琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】1989年のテレビっ子 ☆☆☆☆☆


内容紹介
それは『オレたちひょうきん族』が終わり、『ガキの使いやあらへんで!!』が始まった年。
それは『ザ・ベストテン』が、裏番組の『みなさんのおかげです』に追い落とされた年。
ダウンタウンウッチャンナンチャンが『笑っていいとも! 』のレギュラーになった年。
テレビが変わった年「1989年」を機軸に、BIG3やお笑い第三世代ほか、多くの芸人とテレビマン、
そして、いわき市の「僕」のそれぞれの青春時代を活写した群像劇にして、圧倒的なテレビ賛歌。


 1989年、か……
 この本を手にとった人は誰しも、その年に自分が何をしていたか、どんなテレビ番組を観ていたか、誰と過ごしていたかを思い出さずにはいられないはずです。
 僕はその年、高校生で、全寮制の高校に属しており、人生でいちばんテレビを観ていない時期だったんですよね。
 1970年代のはじめに生まれた僕にとっては「絶対王者」だった『8時だョ!全員集合』の王座が『オレたちひょうきん族』によって揺らいでいった時代は、何か「革命」が起こっていたような気がしていたのです。
 僕は当時、『ひょうきん族』にものすごく肩入れして、『全員集合』なんて子供向け、もう古い!と断じていたんですよね。今から考えたら、お前だって子供だろ、って話なんですが。
 でも、『全員集合』が終わってみると、『ひょうきん族』も一緒に輝きを失ってしまったみたいに、急につまらなくなっていったのが不思議でした。
 「人気」の世界って、頂点に辿り着いてしまうと、あとはもう、落ちるだけだものなあ。

 1989年10月7日、18時30分。
オレたちひょうきん族』最終回を翌週に控え、2時間半にわたる「さよなら ひょうきん族」と題したグランドフィナーレの生放送が始まった。
 その日、東京では、『ひょうきん族』終了を惜しむかのように、雨が降っていた。
 進行を任されたのは明石家さんまだった。当時34歳。
 番組開始当初こそ、いち若手芸人にすぎなかったさんまだったが、『ひょうきん族』の人気の上昇とともに、さんまの地位も上がっていった。そして番組終盤には名実ともに押しも押されもせぬ主役の一人になっていた。『オレたちひょうきん族』の功績は数え切れないほどあるが、今思えば明石家さんまの立身出世・成長物語としての側面もあった。
ひょうきん族』終了のニュースが伝えられたのは、その年の8月だった。「オバケ番組」と呼ばれた裏番組『8時だョ!全員集合』(TBS)を打ち破り、終了に追い込んだ『ひょうきん族』は、代わって始まった『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)の人気に苦戦していた。視聴率も下がり、出演者たちは『ひょうきん族』で得た人気ゆえ、多忙を極め、モチベーションも低下していた。
 たけしに至っては「オバケが出た」などという理由で番組収録を休むことが増えていた。「出て、出て、休んで、休んで」「ねぇ来週どうするの?」「わかんない」「出て、出て!」というたけしとさんま2人が扮する「カスタネットマン」なるキャラクターが生まれたほどだ。
 だから『ひょうきん族』を終わらせるという最終的な判断を託されたのはさんまだった。

 この本を読んでいると、「笑い」には、「事前にきっちり作りこんで、その完成形を観客・視聴者に見せるもの」と「アドリブをどんどん入れて、演者のキャラクターと、即興性で観客・視聴者を巻き込んでいくもの」の二つの潮流があって、それが交互に流行り廃りを繰り返しているようにみえます。
 『全員集合』は前者で、『ひょうきん族』は後者だった。
 そして、人々は前者にマンネリを感じると後者に意外性を求め、後者に飽きると、前者に「作り込んだ高いレベルの芸」を期待するようになる。
 『ひょうきん族』を追い落としたのは、ドリフターズ加藤茶志村けんが組んだ『ごきげんテレビ』でした。


 著者の戸部田誠さんは、これまでの著書では、ひとりひとり(あるいは、ひと組ひと組)の芸人にスポットをあて、その芸人を中心に描く「紀伝体」形式が多かったのですが、この『1989年のテレビっ子』では、テレビバラエティのターニングポイントとなった1989年を中心に、「その時代の頂点を目指した芸人たち」を「編年体」で描いています。
 もちろん、さまざまなメディアに紹介されたり、著書に書かれてたりしていた芸人や関係者たちの「証言」をまじえつつ。
 著者は、あえて「関係者に直に取材するのではなく、当時のメディアに記録されているものから、時代を切り取る」ことにこだわっています。
 正直、それが正しいのかどうか、僕にはわからないんですよ。
 やっぱり、「肉声」にはインパクトがあると思うし、いまの著者なら、芸人さんに直接取材することだって、不可能ではないはず。
 でも、この形式だからこそ、この本と、著者は「テレビのこちら側」にいて、僕のそばでテレビバラエティを見守っているような息づかいを感じることができるのです。
 「本人の言葉だから真実」とは限らないし、時間が経てば、人の記憶って、いろいろ上書きされるものでもありますし。


 この本を読んでいると、芸人の世界の過剰さというか、凄まじさみたいなものにゾクゾクしてしまうところがたくさんありました。

「1千万円」
 (島田)紳助が研究の成果を書き記したノートの裏表紙にはそんな殴り書きがしていた。表紙に書かれたタイトルは「漫才教科書」。
「それだけの値打ちはある教科書だという意味なのだが、考えてみれば、その何十倍もの価値のあるものだった」
 (島田)洋七をはじめ、先輩芸人たちの漫才が徹底的に分析して書き記されていた。良いと思う部分には青線を引き、悪いと思う部分んは赤線を引く。それを続けていくことで、青線と赤線の量でその漫才師の成長の度合いが一目瞭然だった。
「18歳の僕がそのノートをつけていたのは、単純に青線だけを集めたら、完璧な漫才ができるんじゃないかと考えたからだ。同様に赤い線の部分も役に立つ。そこを見れば、自分が絶対にやってはいけないことがわかるのだ」
 だからといって、青線の部分をそのまま自分ができるわけではない。自分には何ができて、何ができないのか。その自己分析も「漫才教科書」に書き込まれていった。
 紳助はB&Bの漫才をすべて書き起こし、その漫才の何がおもしろいのか、他の漫才とどう違うのかを分析していった。
「そうすると、ひとつのパターンが見えてくる。
 そのパターンに、僕はまったく違うネタを当てはめていったのだ。
 ネタはまったく違うわけでから、誰も僕が洋七さんの真似をしているとは思わない。でも、さすがにあの人(洋七)だけは、僕がパターンをパクったということに気がついた」
 紳助は、B&Bの漫才を徹底的に研究し、その「システム」を”パクった”のだ。

 コント55号から、ドリフターズ、B&B、紳助竜介、ツービート、明石家さんまタモリとんねるず……
 彼らのネタを、この本で得たイメージを持って、もう一度見返してみたくなるのです。
 「クラスでいちばん面白いヤツ」が集まる場所で、さらに突き抜けるためには、何が必要だったのか。
 まあ、そのなかで、タモリとんねるずのように「別ルート」を上がって登頂してしまう人たちがいるのも、芸人の世界の面白さなんでしょうね。

 やすし・きよし以前の漫才には「芸」があった。けれど、マンザイブーム以後の漫才には「芸」がなくなったというのだ。マンザイブームを経て、『オレたちひょうきん族』に至り、テレビは「演芸」の時代から、「ネタ」の時代をも飛び越え、「テレビ芸」すなわち、「人」そのものを楽しむ「キャラクター」の時代へと突入していく。
「笑いの質」が変わったのだ。そんな時代の変化に敏速に反応し生き残ったのは、マンザイブームの先頭を走った中ではビートたけし島田紳助だけだった。横澤はこう語っている。
「笑いの質が変わったのはどういうことかといえば、『芸よりもキャラクター』の時代になったということだ。若い人は、芸よりもキャラクターやセンスに共感するのだ。芸にはどうしても正統性といったものや権威の匂いがする。若者たちはそうした匂いをうさん臭いものとして感じてしまう」
 もちろん、『ひょうきん族』以前も芸人たちには「キャラクター」があった。だが、それらの多くは、ネタを前提にした作られた偶像のようなものだっが。その本人の本質とかけ離れた「キャラクター」であることが少なくなかった。だが、『ひょうきん族』以降、その芸人の「リアル」な部分を反映した「キャラクター」を見せるようになっていったのだ。さんまも当時、このように分析している。
「リアルなもんがウケるんちゃいますか。(略)私生活からアイデア出して、それをどう脚色していくかが勝負やと思いますよ」


 最近の芸人には「芸」がない、なんて言う人もいるのですが、実際は、けっこう前から、そう言われ続けてきたんですよね。
 そして、多くの観客は「その人のリアルを反映したキャラクター」に共感しているのです。
 もちろん、「芸」がつまらなければ、どうしようもないのですが。


 書かれているのは「テレビの話」なのですが、読んでいると、ふと、自分の人生を振り返ってしまう、そんな一冊です。
 あの頃は、誰もが「テレビっ子」だったのだよなあ。


アクセスカウンター