 
 『蟹工船』は講座派的で、リアリズムに欠ける、なんて話も、文学論として興味深いものがありました。
 近年、ちょっとした『蟹工船』ブームがありましたが、佐藤さんによると、あれは「正しい階級闘争の仕方」についてのマニュアル小説なのだそうです。
 そうか、そういう見方もあるのか。


 また、「国家が徴税によって再分配を行なう」という「ピケティ・モデル」は、ファシズムの経済論に容易に転じてしまうことも指摘しています。

 ムッソリーニは、資本家に指示をして、企業の内部留保と労働者の賃金に分配させました。イタリア・ファシズムでは、国家と労働者と資本家の三者委員会方式で賃金を決定したのです。安倍首相も財界に対して、内部留保を吐き出して賃上げすることを要請しました。
 つまり、ピケティ・モデルを強圧的に実践すれば、それはファシズム経済論になってしまうわけです。


 佐藤さんは、いまの資本主義社会で、どう生きていけばいいのか?という問いに対して、次のように仰っています。

 まず大前提として、お金を無視した生き方をしてはならないことを強調しておきましょう。
 資本主義がもたらす閉塞した状況を捉えて、お金を超越するような生き方と推奨する人が増えてきました。たとえ年収が100万円未満でも豊かに暮らしていくことができる、お金をつかわずに大自然のなか自給自足でシンプルに生きるのが素晴らしい……。こういった生き方は現代では貴重ですし、彼らの実践には学ぶところも多いでしょう。しかし、万人が彼らのように生きていけるかというと、それは違う。
 お金を馬鹿にするあまり、悲惨な境遇に陥ってしまう人はけっして少なくありません。「貧乏でもいいんだ」と、アルバイトで食いつなぐ生活を続けていたら、いざ大きな病気をしたときに治療代も出ないようなことになる。あるいは、年を重ねていくうちに、バイトで雇ってもらえなくなるかもしれない。
 資本主義社会では、お金で商品やサービスを購入します。「カネなんてなくても生きていける」という考え方を過剰に信奉するのは、とても危険なことです。
 どれだけ閉塞状況に陥っているとはいえ、序章で述べたように、予見される未来に資本主義に代わる新たなシステムが到来することは考えられない。私たちは、死ぬまで資本主義とつきあっていかなければなりません
 しかし、資本主義とつきあうことと、資本の論理に絡め取られることは違います。


(中略)


 資本が生産する商品を購入する人の大多数は労働者です。労働者が生きるのに困るようでは、システムは存続しません。だから働けば、それなりに暮らしていける。
 ただし、資本主義の内在的論理を理解すれば、死ぬほど働いたところで、給料が何十倍にも膨れ上がったりしないことがわかるでしょう。ならば、命を削ってまでカネを求めるような愚かな選択はしないで済むようになるはずです。
 高望みはせず、しかしあきらめないこと。飛び交う情報に躍らされず知識をたくわえ、自分のアタマで考えること。平凡なようですが、これが資本主義とつきあうキモです。

 
 なんだか、有名ブロガーが2人くらい隠れているような文章なのですが、たしかに、「高望みはせず、しかしあきらめないこと」くらいが、僕の身の丈にも合っているような気がします。


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